1章
安土城下の町は、夕暮れの光を浴びて黄金色に染まっていた。琵琶湖から吹き上げる風が町筋に並ぶ商家の暖簾を揺らし、鉄砲鍛冶の槌音や商人たちの呼び声が絶え間なく響いている。織田信長が築いたこの城下は、まさに天下の中心であった。楽市楽座の恩恵を受け、商人たちは自由に商売を営み、町は活気に満ちていた。
国友屋庄左衛門の店もその一角にあった。店先には国友村から仕入れた鉄砲が整然と並び、奥には飛騨から運ばれた硝石の袋が積まれている。鉄砲と火薬原料を扱う武器問屋として、庄左衛門は信長の軍需を支える一人であった。彼の商売は危険と隣り合わせでありながら、戦国の世においては確かな需要を持っていた。
「庄左衛門殿、また新しい火縄銃が入ったと聞いたが」 常連の武士が店に顔を出す。庄左衛門は笑みを浮かべ、鉄砲を手に取って見せた。 「国友の名工が鍛えた品でございます。射程も安定し、火薬の消費も少なく仕上がっております」 武士は満足げにうなずき、値段の交渉を始める。こうしたやり取りが日常であり、庄左衛門は商人としての誇りを胸に抱いていた。
町筋には大工町、鍛冶屋町、畳屋町と職人の町が並び、夕刻には炊事の煙が立ち上る。子どもたちが走り回り、商人たちは帳簿を片手に声を張り上げる。鉄砲鍛冶の槌音は町の鼓動のように響き、硝石を運ぶ荷車が軋む音が続く。安土城下は、戦国の世にあっても繁栄の象徴であった。
しかし、その夜。町の空気は一変した。
本能寺で信長が討たれたとの報が、安土に駆け込んできたのである。誰もが耳を疑い、次いで恐怖に包まれた。天下人の死は、城下の繁栄を根底から揺るがす出来事だった。庄左衛門もまた、信じられぬ思いで報を聞いた。だが、迷う暇はなかった。安土城が炎に包まれたとの知らせが続き、町は騒然となった。
「火事だ! 城が燃えている!」 「敵が攻めてくるぞ、逃げろ!」
人々は荷をまとめる暇もなく、我先にと町を飛び出していく。泣き叫ぶ子ども、荷車を引きずる商人、武士たちの怒号。僧侶は経を唱えながら逃げ、農民は米俵を抱えて走り、女たちは家財を背負って泣き叫ぶ。誰もが天下人の死をどう受け止めてよいかわからず、ただ恐怖に突き動かされていた。町は一瞬にして混乱の渦に呑まれた。
庄左衛門は店の奥に積まれた硝石の袋を見つめた。火薬の原料であるそれは、炎に触れれば爆発を起こす危険を孕んでいた。守るべきか、捨てるべきか。逡巡の末、庄左衛門は家族を呼び寄せた。
「妻よ、子らを連れて逃げよ。荷は捨てる。命あっての商いだ」 妻は涙を浮かべながらうなずき、子らの手を引いて町を出る。庄左衛門は最後に店の暖簾を外し、胸に抱いた。燃え盛る炎が夜空を赤く染め、安土城の威容は崩れ落ちていく。瓦が砕ける音、柱が軋む音、火薬の匂いが鼻を突き、煙が目を刺す。人々の悲鳴と炎の轟音が交錯し、町は地獄のような光景となった。
その炎を見つめながら、庄左衛門は胸に痛みを覚えた。誇りは崩れ、疑念が芽生え、自責が心を締め付ける。自分が売った鉄砲が、この炎を生んだのではないか。戦乱を支えた商売が、結局は人を殺し、町を焼き尽くすことに繋がったのではないか。誇りと虚しさが交錯し、心は揺れ動いた。だがその揺れの果てに、彼は決意を見出した。武器を売る商人として生きるのではなく、人を生かす商人へと変わらねばならない。
翌朝、町は廃墟と化していた。昨夜の轟音が嘘のように、瓦礫の町には鳥の声だけが響いていた。焼け残った家々も、恐怖に怯えた人々の姿はなく、静まり返っている。瓦礫の中に立ち尽くす庄左衛門の耳に、まだ炎の余韻が残っていた。妻は子らを抱きしめ、涙を流している。庄左衛門は彼らを見つめ、決意を固めた。
数日後、豊臣秀次の使者が安土に現れた。商人や職人を近江八幡へ移住させ、新たな城下町を築くとの命である。庄左衛門もその一人に選ばれた。安土での商売は終わりを告げ、彼は新しい町へと歩みを進めることになった。
移住の道中、庄左衛門は琵琶湖の湖面を見つめた。湖は穏やかに波を打ち、陽光を反射して輝いている。その光景に、彼は一つの決意を抱いた。戦乱の世は終わりを迎えつつあり、新しい時代が始まろうとしている。近江八幡で築かれる町は、その象徴となるだろう。変貌の始まりが、ここにあった。




