六十六 手合わせ
ニーベルと紅は連れ立って宴会場を抜け出し、要塞内に設置されている訓練場へと移動していた。
全ての兵が宴に興じ、誰もいない夜の訓練場にはほんの熱気も残ってはおらず、かすかな寒々しさを感じさせた。
そのひやりとした空気が、宴会場の暑さで火照った身体につんと染み込み、なんとも心地が良い。
たちまち汗が引いていくのを感じながら、先を歩く紅の後に着いてゆくニーベル。
灯りの落とされた訓練場は、窓からの月明かりだけが差し込み薄暗かったが、紅にはまったく関係ないようで、しっかりとした足取りで稽古用の広場へ辿り着いた。
「本音を申せば真剣でやり合いたいところですが。他国からのお客様に何かあってはいけませんからね。木剣で我慢しておきましょう」
心底残念そうな声音でそう言うと、紅は練習用の武器置き場から木剣を二本取り上げ、一本をニーベルへと放る。
その物言いは自分の勝利を確信しているように聞こえ、ニーベルは苦笑しつつ木剣を受け取った。
「お気遣い、感謝致します」
本来なら腹の一つも立てて良い言い草ではあったが、紅が格上なのは否定しようのない事実であり、加えて実に楽しそうににこにこと笑っているためか、不思議と嫌味さを感じさせなかった。
「夜も遅いですし、一本勝負と参りましょう。聖騎士殿の剣、勉強させて頂きます」
「はい。こちらも救国の英雄殿のお手並、しかと拝見させて頂きます」
二人は広場の中央に間を空けて陣取ると、互いに一礼をして言葉を交わす。
そしてニーベルは木剣を構えたが、紅は右手に得物をぶら下げたままだった。
帝国の重戦士との一騎打ちでも見せたように、防御に回すつもりがないのだろう。あるいは、あれが紅の元々の構えなのかも知れない。
普段通りに立って、無造作に剣を握っているだけ。
しかし隙と呼べるものは微塵も見当たらない。
相手は盲目だと言うのに、じっとりと全身を観察されているような圧迫感を覚える。
対峙するだけで技量の差を思い知らされるが、とにかく打ち込まなければ始まらない。
ニーベルは覚悟を固めるために呼吸を整え始めた。
恐らく今の自分は紅から見れば隙だらけだろうが、勉強するとの言葉通り、初めは見に徹するつもりのようだ。あちらから手を出して来る様子はなかった。
その間にニーベルは、いかに立ち回るべきか思考を巡らせた。
彼女から一本取ることは、悔しいがまず無理だろう。
では自分の中で満足できる目標を設定しようと模索する。
あの手練れの重戦士ですら、紅から回避以外の防御を引き出せなかった。
ならば剣で受けさせることを第一目標としてみようではないか。
方針が決まり、覚悟も固まった。後は実践あるのみ。
「では、いざ」
「はい。いつでもどうぞ」
一声かけると、弾んだ声が返って来る。
その発信源へ向けて飛び込むようにして、ニーベルは最初の一太刀を鋭く突き入れた。
充分に速さの乗った一撃だったが、紅は姿勢すら変えずにかわしていた。
まるで平行に軸をずらしたかのように錯覚する程の、滑らかな重心移動。
恐らくはすり足で最小限の距離を移動したのだろうが、まったく目視できなかった。
ニーベルは突き入れた剣を流れるように横へ払うが、その頃には紅はすでに間合いのぎりぎり外へ抜け出していた。
たったの一撃で、こちらの間合いを見切られたのだ。
思わずぎりっと奥歯を噛み締め、半ばむきになって紅に追いすがり、連撃を繰り出してゆくニーベル。
しかし雑になることはなく、一撃一撃にフェイントを織り交ぜながらも正確に急所を狙って、舞うように剣を躍らせる。
それらを全て紙一重でするりするりと逃れてゆく紅の身のこなしには、ニーベルも舌を巻くしかなかった。
まるでこちらの動きを予測しているように、斬り付ける前にその場からいなくなっているのだ。
「ふふ。実戦的でありながらも、清流のように美しい剣です。見惚れてしまいそうですね」
