図書館の最後の本
第一章 消えた学生
東京都心にある名門私立大学、聖心学院大学。秋の夕暮れが美しいキャンパスを染めていたが、学生課長の西川雄一(52)の表情は曇っていた。
「また一人、行方不明です」
向かい合って座る学生相談室のカウンセラー、竹内佐織(35)に西川が報告した。
「それで何人目ですか?」
「この半年で4人目です。いずれも優秀な学生ばかり」
行方不明になったのは、文学部3年の森田真一(21)、経済学部2年の佐藤美咲(20)、理工学部4年の田中健太(22)、そして今日届け出があった法学部3年の山田花音(21)。
「共通点は?」竹内が尋ねた。
「全員、成績優秀。奨学金を受給。そして…」西川は言いにくそうに続けた。「全員、図書館の常連でした」
聖心学院大学の中央図書館は、創立者の寄付により建設された7階建ての立派な建物だった。蔵書数は50万冊を超え、多くの学生が利用していた。
「警察には?」
「一応届けていますが、成人の家出として扱われています。事件性はないと」
竹内は資料に目を通した。失踪した学生たちはいずれも、ある日を境に突然大学に来なくなり、下宿先からも姿を消していた。家族にも連絡を取っていない。
「私が調べてみましょうか」
「お願いします。このままでは大学の評判に関わります」
第二章 図書館の守人
翌日、竹内は中央図書館を訪れた。
図書館長の橋本教授(58)は文学部の重鎮で、この図書館を我が子のように愛していることで有名だった。
「失踪した学生の件ですか」橋本教授は困惑した表情を見せた。「確かに皆、よく図書館を利用していました。特に7階の特別閲覧室を」
7階の特別閲覧室は、大学院生と一部の優秀な学部生のみが利用できる静かな空間だった。貴重書や古典籍も所蔵されている。
「何か変わったことは?」
「そういえば…」橋本教授が思い出すように言った。「皆、最近『赤い本』を探していました」
「赤い本?」
「詳しくは分からないのですが、赤い装丁の古い本らしいです。でも、該当する本が見つからなくて」
竹内は7階の特別閲覧室を案内してもらった。静寂に包まれた空間に、重厚な木製の机と椅子が並んでいる。壁一面には古い洋書や和書が並んでいた。
「ここの管理は誰が?」
「司書の岡田さんです」
司書の岡田真由美(28)は、清楚な外見ながら図書館の蔵書について驚くほど詳しい知識を持っていた。
「失踪した学生さんたちのことですね」岡田司書は心配そうに眉をひそめた。「皆さん、とても熱心に勉強されていました」
「赤い本について聞いたことは?」
岡田司書の表情が曇った。「実は…皆さん、同じことを聞かれたんです。でも、そんな本は見つからなくて」
「どんな本だと言っていましたか?」
「『真理について』という題名で、著者は不明。19世紀の哲学書らしいと」
竹内は帰り際に、失踪した学生たちがよく座っていたという席を確認した。窓際の机で、7階から見下ろすキャンパスの景色が美しい場所だった。
第三章 哲学教授の証言
翌日、竹内は哲学科の教授、長谷川清(45)を訪ねた。失踪した学生たちは全員、長谷川教授の哲学概論を受講していた。
「確かに皆、優秀な学生でした」長谷川教授は深いため息をついた。「特に森田くんは将来を嘱望していたのに」
「『真理について』という本をご存知ですか?」
長谷川教授の表情が変わった。「なぜその本のことを?」
「失踪した学生たちが探していたそうです」
「…実は、私もその本のことは知っています。しかし、それは存在しない本なんです」
竹内は驚いた。「存在しない?」
「19世紀のドイツの哲学者、ハインリヒ・ミュラーという人物が書いたとされる幻の書物です。でも、ミュラー自体が架空の人物である可能性が高い」
「では、なぜ学生たちは?」
「おそらく、誰かがその本の存在を仄めかしたのでしょう。学生は好奇心旺盛ですから」
長谷川教授は続けた。「実は、10年ほど前にも同じような騒動がありました。ある学生が『真理について』という本を探し回って、結局見つからずに大学を辞めてしまった」
「その学生の名前は?」
「確か…高橋という名前でした」
第四章 古書店の老人
竹内は大学周辺の古書店を回って情報を集めることにした。3軒目に訪れた「文雅堂」で興味深い話を聞いた。
店主の老人、吉田重雄(72)は長年この地域で古書店を営んでいる。
