8章
江戸の町は日々賑わいを増していた。日本橋の橋上には商人や町人が行き交い、魚河岸には潮の匂いが漂い、呉服屋の反物は陽光に輝いていた。町人の服装は華やかで、商人同士のやり取りは熱を帯び、町全体が活気に満ちていた。庄左衛門の店もまた繁盛し、農具や肥料、麻布や薬種、油や呉服が人々の生活を支えていた。
だが、繁栄の影には試練が潜んでいた。江戸では幕府の規制が厳しく、株仲間や座の仕組みが商人を縛っていた。問屋制度の中で、利益を優先する商人たちは「三方よし」を嘲笑し、ただ儲けを追い求めた。ある日、日本橋の市場で、利益だけを追う商人が声を張り上げた。
「安く売れば儲かる。客の喜びなど要らぬ。世間のことなど知ったことか」
庄左衛門は静かに答えた。
「儲けは一時のもの。人を生かし、世を潤す商いこそが未来を育てる」
しかしその言葉はすぐには受け入れられなかった。利益を追う商人たちは「理念など空言だ」と嘲笑し、庄左衛門の商いを揺さぶった。彼の心もまた揺らぎかけた。利益を優先すべきか、理念を守るべきか。嵐に遭い船が傾きかけたとき、荷を守るか人を守るかの選択を迫られた。盗賊に襲われたとき、利益を守るか命を守るかの葛藤に苦しんだ。理念は試され、彼の心は揺れた。
嵐の夜、風は唸りを上げ、船は軋み、波は甲板を叩いた。商人たちは荷を必死に押さえ、船頭は舵を握りしめ、庄左衛門は「荷か人か」と心を裂かれる思いで迷った。盗賊の襲撃では、闇の中に刃が光り、怒号が響き、荷を奪われそうになる中で、庄左衛門は仲間を守るために立ち上がった。試練は苛烈であり、理念は揺さぶられ続けた。
そのとき、町の人々の声が彼を支えた。大工は「材木を売れば家が建ち、人が住む」と語り、鍛冶屋は「農具を売れば田が耕され、食が満ちる」と笑った。商人は「布を売れば人が着飾り、町が華やぐ」と語り、農民は「肥料を買えば田が肥え、子らの腹が満たされる」と喜んだ。船頭は「荷を運べば町が潤う」と声を上げ、子どもたちは「父母の商いが町を育てる」と誇らしげに語った。江戸の町人も「近江商人の品は信頼できる」と口にし、理念は町全体に浸透していった。群像の声が交錯し、庄左衛門の心を支えた。
「三方よし」は空言ではない。人々の生活に根ざした理念であり、町を潤し、世を育てる力であった。庄左衛門はそのことを再び確信した。試練は理念を揺さぶったが、揺らぐことなく守り抜かれた。
夜、庄左衛門は江戸の町の川辺に立ち、月明かりに照らされた水面を見つめた。安土の炎の記憶はまだ胸に残っていたが、ここには新しい光があった。水面に映る月は、理念の象徴であり、未来への希望であった。
「試練にさらされても、理念は揺らがぬ。これこそ近江商人の誇りだ」
庄左衛門は静かに呟き、暖簾を掲げ直した。




