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トイレ

薄暗い天井が、ぼんやりと視界に滲んでいた。


どこか遠くで唸るように、体の奥から鈍い痛みが這い上がってくる。

その痛みが意識を引きずり上げて、目が覚めた。


「最悪の目覚めだな……」


昨日の鎮痛剤がまだ抜けていないのか、指先がじんわりと痺れていた。


「……ふぅ」


深く、静かに息を吐く。

動けるかどうかじゃない。

動かなくてはいけない。


これから先のひとつひとつ、選択を間違うと命取りになる。

分かっているからこそ、頭だけは冷静でいなければならない。


しばらくすると、病室のドアが開いた。


「おはようございます。調子はどうですか?」


昨日と同じ看護師が朝食を持って入ってきた。

彼女の笑顔はマニュアル通りだったが、その目の奥にはかすかな緊張が浮かんでいる。

あの注射ミスのせいだろう。


「まだ……少し体が重くてな。今日は昼食が終わったら夜までゆっくりしたいんだが」


「はい、無理なさらずに。では、夕食は止めておきますね」


彼女はやや不安げに頷くと、そっとドアを閉めた。

その音が消えると同時に、おれはベッドの横にある棚に手を伸ばした。


以前、外出のときに身につけたサムエ、

あの後も何度か売店に行く際に、着ていたが、

これが思ったより、着心地が良く動きやすい。


あとは、窓からの光が眩しいと言って、

娘に買ってきてもらったサングラス……

それをポケットに押しこむ。


この病院を出るための、最低限の変装道具がこれか、

思わず笑ってしまう、こんな子供だましでいいのかよ。

でも、やるしかないな。



昼食の時間のころには、鎮痛剤の効き目もほとんど取れていた。

だからと言って、身体が身軽かというと、そう言うわけじゃないが、

これなら、何とか動けそうだ。


袖を通しながら、手元がわずかに震えた。

これだけの動作ですら、異様に時間がかかる。

立ち上がった瞬間、目の前がグラリと揺れた。


(立て……歩け……)


ふらつきながらも、ベッドの柵に手をつき、息を整える。

重心をゆっくり移動させ、一歩、また一歩。


「……なんとか、いける」


自分に言い聞かせるように、小さくつぶやいた。

焦る必要はない、時間はたっぷりあるんだ。


とりあえず、就寝までの時間は確保できた。


ベッドの上には、枕とタオルで作った人型を寝かせ、

カーテンは半分だけ閉めておいて、外からも確認できる状況。


子供騙しかもしれないが、一応、看護師には伝えているし、

おそらく今日の夕方までは、あの看護師がおれの担当、

彼女はできれば、おれとは関わりたくないだろうし、

自らこの病室を覗きに来ることもないはず。


もし他の誰かが中を覗きこんで、仮に見つかったとしても……

その時までに、おれがやるべきことを終えていれば、それで構わない。


病院さえ抜け出せたら、何とでもなるさ。


歩幅は小さく、背中を丸めて、ゆっくりと廊下を進む。

途中、廊下の角でボランティアスタッフとすれ違った。

その中年男性が、軽い声をかけてくる。


「その格好、お似合いですねー」


「……え、ええ」


かすれた声で答えると、彼はそれ以上詮索せずに去っていった。

その背中を確認し、わずかに緊張をほどく。


エレベーターを使うのはリスクが高い。

おれは非常階段を使い、売店のある階まで下りていく。


壁に手をつきながら、ゆっくりと足を動かし、なんとか売店にたどり着いた。


帽子と雑誌、そして歩行補助用の杖を手に取る。

雑誌はカモフラージュ。杖は、ただの支えではない。

必要とあらば、それは武器にもなる。


できるだけ表情を作らず、レジの女性の前に立った。


「こちらでよろしいですか?」

と笑顔で尋ねられるが、視線を合わせず、小さく頷くだけにとどめた。


精算を済ませると、売店の脇にある来客用トイレに滑りこんだ。

扉を閉めた瞬間、ようやく肺が自由に呼吸を許された感覚だった。


「はぁ、何とかなるもんだな」


幾度か大きく深呼吸をした後、

狭い個室の中で、おれは変装道具を身につけた。

帽子を深くかぶって、サングラスをかけて鏡を覗いた。

少なくとも、病院のベッドにいた患者には見えない。


「怪しい人間には見えるけどな……」


トイレの小さな窓から、駐車場が見えた。

車も人も行き交っていて、その雑踏が逆におれの姿を隠してくれる。


「……今だ」


ドアを開け、面会客のふりをして廊下を歩いた。

この時間帯、受付の注意は来客に集中している。

こちらに目を向ける者はいない。


自動ドアが音もなく開き、外の風が顔を撫でた瞬間、

胸の奥で何かがほどけるような感覚が走った。


(出られた……)


だが、気を抜くな。

ここで足を止めたらすべてが水の泡。


タクシー乗り場に向かう足取りは重く、

ひとつひとつが命綱のようだった。


乗り場に到着すると、一台のタクシーがドアを開いた。


「遊園地まで、お願いします」


運転手がミラー越しにこちらを見た。

少し不審そうな顔つきだったが、


「今日はまた、暑いですねえ」


何気ない話題を投げかけてきて、ホッとした。


「……ええ」


窓の外、病院が遠ざかっていくのが見えた。


もうここには戻れないかもしれないな……


辛いことしかなかったはずなのに、

この肉体と過ごしたあの病室のことが恋しく思えた。

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