対決編
振り返ると走ってくる小さな人影があった。
こっちに近づくにつれて、その輪郭がしっかりとして、
目の前で、日焼けした小学生くらいの男の子が立ち止まる。
「ごめん、遅くなったー! 先生がさぁ、帰してくれなくてさ」
「また何かやったの?」
「えーっと……ちょっとだけ?」
ぺろっと舌を出す子供の頭を、彼女がぽかりと軽く叩く。
なんとも微笑ましい光景に見えた。
「この子がね、会わせたかった人なの」
「えっ……この子?」
そのとき、おれは驚いた顔をしていたと思う。
「前にここで偶然会ったんだ。一目見てさ、あの人に似てると感じたの。雰囲気とか、目の奥とか……子供なのにヘンだよね」
今、振り返ると、
その言葉を聞いたときから、おれの心のどこかが疼きはじめていた。
「そうか……似てるのか」
「この子と一緒にいると、少しだけ気持ちが軽くなるんだよね。あの頃に戻れたみたいな、そんな感じ」
「よかったな。少しでも、笑えるようになって」
「うん。だから、もう大丈夫。死のうなんて、考えないから」
そう言って彼女は笑った。
「こんにちわっ」
その子がこっちの目をじっと見ながら、丁寧に挨拶してきたので、
おれも、彼女の祖父らしく優しく微笑んで、頭を撫でた、
その瞬間。
ビリッ……!
脳が焼かれるような衝撃。
身体中を電流が駆け抜けた。
「っ──!」
おれは思わず手を払いのけた。
子供は、おれを見上げてにやりと笑った。
「ねぇ、驚いた?」
……その声、その笑い方。
覚えている。あいつの声だ。忘れようもない。
彼女がその子の頭を軽く小突いて、
「もー、また何かイタズラしたの? 悪い子だなー」
彼女は無邪気に、あどけなく、笑い声をあげて、
自分の子供のように、その子の頭を撫でている。
あんなに笑顔の彼女を見るのはいつ以来だろう?
懐かしいと同時にそれだけ笑えることに安心した。
これが普通の状況ならば……
あいつは間違いなくおれの分身。
おれのもう一つの心で、負の感情の塊。
彼女を殺すために現世に戻ってきた悪魔。
やつを消さなければならない。
それが義務であり、こっちに戻ったおれの使命。
──だけど。
彼女がその子に向ける笑顔が、俺の心を鈍らせる。
今の彼女にとって、あの子は「救い」なんだ。
孤独の中に差し込んだ光。
過去を乗り越えるための、最後の拠り所。
おれが、それを壊さなくてはいけない。
「もう、あんな悲しい顔はさせない」
そう誓ったはずだった。
でも今、おれがやろうとしてることは、
また彼女から大切なものを奪う行為じゃないか?
いや……違う。
これは必要な犠牲なんだ。
このままでは、あの子が彼女を壊す。
いつか必ず。
それを止められるのは、おれしかいない。
おれの心は葛藤を繰り返して、
どれが正しいかわからなくなりそうだった。
誰かを守るために、彼女を再び泣かせるのか?
彼女が心から信じている存在を、この手で壊すのか?
それが「正しさ」だとしても。
それが「運命」だとしても。
彼女の中で、また誰かが消える。
彼女の記憶に、また誰かの死が刻まれる。
そして、その痛みを、彼女はまた一人で抱えることになる。
おれは彼女の涙を、もう二度と見たくない。
風が吹いた。
桜の花びらが、あの子の髪にふわりと舞い落ちる。
彼女が笑いながら、そっとそれを払った。
その姿が、あまりにも幸せそうに見える、
その分だけ、おれは地獄に近づいていく、
そんな気分だった。
(……なあ、お前)
と心の中で問いかけた。
目の前の、もう一人の自分になら、
この声も届くと思ったが、反応はなかった。
でも、おれは我慢できず、さらに言葉を投げかけた。
(お前を消すことで、彼女がまた壊れるかもしれない。それでも決めたぞ……)
その言葉は自分自身に言い聞かせるためでもあった。
握りしめた手に力が入りすぎたのか、
老人の弱った皮膚には内出血のあとが滲み、鈍い痛みが伝わってくる。
この痛みは、何度も彼女を傷つけたおれたちへの罰だ。
おれは、その罰をすべて受け入れる。
もちろん、お前にもしっかりと自分の罰を受け入れてもらう。
彼女を生かすために、おれはこの手でお前を消す。
対決編 will begin.




