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百六十九 奈落へ至る

 轟々と。

 だくだくと。


 途方もなき質量と怒涛の勢いで、地の奥まで潜り込むかのような激流に揉まれることしばし。


 唐突にその束縛から解放された二人の戦士が辿り着いたのは、陽光の一筋も届かぬ果て無き暗黒と、極寒の冷水が支配する領域であった。


 目まぐるしく寄せては返していた上層の荒波とは打って変わって、亀の歩みの如く非常に緩やかに移動する深層海流へと切り替わり、その落差によってまるで時が止まったような錯覚さえ感じさせる。


 生命の気配が絶え、おごそかな静寂が満ちているようにも思えるが、その場には確かに重みを増した海水が横たわっており、時折空間が過剰な圧力にぎしりときしむ音が木霊こだました。


 進化の過程で環境に適応してみせた者のみが生存を許される過酷な世界。

 どれだけ腕が立とうと、陸の者が容易に越えられない壁がここにはある。


 魚人であるグドでさえ、急速に潜行したせいで軽い頭痛に見舞われていたが、道連れにした少女の死に様を確認するべく喜悦の表情で背後を振り返った。


 果たしてそこには、グドが期待していた無残に圧壊した死体はなく。


 脱力こそしているが、五体満足にて美貌も損なわぬまま紅い剣を握り締める少女の姿が在った。


「はあ!? なんで潰れてねえんだよ!」


 グドは予想外の事態に困惑しながらも、反射的に掴んでいた剣ごと少女を引き寄せ、その身を穿つべく鉤爪を繰り出していた。


 すると殺気に反応したのか、海流に身を委ねていた少女がぴくりと動き、心臓を狙った一突きを左手の指先で軽くつまんで受け止めたではないか。


「な……!」

「目的地に到着したようですね」


 何事もなかったように面を上げる少女を前に、グドは思わず絶句した。


 魚人の暗視能力を通し、闇の中すら照らすような笑みが咲く。


「それでは続きと参りましょう」


 喜々として少女が宣言すると同時に、グドの鉤爪が粉々に砕け散り、左腕へめきりと鈍い痛みが走る。


 少女の膝蹴りが肘を捉えたのだと気付いたのは、とっさに剣を掴んでいた手を放して衝撃を流した後だった。


 骨は折れずに済んだが、代償に紅い刃が自由を取り戻し、すぐさまグドの全身を刻まんと唸りを上げる。


「うおおお!?」


 至近距離で幾重にも乱れ舞う斬撃を必死で弾き返し、ほんの隙を突いて後方へ逃れるグド。


 当然追撃を覚悟したが、少女は距離を詰めては来なかった。


「なるほど。これが深海の水圧ですか。さすがに少々厄介ですね」


 どうやらわざと見逃したのではなく、身体が言うことを聞かなかったらしい。端正な顔に苦笑を浮かべている。


 当然のことではあった。

 本来なら生きているだけでも奇跡。まともに動けようはずもない。その状態であれほどの攻撃を繰り出せたこと自体が常軌を逸しているのだ。


 不意を打たれながらもグドが捌き切れたのも、少女の動きが上層にいた時と比べて大幅に鈍っていたからに他ならない。


 己の策が功を奏し、確かに有利な状況に持ち込んだ。


 しかし、深海に招き入れた時点で勝ちを確信していたグドは驚愕が勝り、怒鳴り声を上げずにはいられなかった。


「少々で済む訳ねえだろが! この水圧に耐えるだと!? どうなってんだ、てめえの身体は!」

「はてさて。そう問われましても。修行の賜物でしょうか」


 何も不思議はないと言わんばかりに小首を傾げる少女。


「ふざけんな! 鍛えて何とかなる問題じゃねえぞ! 本当に人間か!?」

「己の素性など気にしたこともありませんね。眼前に敵があり、手足が動く。それだけで戦をするには十分です。さあ、もっと殺し合いをしましょう」


 さらりと答え、笑顔のまま手招いてみせる少女は、敵の術中に落ちて逃げ場もない状況すら楽しんでいる節がある。


 言葉こそ通じるが、まるで会話が噛み合わない。


 少女の異質な精神性に触れたグドは、言い知れぬ怖気おぞけに襲われた。


 到底自分の理解の及ばぬ存在である。最早尋常な生物かどうかも怪しい。


 警戒を強めたグドは少女のあからさまな挑発には乗らず、上層で外された足首を無理矢理ごきりと戻して観察に努めた。


 少女は表面上平静を保っているが、猛烈な水圧の影響下で弱りつつあるのは確かだろう。


 しかし未だ戦意に満ち、多少衰えたとは言え活きた斬撃が飛んで来るのだ。迂闊に近付くのは愚策である。


 ここは無理に手を出さず、後退して自然と力尽きるのを待つべきか。



 ──いや、それは悪手だ。



 グドの脳裏に天啓とも言うべき閃きが舞い降りる。


 相手は常識をことごとく覆す、得体が知れぬ化け物。休ませれば息を吹き返す可能性も考慮すべきだろう。

 そしてこれ以上の距離を取った瞬間、魚人軍を一撃で半壊させた大渦を放ってくるのではないかと直感したのだ。


 かの絶技に巻き込まれれば、いかなグドとて無事では済むまい。


 だがあれほどの大技を扱うには、それなりの溜めを必要とするはず。


 ならば付かず離れずの距離を維持し、技を出す暇を与えずに封殺するのが良案かと思えた。


「はて。来て頂けないのなら、こちらから参りましょう」


 黙り込んだグドを見て首を傾げた少女は、ゆらゆらとぎこちなく泳ぎ始める。


「……その必要はねえ」


 その様子を見て決断し、グドは策を実行に移すべく素早く水を蹴った。


 そして少女の頭上へ回って中距離に陣取ると、左右の手を交互に鋭く振り抜き始めた。


 すると強く押し出された水流が不可視の刃と化し、次々と少女へ向かって行く。


 魚人兵が口内で圧縮する水槍を、グドは手首の捻りだけで再現したのだ。


 少女は当然のように剣の一振りであっさりと防いで見せるが、予想の範疇はんちゅうである。

 グドの目的は足止めと削りであり、その目論見は成功していた。


 動きの鈍った少女は回避が取れず、否応なしに剣で受けざるを得ない。

 自然、防御した反動でその身がより深みへ沈んでゆく。


 致命傷を与える必要はない。

 潜れば潜るほど、長引けば長引くほどこちらに有利となるのは明らかなのだ。


 このまま水刃を浴びせ続け、少女の耐久限界を超える水深まで押し込み、確実に弱らせて仕留める。

 それがグドの立てた勝利への筋書きであった。


 ここからは根比べ。一切の慢心も油断も捨て去ろう。


「てめえが完全にくたばるまで付き合ってやる。覚悟しやがれ!」

「そう来なくては」


 冷徹さを取り戻したグドが言い放ち、激しい攻撃を続行する中でも、少女の笑みは崩れなかった。


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「少々で済む訳ねえだろが! この水圧に耐えるだと!? どうなってんだ、てめえの身体は!」 「はてさて。そう問われましても。修行の賜物でしょうか」  何も不思議はないと言わんばかりに小首を傾げる…
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