「『真理について』ですか」吉田老人は苦笑いを浮かべた。「時々、若い人が探しに来ますね」
「実在する本ですか?」
「さあ…実は私も一度だけ見たことがあるんです。30年ほど前に」
竹内は身を乗り出した。
「古い洋館を整理していた時に見つけたんです。赤い革装丁の美しい本でした。でも、中を開いてみると…」
「中には何が?」
「真っ白なページでした。何も書かれていない」
吉田老人は遠い目をした。「不思議な本でした。表紙には確かに『Über die Wahrheit』(真理について)と書かれていたのに」
「その本は?」
「すぐに売れました。大学の関係者だと言う男性が高値で買って行かれました」
「お名前は覚えていますか?」
「確か…橋本という方でした」
竹内の心臓が早鐘を打った。図書館長の橋本教授のことだろうか。
第五章 夜の図書館
その夜、竹内は図書館に忍び込むことにした。管理員のアルバイトをしている学生の協力を得て、午後10時に館内に入った。
7階の特別閲覧室は月明かりに照らされて幻想的だった。竹内は失踪した学生たちがよく座っていた席を詳しく調べた。
机の引き出しを開けると、小さな紙片が見つかった。森田真一の筆跡で「B-7-1923」と書かれている。
これは図書館の分類番号だった。竹内は該当する書架を探した。
B-7-1923の場所には、古い哲学書が並んでいたが、1冊だけ空きがあった。そこに小さなメモが挟まっていた。
「午後11時、屋上にて。—H」
Hは橋本教授のイニシャルかもしれない。
時計を見ると、午後10時45分だった。
第六章 屋上での遭遇
竹内は屋上への階段を登った。7階建ての図書館の屋上からは、夜景に包まれたキャンパスが一望できた。
午後11時ちょうど、エレベーターの音が聞こえた。
現れたのは橋本教授だった。しかし、彼は一人ではなかった。後ろから岡田司書も現れた。
「竹内さん?なぜここに?」橋本教授が驚いた。
「失踪した学生たちのことを調べています。あなた方が何かご存知では?」
岡田司書が震え声で言った。「話さないと…もう限界です」
橋本教授が彼女を制止しようとしたが、岡田司書は続けた。
「学生たちは…まだ生きています」
竹内は困惑した。「どういうことですか?」
「隠しています。地下に」
「地下?」
橋本教授がため息をついた。「話すしかないようですね」
第七章 地下室の秘密
橋本教授に案内されて、竹内は図書館の地下へ降りた。公式には地下1階しかないことになっているが、実際には地下2階が存在した。
「ここは元々、防空壕として作られました」橋本教授が説明した。「戦後、大学が拡張工事をする際に封印されたんです」
地下2階は広いホールのような空間になっていて、そこに簡易ベッドが4台置かれていた。
「学生たちは?」
「今は外出しています」岡田司書が答えた。「夜中に散歩に出かけることがあるんです」
竹内は呆然とした。「なぜこんなことを?」
橋本教授が重い口を開いた。「『真理について』の本当の意味を教えるためです」
「本当の意味?」
「その本は確かに存在しました。しかし、中身は空白だった。それが真理なんです」
橋本教授の説明によると、「真理について」という本は、真理とは既存の知識や書物にあるのではなく、自分自身の内側にあるということを示すための装置だった。
「空白のページは、読む人自身が真理を書き込むためのものなんです」
「それで学生たちを監禁したと?」
「監禁ではありません」岡田司書が反論した。「彼らは自分の意志でここにいます」
その時、階段から足音が聞こえた。
第八章 学生たちの証言
現れたのは、失踪したはずの4人の学生たちだった。皆、元気そうに見えたが、どこか様子が変だった。
「竹内カウンセラー?」森田真一が驚いた声を上げた。「なぜここに?」
「皆、心配していたのよ。家族も、大学も」
「心配?」佐藤美咲が首をかしげた。「でも僕たちは真理を学んでいるんです」
田中健太が続けた。「橋本先生と岡田さんが、本当の勉強を教えてくれています」
山田花音が微笑んだ。「ここは素晴らしい場所です。外の世界の騒音から離れて、純粋に学問に集中できます」
竹内は学生たちの表情に違和感を覚えた。まるで洗脳されているかのような、不自然な統一感があった。
「でも、家族は心配している。大学も」
「家族?」森田真一が困ったような顔をした。「僕たちには新しい家族があります」
