百七十七 根絶やし
水深何百mにも及ぶであろう外洋の一角が根こそぎ斬り飛ばされ、遥か下方の瓦礫と化した人魚の王国がむき出しとなる。
大海原を一刀の元に断ち割った紅は、飛び散る水滴を捕らえて身を蹴り出し、真っ逆さまに急降下していた。
向かう先には、完全に露出して干上がった海底に立ち尽くす大魚人の姿。
紅は海諸共に葬り去るつもりだったが、五体無事に残っている。恐らく水鏡による守りで斬撃を相殺したのだろう。予想の範疇ではあった。
とは言え周囲に展開していた水柱の防壁は海ごと消失し、今や本体はすっかり丸裸である。この好機を逃す手はない。
落雷のような速度で空中を横断した紅は、ダゴンの頭上を取ると同時に鋭く刀を振り下ろした。
「はて。妙な手応えです」
紅が怪訝な顔でこてりと小首を傾げると、直後にダゴンの脳天から胸元にかけてびしりと斬痕が奔る。
しかし両断するまでには至らず。縦一文字に浅い傷口が開くも、巨体はぐらつきもしなかった。
幻影、という訳ではない。現に紅は、ダゴンの広い肩へふわりと着地を果たしていた。
同時に違和感の正体を知り、軽い感嘆を含んだ声を上げる。
「なるほど。このような使い道もあるのですね」
踏み締めた緑の鱗の表面が、弾力のある液体によって薄く覆われていたのだ。
足を沈めると、ぶよぶよと押し返す感触が伝わってくる。察するに、体を濡らしていた残り水を鎧のようにまとって斬撃を和らげたのだろう。
水鏡を突破してすらこの守備力。なかなかどうして、一筋縄ではいかないようだ。
「ふふ。そう来なくては」
何とも斬り甲斐のある相手を前に、紅は顔を綻ばせる。
その呟きを聞き付けてようやく敵の位置を把握したのか、ダゴンは顔の側面に位置する目玉でぎょろりと紅を見下した。
(我が領域たる海を割ったばかりか、気安くこの身に触れるとは。不敬の極みなり)
今しがた与えた傷からは何の痛痒も感じていないらしい。まるで気にした風もなく厳かな思念を発すると、途端に紅の足元がうねうねと波打ち始める。
そしてぼこりと隆起したかと思うと、びっしりと青白い鱗に覆われた腕が多数出現して、紅へと伸びて来たではないか。
「これはこれは」
足元へすがりつこうとする腕の群れを一閃する間にも、周囲へ人の形をしたものが続々と這い出していた。
それらの姿はダゴンの生き写し。
己の身から、魚人の群れを産み出しているのだ。まさに始祖と呼ばれるに相応しい奇跡の御業である。
かの者さえいれば、いくらでも種の立て直しができよう。族長が犠牲を厭わずに復活を優先させたことも頷けた。
「生命の創造とは。さすがに神を称するだけありますね」
そう感心する紅だったが、意外な増援に焦ることはなく。
今更魚人が束になってかかって来ようと、彼女を阻む壁にすらなり得ないのだから。
ダゴンもそれは承知のはずであるが、自ら動いて紅を振り落とそうとはしない。あくまでも神としての異能のみで対処するつもりのようだ。
まだ何か秘策があるのか。はたまた、深海の覇者としての矜持か。
どちらにせよ、距離を潰されても堂々たる態度を貫く敵に、紅は好感を抱いた。
「その余裕。魚人の皆様ごと斬り捨てましょう」
わらわらと押し寄せる軍勢を、紅は笑顔で迎え撃つ。
近寄る隙も与えず瞬時に薙ぎ払いながら、ダゴン本体へも無数の斬撃を浴びせ、徐々に表面を抉り取っていく。
(出でよ。満ちよ。我が眷属)
ダゴンは広がる被害を気にも止めず、忌まわしい子らを絶え間なく産み落とし続ける。
時間にして、わずか数秒にも満たぬ攻防。
魚人達を容赦なく斬り散らす紅い刃がついに水の鎧を破り、ダゴンの肩口へ食い込んだ、その瞬間。
