百八十九 据え膳
「あはは、速い速い。もう砦が見えなくなってしまったね」
天高く風を切って飛翔するリュークの背の上で、流れ去って行く景色を眺め、ウルが無邪気な歓声を上げた。
「帝国とは何度かやり合って、飛竜もそれなりに墜としてきたけれど。こうして騎乗して空を飛ぶのは初めてだよ。実に爽快だね。貴重な経験をさせてくれてありがとう、と言うべきかな?」
「勝手に乗り込んでおいて、何を今更。ですが、乗り心地が良い点には同意します」
正面からは夏の暑気を振り払うように、絶えず向かい風が吹き付けている。黒髪をなびかせてその感触を楽しんでいた紅が、軽く頷いて微笑んだ。
「ただでさえ高い火力に、地形を無視するこの機動力。改めて、竜騎士がいかに手強いかを痛感するね」
「あれ。お姉さん、竜墜としって呼ばれてるんですよねー? 竜騎士なんて楽勝じゃないんですか?」
ウルの感想に、手綱を握るアトレットが反応して問う。
「そんなことはないよ。彼らとは一発勝負なんだ。討ち損じれば、一息で間合いに入られる。そうなれば好き放題されてお終いさ。絶対に外せない緊張感は、君も弓を使うならわかってくれるだろう?」
アトレットが背負った弓を指差し、意外にもウルは真面目な声色で返した。
「あ~、なるほどー。アッシュブールでは不意打ちだったから上手く行ったけど、真正面から迎え撃つのは大変そうですよねー……」
「はて。そう言えば」
アトレットがその場面を想像して考え込んだのと同時に、紅がふと思いついたように声を上げる。
「あなたはウィズダームへの援軍に加わっていなかったのですか。竜騎士さえ排除できていれば、また結果は違ったのでは?」
「僕が評議国に到着したのは、ウィズダームが落ちた後だったからね。加勢できなかったことは悔やまれるよ。ただ、仮に僕が出向いて竜騎士を墜としたとしても、地上部隊にも大きな火力差があった。僕だって、噂に聞く君のように一人で何十何百と敵を蹴散らせる訳じゃないし。互角に戦えたかどうかは怪しいな」
「火力と言うと、銃の類ですか」
「そう。君達も体験したんだろう? 弓より威力も射程も勝る、新時代の兵器。考えなしにぶつかれば、一方的に薙ぎ払われるだけ。そんなものを持ち出されたら、議会が弱気になるのも仕方ないね」
ウルはやれやれとばかりに肩をすくめる。
アッシュブールでお披露目された魔法の銃は、確かに大した威力ではあった。
しかし紅にとっては発射を察知してから避ければ済むだけの代物であり、さほどの脅威とは思えない。
何も対策ができないのなら、それはただただ弱いから、の一言に尽きる。
弱さとは罪であり、同情の余地もなし。
その思考こそ、己が鬼や悪魔などと呼ばれる一因と知ってか知らずか、紅は敢えて異論を唱えなかった。
つまるところ、評議国がどうなろうと欠片も興味がないのだ。
「おっと、そろそろ目的地だ。右手の山の陰に入って」
「りょーかーい!」
一時会話が途切れてからしばらく。不意にウルは声を上げ、街道から外れるルートへ誘導した。
言われるままにアトレットが手綱を引き、リュークを山頂の木々に紛れるように滞空させる。
「うん、ここなら向こうからは見えないだろう。どれどれ」
絶妙な配置に満足した様子のウルが、目の上に手の平をかざして街道の先を見やる。
「あそこだ」
そう言って指差した帝国軍の陣地は、数㎞は離れていると思われた。
狙撃を生業とするだけあって、ずば抜けた視力を有しているのだろう。
「報告通りの位置にいるね。だけど様子が妙だ」
「はて。どのように」
相手方の陣地を見るなり眉をしかめたウルへ、端的に問う紅。
「どうにも慌ただしい。野営地を拡張している? まさか、もう増員したのか。ざっと五千はいるね。帝国本土も混乱中で、補給もままならないはずだと踏んでいたけれど」
異常を感じ取ったウルが、独り言のように口走ってゆく。
「そうか、例の新参商人が物資を提供した可能性はあるね。とは言え、兵の疲労は溜まっているだろうし、ウィズダーム領内の掌握もまだ完全ではないはず。すぐに攻めて来るとは思えない。降伏を迫るために、圧力をかけようって算段かな」
ぶつぶつと推測を並べるウルを他所に、紅はくすりと笑みを漏らした。
「ふふ。あちらから集まって来て下さるとは好都合ですね」
「……一応言っておくけれど、君の出番は帝国が攻めて来た時だよ。まだ相手の出方も読めないし、こちらの準備も済んでいないんだ。軽率に彼らを刺激するのはやめて欲しいな」
「あなた方の都合など知ったことではありません」
怪訝そうに釘を刺すウルの言葉をぴしゃりと突っぱねると、紅はおもむろに立ち上がる。
「私は戦のためにここへ参りました。敵陣を前にして放置する理由がありません。どのような策があろうが、諸共に斬り捨てるだけです」
「そんな単純な話じゃ──」
「ここまでの道案内、ありがとうございました。それでは」
これまでの余裕を維持できなくなったウルの制止も聞かずに、紅は躊躇もせずリュークの背から飛び降り、眼下の木々を飛び移って瞬く間に山を下って行った。
そして何分もかからずに帝国軍の野営地へ辿り着くと、樹上を蹴って高く跳躍し、兵が忙しなく行き来する広場へ音もなく着地する。
「帝国軍の皆様、御機嫌よう」
突如出現した黒衣の少女を目にした帝国兵達は、その美しさと異様さに誰もが魅入られ、誰何もせずに硬直した。
「さあ。戦をしましょう」
優雅に一礼した紅が姿勢を戻し、満面の笑顔を咲かせた瞬間、周囲の兵の首が一斉に宙へ舞い上がった。