こちらはすでに汗だくになっていると言うのに、紅は息一つ乱さぬままに笑っている。
まさかここまでの差があろうとは。
防御をさせるどころではなく、追いかけるのがやっとの有様であった。
ニーベルは大きく斬り払って紅を遠ざけると、自分も一度後退して呼吸を整えた。
何をやっても当たる気がしない。
これまで自分が積み上げてきたものは一体何だったのか。
圧倒的な力の差を見せ付けられ、自信に傷が入りかけたニーベルに、紅は柔らかな口調で話しかけて来た。
「まだまだ続けていたい楽しい時間でしたが、そろそろ集中が乱れてきていますね」
図星を突かれ、はっと顔を上げるニーベル。
「それに、どうやら私と打ち合いを望んでおられるご様子。最後の締めとして、一合だけお付き合い致しましょう」
「……お見通しでしたか。お見それしました。それでは一手、よろしくお願いします」
こちらの体力から心情、狙いまで完全に読まれていたとわかり、ニーベルの胸中は悔しさを通り越して、紅への尊敬一色に染まった。
戦が再開されれば、このように手合わせする暇もなくなるだろう。
偉大な英雄に対して失礼の無いよう、自分の中に悔いが残らぬよう。
尽きかけた気力の全てをかき集めて、最後の一撃へ己の魂を込める。
たちまち最大時の集中力が戻って来たのを察してか、紅は薄闇の中でも輝く笑みを浮かべてニーベルを手招いた。
それを合図として、ニーベルは広間の床を力強く蹴り、瞬く間に紅の目前へ肉薄すると同時に渾身の突きを繰り出した。
宣言通り、紅は避ける気配を見せない。
かと言って、攻撃の手すらも見えない。
緩やかに感じられる時間の中でニーベルが辛うじて捉えたのは、己の放った木剣が、正面からばきぼきとひしゃげて行く様子だった。
からんからん、と。
砕け散った木剣の破片が床に転がる音でニーベルは正気を取り戻した。
手にしていた木剣は根元から木っ端微塵となっており、突きを放った姿勢のニーベルの喉元には、いつの間にか紅の木剣の先端が押し当てられていた。
ぼんやりとした憶測ではあるが、自分の突きに突きを合わせて木剣を破壊し、そのまま喉を取ったものと思われた。
完璧に相手の攻撃を読んだ上で、一点に力を集約した一撃をもって貫くという、途方もない精密作業を一瞬の内にこなして見せたのだ。
「……参りました」
ぼそりと負けを認めると、すっと紅の木剣が下げられた。
「お付き合い頂き、ありがとうございました」
にこりと笑みを見せると、紅は一礼して見せる。
「こちらこそ、お礼を申さなければ。大変勉強になりました。ありがとうございます」
紅の無邪気な笑みに釣られ、ニーベルも吹っ切れたように笑顔で応じた。
完膚無きまでの敗北ではあったが、不思議と爽快な気分であった。
自分などはまだまだ未熟だと再認識できた。遥かな高みにいる達人との手合わせは、きっと今後に生きるだろう。
紅との対戦は、そう思わせるような充実したものであったのだ。
それにしても不可思議なのは、実際に剣を交えたと言うのに、まったく少女の強さの上限が読めないことだ。
これ程の強さでは、自身でも語っていたように、稽古相手を探すのも一苦労だろう。
紅がひたすらに戦と強者を求める理由も分かるような気がした。
「おや。興が乗ったあまり、失敗してしまいました」
ニーベルが思考に耽る間に、紅は床に散乱した木屑を見回して、ぺろりと舌を出した。
「思わず要塞の備品を壊してしまいました。あなたも共犯ということで、内緒にして下さいね」
悪戯っ子のような憎めない笑みを向けて来る紅に、ニーベルは思わず吹き出した。
「ふふ、仕方ありませんね。それでは誰かに見つからない内に、証拠隠滅をしてしまいましょうか」
言いながら、清掃用具を探しに場を離れるニーベル。
こうして短くも濃い邂逅を経て、女神と謳われる少女の歳相応な部分をも垣間見たニーベルの紅への認識は、恐れとはまた違ったものへと変化していった。




