敵
あの冬に、思えば始まったんだ。
そうだ。全ての地獄はあそこからだった。
僕らは雄大な自然に囲まれた村に生まれた。
幸せだったと思う。村の仲間たちは皆が仲が良くて、ご飯は豪華ではなかったけれど、それでも凄く充実した毎日だった。
そんなある日、僕らの村は、何かに「食べられて」いた。
最初はほんの些細なことだった。本当に些細な出来事だったんだ。
貯蔵庫の隅にあった、干し肉の束がいくつか足りない。婆様が「ネズミの仕業だろう」と、古ぼけた罠を仕掛けた程度だ。誰も気にも留めなかった。雪に閉ざされた北の村で、食料が多少減るのは、冬の風物詩のようなものだからだ。
だが、ネズミにしては、奴らの食欲は旺盛すぎた。
一週間後、村で一番大きな共有貯蔵庫の分厚い木の扉が、無残に破壊されていた。鍵はかけられていたはずなのに、まるで巨大な金槌で打ち破られたかのように、木片が雪の上に散乱していた。
中に入った村長は、へたり込んだよ。そりゃもう俺たちも何も言えなくなるくらいに。普段、真面目で少しおっかない村長が僕ら目の前でへたり込んだんだぜ?
そこに山積みにされていたはずの、どんぐりの袋、塩漬けの魚の樽、冬を越すための全食料の三分の一が、跡形もなく消えていたからだ。
「盗賊だ」
誰かが呟いた。雪深いこの時期に山を越えてくる物好きなどいるはずがない。だが、そう思わなければ、説明がつかなかった。
村には、言いようのない緊張が走り始めた。
男たちは夜警を組み、貯蔵庫の周りを見張った。
僕もその一人だった。あの頃の僕は、幼くはあったが妹だけは守らねばという使命感だけが僕を夜へと駆り立てた。
白い息を吐きながら、冷え切った夜闇を見つめる。
風が吹くたび、木々の枝が擦れる音が、誰かの足音のように聞こえて、心臓が早鐘を打った。
けれど、誰も「犯人」を見ていない。
夜警が立っていた夜でさえ、別の貯蔵庫が狙われた。
見張りの男たちが、ほんの数分、寒さに耐えかねて焚き火に当たっている隙に、奴は現れ、そして去った。
ただ、現場にはいつも、奇妙な「匂い」が残っていた。
あまり嗅いだことがないような血のような臭み。
そして、雪の上には、見たこともないほど巨大な、五本の指を持つ足跡が、深く刻まれていた。
「これは、悪魔の仕業だ」
父さんは、震える声で言った。
僕は思わず聞き返した。
「悪魔.....?」
村人たちの心は、食料よりも先に尽きかけていた。
些細なことで始まる掴み合いの喧嘩。
家々からは、飢えに泣く子供たちの声と、それを鎮める母親の力ない歌声が漏れていた。
僕は、自分の腹が鳴る音さえ、恐怖に感じるようになっていた。
この空腹こそが、奴を呼び寄せているのではないか、と。
そして、あの夜。
月さえも雲に隠れた、漆黒の夜だった。
最後の砦だった、村長の家の地下貯蔵庫が破られた。
悲鳴を聞いて駆けつけた僕たちが目にしたのは、破壊された石壁と、その奥に広がる、さらなる「闇」だった。
「……ない」
村長が、呆然と立ち尽くしていた。
「食料が……一つも、ない」
そこには、村の全財産があったはずだった。
それが、たった一晩で、根こそぎ消えていた。
それから、村は飢えで冬を越すことができず、妹は飢えて死んだ。
敵は一体などではなのではなかったのだ。
二本足で立ったその姿は、悪魔そのものようでもあり、“猿“と呼ばれる遠い僕らの親戚に近い存在であると後で知った。
それは、硬い弾丸を飛ばして僕らを攻撃した。
圧倒的な「暴力」そのものだ。
僕らが感じていた、あの不可解な「飢え」の正体。
村を蝕んでいた、あの恐怖の正体。
それは、僕らには、人間という“敵“がいたからだ。
一匹の獣が、咆哮を上げた。
地響きのようなその声を懸命に鳴らした。
僕らはただ奪われたものを返してほしいだけだというのに。




