キャバクラ朱雀、成り上がるには恐怖を従わせろーー
派手なネオン街の一角、古びたビルの三階にその店はあった。
キャバクラ「朱雀」。
名前とは裏腹に、煌びやかさよりもどこか影を帯びた雰囲気をまとっていた。求人広告には「働きやすさ抜群」「客層が良い」と書かれていたが、実際には地元の不動産業者や建設関係者、スーツの色合いが微妙にくすんだ中年の男たちばかりが集まる。私は夜職未経験のまま飛び込んでしまった。
初日は、緊張で震える私に、先輩の美香がこう囁いた。
「深く考えちゃだめ。笑顔とお酒。あとはお客さんに従ってればいいの」
だが、美香の目は笑っていなかった。どこか怯えるような色があった。
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働き始めて数日。確かに給料は良い。客も最初は優しく見えた。しかし次第に、彼らの会話の端々に、異様な響きが混ざることに気づいた。
「例の土地、片付いたか?」
「いや、まだ骨が――」
「声が漏れるなよ、朱雀の嬢が聞いてる」
冗談にしては笑えない。私が聞き返そうとすると、すぐに話題が変わる。笑顔の裏に、何か深い闇があるのは間違いなかった。
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ある晩、私は店の裏口でタバコを吸っていた。ネオンの灯りが届かない裏通りはひどく暗く、排水溝から湿った臭気が漂ってくる。
そのとき、背後から声がした。
「……やめときなさい」
振り向くと、美香がいた。青白い顔で、私の手からタバコを取り上げる。
「長くここにいちゃだめ。あんたも飲まされるようになるよ」
「飲まされる?」
「……契約の酒。笑顔で乾杯させられたら最後。抜けられなくなるの」
美香はそれ以上、詳しく語ろうとしなかった。だが彼女の震える唇がすべてを物語っていた。
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一週間後、事件は起こった。
その夜は珍しく、店にスーツ姿の若い男たちが入ってきた。どこか外の世界から迷い込んできたような雰囲気。だが彼らは明らかに場違いだった。金を持っている風にも見えない。それでもVIPルームに通され、私と美香が同席させられた。
卓上に置かれたのは、琥珀色に濁った酒。普通のウイスキーではない。
「乾杯しようや」
年長の客がグラスを差し出す。美香は顔を真っ青にして動けなかった。
「飲め。これは“朱雀の証”だ」
私は恐る恐る口をつけた。――瞬間、喉を火が通り抜けるような熱さ。視界が歪み、耳の奥でざわざわとした声が囁き始めた。
「出られない」「誓え」「血を混ぜろ」
意味をなさぬ言葉の羅列なのに、体の奥へと染み込んでいく。
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気づけば、VIPルームの壁が揺れていた。赤黒い染みが広がり、そこから這い出すように無数の影が伸びる。男たちは平然と笑いながら、その影を撫でていた。
「ほら、見えたろ? これが“朱雀”の本当の姿だ」
恐怖で固まる私の横で、美香が立ち上がった。
「もう嫌! 私はもう飲まない!」
叫ぶと同時に、彼女は出口に駆け寄った。だが――次の瞬間、黒い影が絡みつき、彼女の体は壁の中に引きずり込まれていった。声も音も残さず、ただ空気が震えただけ。
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私は立ち上がることすらできなかった。グラスを持つ手が勝手に震え、唇に酒を運ばせようとする。
「お前も仲間だ。逃げるな。ここはもうお前の家だ」
低く響く声。人間のものではない。
その夜をどうやって生き延びたのか、記憶は曖昧だ。ただ気づけば、私は自宅のベッドで目を覚ましていた。手にはあの琥珀色の染みが残り、どれだけ洗っても消えない。
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数日後、キャバクラ「朱雀」は突然閉店した。理由は誰も知らない。だが、街ではこんな噂が広がっている。
「朱雀に勤めた女は、必ずどこかで姿を消す」
「店で出される酒は、人の魂を縛る契約酒だ」
「今もどこかで、新しい店名を掲げて開いている」
私は震えながら街を歩く。ふと耳に入る笑い声や、赤いネオンの揺らめきに心臓が跳ねる。
――あの夜、私は本当に逃げられたのだろうか?
それとも、まだ“朱雀”の影の中にいるだけなのか。
洗面所の鏡を見るたび、背後に赤黒い染みが広がっているように見える。笑う声が、耳元で囁く。
「おかえり。今日も働こうか」