断崖と化していた海水がどっと崩れ落ち、怒涛の荒波となって紅とダゴンを左右から一飲みにした。
ダゴンの狙いは、割れた海が元に戻るまでの時間稼ぎにあったのだ。
轟然とうねる波濤にもみくちゃにされ、紅の攻撃の手が一時止まった刹那。ダゴンの肩に刺さっていた刀が水の触手に巻き取られて、がっちりと固定される。
「おや」
紅は即座に引き抜こうとするが、激流にさらされて踏ん張りが利かないこともあり、その剛力をもってしても微動だにしない。せめて押し流されないよう柄を強く握り締める。
その結果、動きを制限される形となった紅とは対称的に、魚人達はまさに水を得た魚を体現するよう活き活きと泳ぎ始め、攻勢を激化させた。
「なかなかのやり手ですね。さて。どう崩しましょうか」
海へ散って四方から襲い来る無数の魚人を、半端な姿勢ながら華麗な蹴りを繰り出して撃退する紅。
好機を覆されたにも関わらず、その美貌には曇りなき満面の笑顔が浮かぶ。逆境すら歓迎するように。
(陸の猿にしてはよくやった。されど、戯れもここまでよ)
海中へ復帰したことで権能を取り戻したダゴンは、再び水の鎧をまとい、水柱の神殿を築き上げようと螺旋を呼び起こし始めていた。
(我らに仇為す不逞の輩。諦観の中で果てるがよい)
紅の得物を封じて勝利を確信したのか、その思念に仄かな愉悦が混じる。
たちまちダゴンの全身から夥しい数の魚人がうじゃうじゃと湧き出し、圧倒的な物量をもって押し潰すべく紅へ殺到した。
荒れ狂う波の狭間で不自由を強いられながらも、巧みな体さばきで丁寧に鉤爪や牙をいなしては、反撃の蹴りをねじ込んで魚人を粉砕してゆく紅。
ダゴン共々水中に戻ったが、今のところ水鏡による妨害はない。
至近距離では使えないのか、準備に時間がかかるのか。想定よりも小回りが利かない術なのだとすれば、紅にとっては好都合。まだ状況を打開する余地があるということだ。
「せっかく懐に入ったことですし。こちらも遊びはお終いとしましょうか」
紅はおっとりとした声を上げると、防戦から一転。握った柄を支点にしてぐるりと鋭い大回転を見せ、ダゴンにも負けず劣らずの渦を生み出し潮流を強引に打ち消した。
突如もたらされた均衡によって海中が凪ぎ、魚人達が困惑した隙を見逃さず。
紅は刀を手放し、遠心力を利用して弾丸のように飛び出していた。
(自ら得物を捨てるとは。血迷ったか)
進路上の魚人達を貫きながら突き進む紅を見て、かすかな動揺を浮かべるダゴン。
「さて。どうでしょう」
不敵に笑い返す紅が一直線に向かう先は、ダゴンの首筋。その根元付近でゆったりと開閉を繰り返す空洞。即ち《《えら》》であった。
(まさか)
ダゴンが狙いを察したのと、息を大きく吸い込んだ紅がえらの中へ潜り込んだのは同時だった。
直後、ダゴンの喉から胸にかけてが、内側からばぁんと派手に弾け飛んだ。
(が……!?)
苦痛と驚愕の混じった思念が海中に響き、大量の血泡と肉片が散らばってゆく。
「やはり。表面は硬くとも、内部は脆いのですね」
巨躯の呼吸器官へ突風のような吐息を吹き入れて破裂させた紅は、予想が的中したことを無邪気に喜んだ。
そして間を置かず、風穴が開いたダゴンの体内に陣取った時。その手には、すでに転移させた紅い刀が握られていた。
「それでは。このまま仕上げと参りましょう」
(何だこの力は。あり得ぬ。汝は何者だ)
「ただの剣士ですよ」
うめくダゴンに紅が微笑を返すと共に、海域全体へ網目のような斬光が縦横に迸る。
太古の始祖たる大魚人は、己が産み出した子供らごと残らず細切れとなり、揺れる波間へ散って行った。