彼は橋本教授と岡田司書を指した。
「この人たちが、僕たちの本当の先生です」
第九章 真実の露呈
竹内は状況を把握しようと努めたが、学生たちは明らかに正常な判断力を失っていた。
「先生方、これは教育ではありません。監禁です」
橋本教授が穏やかに答えた。「竹内さん、あなたには理解できないかもしれませんが、これは高度な教育実験なんです」
「実験?」
「現代の大学教育は間違っています。学生たちは表面的な知識ばかり詰め込んで、真の学問の本質を見失っている」
岡田司書が付け加えた。「ここでは、学生たちは自分自身と向き合い、本当の知識を得ることができます」
「そのために拉致したのですか?」
「拉致ではありません」森田真一が反論した。「僕たちは自分の意志でここにいます」
しかし、竹内は学生たちの食事に何か薬物が混入されている可能性を疑った。彼らの瞳は異常に輝いており、判断力が明らかに低下していた。
「皆さん、ちょっと外の空気を吸いませんか?」
「外?」佐藤美咲が困惑した。「でも外は危険です。橋本先生がそう言いました」
竹内は携帯電話を取り出したが、地下では電波が入らなかった。
第十章 過去の事件
翌朝、竹内は警察に連絡を取った。しかし、学生たちが自分の意志でそこにいると主張している以上、すぐに動くことは難しかった。
竹内は別のアプローチを取ることにした。10年前に同じような騒動を起こして大学を辞めた「高橋」という学生について調べることにした。
学生課の古い記録を調べると、高橋直人(当時22歳)という学生が見つかった。彼は優秀な哲学科の学生だったが、突然大学に来なくなり、最終的に自主退学していた。
竹内は高橋の現在の住所を調べて訪ねてみることにした。
高橋直人(32)は現在、精神科病院に入院していた。
「高橋さんですか?」
高橋は痩せた体に虚ろな目をした男性だった。竹内の顔を見ると、怯えたような表情を見せた。
「あなたは…橋本先生の?」
「いえ、学生相談室の竹内です。聖心学院大学の」
高橋の顔に安堵の表情が浮かんだ。
「そうですか…まだあの人は大学にいるんですね」
「橋本教授のことを覚えていますか?」
高橋の表情が暗くなった。「忘れられるわけがありません。あの人に人生を狂わされたんですから」
第十一章 高橋の証言
高橋直人の話は衝撃的だった。
「10年前、僕も『真理について』という本を探していました。橋本教授に勧められて」
高橋によると、橋本教授は優秀な学生を選んで特別な指導を行っていた。最初は普通の哲学の議論だったが、次第にエスカレートしていった。
「橋本教授は、既存の学問は全て間違いだと言いました。本当の真理は、外界との接触を断って、純粋な思索の中でのみ得られると」
「それで?」
「僕は彼の言葉を信じて、図書館にこもるようになりました。食事も橋本教授と岡田司書が用意してくれました」
「岡田司書も関わっていたんですか?」
「彼女は橋本教授の教育理念に心酔していました。学生のためだと本気で信じていたんです」
高橋は続けた。「でも、僕は次第におかしくなっていきました。現実と妄想の区別がつかなくなって」
「どうやって脱出を?」
「ある日、偶然にも家族が図書館に迎えに来たんです。僕の様子がおかしいことに気づいて、強制的に病院に連れて行かれました」
高橋は竹内の手を握った。「お願いです。今の学生たちを助けてください。このままでは僕と同じになってしまいます」
第十二章 救出作戦
竹内は警察と大学当局に高橋の証言を報告した。今度は本格的な捜査が開始された。
しかし、橋本教授と岡田司書は警戒を強めていた。地下室への入口は封鎖され、学生たちも姿を見せなくなった。
「別の出入口があるはずです」竹内は刑事に説明した。
調査の結果、図書館の裏手にある古い倉庫から地下室への秘密の通路が発見された。
深夜、警察と大学職員が合同で救出作戦を実行した。
地下室では、4人の学生が机に向かって何かを書いていた。彼らの前には、例の赤い本「真理について」が置かれていた。
「皆さん、助けに来ました」竹内が声をかけた。
しかし、学生たちは振り返らなかった。まるでトランス状態に陥っているかのようだった。
橋本教授が現れた。「邪魔をしないでください。彼らは真理に到達しようとしているんです」
「これは教育ではありません。監禁と洗脳です」
「洗脳?」橋本教授は笑った。「私は彼らを俗世間の毒から解放しただけです」
