百七十四 始祖招来
王宮を派手に吹き飛ばして出現したのは、魚人をそのまま巨大化させたような異形だった。
明らかに違う点と言えば、全身の鱗がへどろのごときくすんだ緑色に染まっていること。
黒々とした瘴気を垂れ流す巨躯の下半身は崩壊した瓦礫に埋まり、未だ全貌が見えぬほどの大きさを誇っている。
その巨体が蠢くだけで海域が混ぜ返され、猛烈な奔流が荒れ狂った。
「よもや階下にいらしたとは。灯台下暗しでしたね」
流されぬように距離を取って様子を伺う紅が、微笑を浮かべて呟いた。
巨人が床を破る際の振動をいち早く感じ取り、天井を斬り飛ばして人魚と共に脱出を果たしていたのだ。
「ふふ。なかなかに斬り応えのありそうな大物です」
先日屠った黒竜にも迫る威容を前に、艶然と舌なめずりを見せる紅。
その時、ごろごろと雷鳴のような大笑が周囲に響き渡った。
(礼賛せよ。喝采せよ。我が名はダゴン。依り代を得て、再び現世へ顕現せし深淵の化身なり。人魚よ。人間よ。平伏せよ。絶望せよ。積年の屈辱を今こそ晴らし、貴様らの平安を永劫に奪い去ってくれよう)
頭の中へ直接流し込まれる、怨嗟に満ちた音なき声。
紅はこの感覚に覚えがあった。
「はて。かの黒竜が使っていた言語と同じものでしょうか。確か念話と仰っていましたが」
黒竜の口ぶりでは、相当に珍しい芸当であるようだった。この大魚人も、同様に希少な存在なのだろうか。
「……貴殿、よくも余計な真似をしてくれたな」
首を捻る紅の元へ、テティスに支えられたオアネスが訪れ、怒りを押し殺した声をかけた。
「これは父君殿。お身体の具合はよろしいのですか」
「傷は派手だが、加減されていたのでな。命に支障はない。今はそれよりも優先すべきことがある」
怪我はともかく、衰弱は隠しようもなかったが、オアネスはそれを押して話を切り出した。
「娘から、貴殿を増援として招いた経緯は聞いた。助力には感謝するが、此度の振る舞いに関しては看過できぬぞ」
「はて。その口ぶりですと、かの者の正体をご存じのようですね」
「あの化け物は、確かにダゴンと名乗った。かつての大戦の折、己が生み出した魚人を率いた邪悪なる海神の名だ。その力は強大で、我らの先祖が人間達と協力して辛うじて撃退こそしたが、完全に滅することは叶わなかった。奴は今際の際に鱗の一つへ魂を宿したと言う。それこそが魚人どもにとっての至宝。当時の英雄達でさえ破壊はできず、下手に廃棄して他者に悪用されることも見過ごせぬ厄介な代物であった。だからこそ、我らが封印を担っていたのだ」
苦々しい顔を見せたオアネスが淡々と説明する。
「しかし奴の力は今日まで朽ちず、再起の時を虎視眈々と狙っていたのだろう。族長は恐らく大戦の生き残り。かの邪神直属の神官であれば、その身を器として降臨させることも容易かろう。つまり貴殿の行いは、邪神復活の手助けをしたことに他ならぬ」
「到底許されることではないぞ! どう始末をつけるつもりだ!」
部下から借りたのだろう外套を上半身に巻き付けたテティスが追随し、烈火の勢いで怒鳴った。
同じく後ろに控えた兵からも次々と非難が浴びせられるが、紅はどこ吹く風で微笑んだまま。その興味はすでに、大いなる魚人の祖にのみ向いていた。
「ふふ。古代の邪神と来ましたか。とんだ獲物が釣れたものです。腕が鳴りますね」
「お前という奴は……! どれだけ大事か理解していないようだな!」
テティスが掴みかからんばかりに声を荒げた時。
瓦礫を押しのけて王宮跡から這い出たダゴンが激しく咆哮すると、全身からどす黒い波動が発され周囲を突き抜けて行った。
波動はたちまち紅達の元まで達し、泥を浴びたようなどろりとした不快感をもたらしたが、それも一瞬のこと。特に外傷を与える類のものではなかった。
「はて。今のは一体何でしょう」
「……まさか」
小首を傾げる紅の横で、オアネスが唸る。
激しい戦闘が行われたばかりの海域には、未だ多くの死骸が溢れている。
黒い波動に触れたそれらから続々と靄のようなものが滲み出し、ダゴンの元へと吸い寄せられて行く。
そして緑色の鱗に触れるとたちまち吸収され、ダゴンの身がどくんと波打つと、見る間に一回り大きく膨張したではないか。
「やはり! 死した眷属の魂を回収し、己と同化させたのだ! 在りし日の力を取り戻す算段か!」
ダゴンの所業を推測したオアネスが緊迫した様子で叫ぶ。
「さすがは神と謳われし者。味な芸当をなさいますね。それでは一手、お相手願いましょう。皆様は手出し無用。すぐに退避なさいませ」
刀を片手にダゴンへ向き直る紅を見て、テティスが驚愕して問う。
「一人で挑む気か!? かつて大陸中の人間と人魚が結集して、ようやく対抗できた化け物だぞ!! 勝算はあるのだろうな!」
「勝敗の読めぬ戦こそ面白いのですよ。それに神を名乗ろうが、肉の身を持つならば斬れぬ道理はなし。やりようはありましょう」
紅は気負いもなしに言い置くと、それきり振り返らず一直線に泳ぎ出した。
(不遜な人間よ。我に歯向かうは万死に値する。海の藻屑と果てて散れ)
ダゴンの宣告が引き金となり、足元から激流が渦を巻いて巨体を覆い始める。
「異郷の神の何たるや。存分に味わわせて頂きます」
輝く笑みを浮かべ、喜々として敵の懐へ飛び込んで行く紅。
ここに古代の邪神と、恐れ知らずの剣鬼の戦が幕を開けた。