百五十八 大海を往く
「ふふ。よもや、おとぎ話に聞いた人魚と戦場を共にすることになろうとは。世の中何が起こるかわかりませんね」
中天に昇った日差しを反射するように、紅はきらきらと笑顔を輝かせていた。
「皆様の泳ぎもさすがです。この荒波の中、ほとんど揺れを感じません。実に快適です」
そう感心する紅が座しているのは、複数の人魚兵が御輿のように担いだ小舟の上である。
外洋に出るにあたり、船に備え付けの救命艇を用いたのだ。
沖へ向かう人魚軍に随伴したのは紅一人。
公国船団はベルンツァの救援を主目的としているため、海戦の準備は最低限だった。その上相手が魚人では、船底に穴を開けられればお終いである。
救援部隊が被害を受けては本末転倒。一部の人魚兵と共にリーゼンブルグへ寄港させ、万が一のための沿岸警備に回すことにしたのだ。
もしも紅達と入れ違いに魚人が襲来したとしても、火気を装備した遊撃隊やリューク、リーゼンブルグの守備隊がいれば、それなりの抵抗は可能だろうと判断してのことでもある。
かくして紅を乗せた小舟を囲み、人魚の大群が整然と列をなして泳ぐ様は、なかなかに壮麗な光景であった。
「速度もかなりのものですね。身体能力が優れているとのカティアの言葉は本当でしたか」
人魚の速力はイルカやシャチをも振り切る程。
瞬く間に船団が水平線の彼方へと消えたのを察し、強く吹き付ける潮風に黒髪をなびかせる紅は、いつにも増して無邪気に楽しんでいる様子だった。
「例の怪物を討っただけあって、豪胆と言うべきか、緊張感が無いと言うべきか……」
紅の正面、小舟の舳先に腰かけて指揮を執っていたテティスがちらりと振り返り、呆れたような顔を見せる。
「念のため言っておくが、行楽ではなく、戦に向かっていることを忘れるな。魚人どもは我らとは違い、一片の容赦もないぞ。接触すれば即戦闘になるだろう。くれぐれも気を抜いてくれるなよ」
「心配無用です。むしろあなたは気を張りすぎに思えます。緊張し通しでは、いざと言う時まで持ちませんよ。気晴らしにお一ついかがですか」
ぴりぴりとしているテティスの注意に、のんびりと微笑を返しながら差し出したのは、自身も先程からつまんでいたクッキーだった。
「せっかくだが遠慮しておこう。陸のものは口に合わない」
「それは残念。美味ですのに」
すげなく断られ、紅は代わりに自分の口に放り込んだ。
「ところで。戦場に向かうにあたり、何か策でもあるのですか」
大分沖に出て来た頃合いだと感じた紅は、前方を睨むテティスへと問いかける。
「散らばって逃げる際に、合流地点を指定した。まずはそこへ行き、戦力を整える」
テティスは再び振り向くと、温めていたのだろう腹案を披露し始めた。
「皆が上手く逃げおおせていれば、2万程の兵は確保できるだろう。魚人の総数を考えると心許ないが、奴らは基本的に好き勝手に暴れるだけで統制が取れていない。付け込む隙はあると見込んでいる。我らが囮を引き受けるので、お前に攻撃を任せたい」
「あなた方が魚人の皆様を海面近くまでおびき出して下さる、ということでしょうか」
「いや。外洋は上層でもそれなりに深い。それではいかにも効率が悪いだろう。そこで、お前にとある魔法をかける」
「はて。魔法、ですか」
テティスは後ろを振り返ると、小首を傾げる紅へと両手をかざした。
「我らが過去に人間達と共闘したことは話したな。その当時の人間の魔法使いが編み出し、我が王家に伝えた魔法がある。人間でも、我ら同様に水中で呼吸ができるようになるものだ」
「そのような便利な技があるのですか」
