百四十五 決意の貴公子
公国東部侵攻の報を聞き、いち早く部下を率いて王都を発ったフォルツ大佐は、道中にて東の砦が送り出した伝令と運よく出会っていた。
その報告によれば、ベルンツァやランツ要塞はすでに陥落。近隣の砦や村々も壊滅状態とのこと。
それらの被害をもたらしたのは帝国軍ではなく、飛竜をも遥かに凌ぐ巨大な怪物だと言う。
夜通し馬を全力で走らせて来たらしく、話を終えた伝令は疲労と恐怖からその場へ倒れ込んだ。
「貴様の働きは無駄にはせん。今は休め」
力尽きた兵を労い、代わりに部下を伝令として王都に向かわせる。
そのような化け物が出現したとあれば、なおさら自分が奮起して領地を守らねばなるまい。急ぎ駆け付けたのは正解だった。
決意を新たにしたフォルツは予定通りリーゼンブルグへ入り、本家への挨拶もそこそこに町の守備隊と合流した。
次期当主直々の増援とあって、未曽有の危機を迎えて不安に駆られていた兵達は諸手を挙げて歓迎し、士気が目に見えて上昇していった。
リーゼンシュタイン家の領内で最大規模を誇る港町リーゼンブルグは、王都レンドニア、東のベルンツァに次ぐ公国第三の交易都市である。
大貴族としての地位も手伝って、自前で抱える守備隊の数も質も他の地より頭抜けており、陸海軍を合わせて5万の兵を有していた。
しかしこの数でも、伝令より聞いた未知の怪物相手では楽観視はできない。
何しろ同数が詰めた堅牢なランツ要塞ですら落とされているのだ。
こちらは町中で迎え撃つ訳にはいかず、街道沿いの平原で対峙することになる。
防壁すらない以上、聞いた通りの巨躯の相手をするには正攻法では無理があろう。
目新しい物が好きな現当主は、独自の交易ルートでいくつかの珍しい兵器を仕入れている。それらを主力に据えて挑めば、あるいは対抗の目が見出せるかも知れない。
早速開いた軍議にて守備隊の隊長らと意見をすり合わせると、急ぎ兵を展開すると同時に、住民を船で王都へ避難させる手配を済ませる。
王都防衛にて培った手腕を遺憾なく発揮するフォルツだったが、現実は非情であった。
兵の配置が全て済まぬ内に、周囲を揺らす振動が届いたのだ。
「き、来た! 本当に来ました! まさしく化け物です!」
見張りに立てていた兵が、遠くで蠢く巨体を発見して狼狽した声を上げる。
街道の彼方、障害物のない地平線から異形の頭部がちらつくと、付近から立ち昇っていた狼煙がふっと空に溶けて消えた。また一つ砦が潰されたのだろう。
「浮足立つな! まだ距離はある! 布陣に注力せよ!」」
ざわめきだした兵らをよく通る声で一喝すると、ぴたりと無駄口が止まって作業が再開される。
地元であることも大きいのだろうが、人の上に立つ者特有の威厳をフォルツは確かに備えていた。
慌ただしく迎撃準備が進められる間にも、悪夢のような異形は迫り来る。
とうとうその全貌が緊張する兵らの視界に入った頃、それは起こった。
どすどすと重厚な足音を響かせ、街道を抉る怪物の腹がとある場所へ達した時、突如地面から爆炎が上がったのだ。
しかも一つに留まらず、誘爆するよう次々と炸裂音を引き起こしていく。
腹部に直撃を受けた怪物は面食らった様子で、進行速度を緩め始めた。
「今だ! 頭を狙え!」
フォルツの号令に合わせて多数の爆音が鳴ると、一抱え程もある丸い球体が一斉に怪物へ飛んで行く。
それらは惜しくも頭部までは届かなかったが、胸や胴にぶつかると同時に破裂し、大爆発を起こした。
その火力は相当なようで、怪物の巨体が一時ぐらりと後方へ傾いた程。
「効果を認む! 攻撃続行!」
兵から歓声が上がり、双眼鏡で着弾を観察していた射撃班の長が喜々として命令を下した。
今回の作戦で用いたのは、現当主が新たな取引先から入手した火薬式の地雷と大砲であった。
帝国へ対抗するため、軍に先んじて輸入し、試験的に配備していたものだ。
伝令から既存の武器が無効であると聞かされたフォルツは、真っ先にそれらの運用を決断したのだった。
的が大きい分、命中率はまずまず。初の実戦投入としては上々に思える。
情報通り火には弱いのか、怪物は今や完全に動きを止めていた。
「怯んだぞ! このまま畳みかけろ!」
反撃を許すまいと、手を緩めぬよう指示を飛ばすフォルツ。
兵らも気迫を込めて発射を繰り返す内、ついに怪物の皮膚を破ったようで、その身から血液と思しき飛沫が周囲へ飛び散った。
高所から大量に降り注ぐ液体は、それだけで十分な脅威である。
前衛にいた兵らは慌てて回避に入るが、間に合わず頭からかぶる者も多々。
すると、ねばつく黒い体液はびたんと兵を地面に叩き付けたばかりか、まとった鎧ごと全身をじゅわじゅわと溶かし始めた。
恐るべきことに、怪物の血は強酸性であったのだ。
たちまちあちこちから絶叫が上がる中、異変はそれだけに留まらず。
泡立つどす黒い汁から、蛇や蠍、百足や毛虫など、毒持ちの類がぞろぞろと湧き出したのだ。
酸から逃れた者もそれらの大群に呑み込まれて、全身を刺されかじられては苦悶の果てに息絶えて行く。
生半可な攻撃は通じぬ巨体だけでも手に余ると言うのに、苦労の末傷を与えれば酸と毒虫の群れを吐き出す、理不尽の塊。
その暴威の前に前衛はたちまち恐慌状態となって崩壊し、後衛の兵も前方に広がるおぞましい光景を見て硬直した。
「……射撃班! 何をしている!」
恐怖に囚われ大砲を撃つ手を止めた兵らに檄を飛ばすフォルツだったが、時すでに遅く。
態勢を立て直した怪物が陣の中へ突撃し、腕の一振りで射撃班の半数あまりが叩き潰されていた。
「おのれ、好きにはさせん!」
兵が逃れる時間を稼ぐため、果敢にも無事な大砲へ走り寄ったフォルツの頭上から、ふと影が落ちる。
見上げれば、怪物がにやつきながら腕を掲げているのが視界に映った。
フォルツの脳裏に死の一文字がよぎり、思わず固く目を閉じた直後。
耳をつんざく轟音に呑まれ、全身が重力から解放されるような浮遊感に包まれていった。