岡田司書も現れたが、彼女の表情は困惑していた。学生たちの様子があまりにも異常だったからだ。
第十三章 真理の正体
警察が学生たちを保護している間、竹内は赤い本「真理について」を手に取った。
確かに中身は空白のページだった。しかし、よく見ると、薄い文字で何かが書かれているのが見えた。
特殊なインクで書かれた文字を解読すると、それは薬物の調合法だった。
「これは…」
橋本教授が書いた真の「真理について」は、学生たちを精神的に支配するための薬物についての記録だったのだ。
空白に見えるページに、実際には見えないインクで詳細な洗脳の手法が記されていた。
「橋本教授、これはなんですか?」
橋本教授の表情が変わった。「それは…私の研究ノートです」
「研究?学生を使った人体実験じゃないですか」
岡田司書が青ざめた。「先生…まさか、あの薬は」
「君には関係ない」橋本教授が岡田司書を睨んだ。
岡田司書は震え声で言った。「私…知らなかったんです。学生たちのためだと思って」
彼女は涙を流しながら続けた。「食事に混ぜていた粉末が、まさかそんなものだったなんて」
第十四章 動機の解明
橋本教授は観念したように語り始めた。
「私は本当に学生のためを思っていたんです。現代社会は若者を堕落させている。SNS、ゲーム、くだらない娯楽…」
「それで薬物を使って支配したと?」
「支配ではありません。純粋な状態に戻しただけです。彼らは雑念から解放されて、真の学問に集中できるようになった」
橋本教授の歪んだ教育理念が明らかになった。彼は自分が学生たちを「救っている」と本気で信じていた。
「でも、高橋さんは精神を病んでしまいました」
「それは…彼が弱かったからです。真の真理に耐えられなかった」
竹内は呆れ果てた。橋本教授は自分の行為が犯罪であることを理解していなかった。
岡田司書は完全に騙されていた。彼女は橋本教授を信頼し、彼の「教育実験」に協力していたのだ。
「学生たちは回復するんでしょうか?」岡田司書が心配そうに尋ねた。
医師の診断によると、学生たちは薬物による一時的な意識障害を起こしていたが、適切な治療により回復可能とのことだった。
第十五章 それぞれの結末
事件から3ヶ月後。
橋本教授は監禁罪、薬事法違反で起訴された。岡田司書は執行猶予付きの有罪判決を受けた。
4人の学生たちは全員回復し、大学に復学した。ただし、しばらくはカウンセリングを続けることになった。
森田真一は竹内のオフィスを訪れた。
「あの時は、本当にありがとうございました」
「もう大丈夫?」
「はい。でも、あの経験は決して忘れません。人を簡単に信用してはいけないということを学びました」
佐藤美咲、田中健太、山田花音も同様に回復していた。彼らは事件について多くを語ろうとしなかったが、確実に成長していた。
高橋直人も病院から退院し、新しい人生を始めていた。
図書館は一時閉鎖されたが、新しい館長の下で再開された。地下2階は完全に封鎖され、二度と使用されることはない。
エピローグ 本当の真理
竹内は事件現場となった7階の特別閲覧室を訪れた。新しい司書が配置され、以前の静けさを取り戻していた。
例の赤い本「真理について」は証拠品として警察に押収されていたが、その複製が展示ケースに置かれていた。今度は本当に空白のページのものだった。
「真理は本の中にはない」
竹内はそう呟いた。
真理とは、他人から与えられるものではなく、自分自身で見つけるものだった。橋本教授は最初から間違っていたのだ。
窓の外では、新入生たちがキャンパスを歩いている。彼らが同じような被害に遭わないよう、大学は学生相談体制を強化していた。
竹内は図書館を後にしながら考えた。教育とは何か、学ぶとは何か。そして、真の「真理について」とは何かを。
本当の真理は、自由な環境で、自分の意志で学び、考え、疑問を持ち続けることの中にある。誰かに支配されることの中にはない。
夕陽に照らされたキャンパスで、学生たちの笑い声が響いていた。これこそが、大学本来の姿だった。
事件は終わったが、教育の本質について考えさせられる体験となった。竹内は今後も、学生たちが自由に学び、成長できる環境を守っていこうと決意を新たにした。
そして「真理について」という謎の本は、皮肉にも本当の真理を教えてくれた。真理とは、自分自身の中にあるものだということを。
— 完 —