「そうでもしなければ、海に落ちただけで溺れる人間が魚人と戦えるはずがあるまい」
紅が感嘆の声を上げたことで気分をよくしたのか、テティスは得意そうに胸を張った。
「もうじき目標地点にも着く。何かあってからでは面倒だ。先にかけておこう」
そう言うと、紅に向けた手をそのままに、口の中で聞き慣れぬ言語を紡ぎ始める。
すると、紅の全身へ柔らかな風がまとわりつくような感覚が走った。
「何とも不思議な気分ですね」
「もう効果は出ているはず。試しに海面に顔を付けてみるといい」
額に汗したテティスに言われるままに、小舟から身を乗り出した紅はざぶんと水中へ首を突っ込んだ。
「これはこれは。驚きました」
水面下で数回深呼吸をした紅は、上々の首尾ににっこりと笑って姿勢を戻す。
「普通に息ができる上に、濡れもしないとは。素晴らしい御業ですね」
「呼吸と共に、水の抵抗も和らげる効果を付与した結果だそうだ。お前達の衣服は水を吸って重くなるだろう? その辺りを考慮したらしい。ただ、先にも言ったように、創造したのは人間だから詳しい原理は不明だが」
自分の扱う魔法を褒められ、照れ隠しのつもりか早口になるテティス。
「しかし過信はするなよ。あくまで水中の活動がしやすくなるだけで、泳ぎが上手くなったりする訳ではない。まあ、その点はお前の身体能力ならさほど問題ないだろうと思うがな」
「ええ。泳ぎは得意な方です。では腹ごなしも兼ねて、少々慣らしておくとしましょうか」
言うが早いか、紅は躊躇なく小舟から荒波へと身を躍らせていた。
飛沫も上げず滑らかに海中へ潜り込んだ紅は、人魚の群れに混じって水を蹴り始めると、たちまち順応して華麗な泳ぎを見せる。
「これは何とも新鮮な体験です」
声を出しても泡にならず。口の中に水も入らず。
頭から布団をかぶったような多少の重みこそ感じるが、普通に水中を泳ぐ程の圧力ではない。
もしも大空を浮遊することができたなら、このような感覚なのだろうか。
自在に水中を動き回れることへ感動する紅の真上に、後を追って飛び込んだテティスが現れた。
「まだ説明の途中だぞ! 気の早い奴め──もうそれ程に動けるのか!?」
すぐにも食って掛かろうとするが、紅の適応力を見て驚愕する。
「お陰様で快適です」
「慣れるまで少々かかるかと思ったが、大したものだ。その様子だと、きちんと声も届いているな。かつての人間達は波の音が邪魔して会話はできず、手で合図を送っていたと聞く。その点お前は我らと同じく聴覚に優れているだろうと踏んでいたが、見立て通りだった。まずは一安心だ」
紅と並んで泳ぎ出すと、テティスは一つ懸念が晴れたことでかすかに笑みを覗かせた。
が、すぐに表情を引き締めて説明を再開する。
「他に留意するべきは、効果は一日程度ということと、深海の水圧までは保障できないことだ。元の運用法は、近海で戦う人間達が溺れないための予防線だったらしいからな。少しでも違和感を覚えたら、すぐに浮上してくれ」
「わかりました」
紅は素直に返事をした後、人魚に負けぬ速度で進みながらふと首を傾げた。
「はて。血の匂いがしませんか」
「何?」
テティスはぴんと来ていない様子だったが、慣れ親しんだ鉄錆の如き匂いを、紅の鋭敏な嗅覚が間違えるはずがない。
「前方から確かに漂ってきます」
「……まさか! 前列、先行しろ! 合流地点が割れたのかも知れん!」
はっとしたテティスが指示を飛ばすと、にわかに騒然となる人魚軍。
「いよいよ接敵でしょうか。楽しくなりそうですね、紅」
ぐんと速度を上げた群れにも容易くついて行きながら呟くと、紅は刀の柄をつつりと撫で上げた。