百四十四 風雲急を告げる
「ランツ要塞が突破されたのですか!?」
レンド公国軍本部、ロマノフ中将の執務室にて、カティアは思わず驚愕の声を上げた。
王城での歓待を経た翌朝、紅とカティアは参謀本部より緊急の呼び出しを受けていた。
そして待ち構えていたロマノフの第一声が、公国東の守りの要、ランツ要塞陥落の可能性を告げるものであったのだ。
「現時点では断言できんが、状況を見る限りは、な」
ロマノフ自身も認めたくはないのだろう。その顔色は優れなかった。
「帝国が侵攻を再開したのでしょうか。シュベール中将閣下がご無事であればよいのですが……」
カティアの胸中に、かつて遊撃隊へ便宜を図ってくれた老将の温和な顔がよぎる。
「残念ながら、敵の所属も我が方の被害も含めて詳細は不明だ。本日夜明け頃、要塞方面の各砦から一斉に救援要請の狼煙が上がっているのが確認された。その後、いくつかの狼煙が順次途絶えて行ったことから、何者かの襲撃を受けて落とされたものと予想される」
「では、敵は依然進軍中なのですね?」
「そうだ。街道に沿って近付いてきていることから、狙いは王都である公算が高い。そして5万の兵を擁するランツ要塞を一晩の内に落とし、すでに内陸まで到達している異常な進攻速度から、竜騎士、下手をすれば三騎将に相当する戦力であると見た」
「それはそれは。楽しみですね」
渋い表情で地図上を指でなぞっていくロマノフの見解を聞き、初めて紅が口を開く。
「帝国であれ何であれ、戦であれば歓迎です。私が呼ばれたということは、一走りして斬ってくればよろしいのでしょう?」
公国が受けた被害などまるで気にした風もなく、浮き浮きとした笑顔を浮かべて敵の出現を喜ぶ紅に、ロマノフは苦笑を禁じ得ない様子だった。
「端的に言えばそうなるが、もう一つ注文がある」
「はて。何でしょうか」
こてりと首を傾げる紅へ、追加の説明を始めるロマノフ。
「現在情報収集も兼ねた救援部隊を編成中なのだが、急報を聞いたフォルツ大佐がわずかな手勢を率いて先走ってしまってな。彼らだけでは戦力が心許ない。急ぎ合流し、接敵前に引き返すよう伝えて欲しい」
「これは異なことを。己の意思で死地に向かったのなら、放っておけばよろしいのでは。判断を誤った弱者が散るのは道理です」
「むう……相変わらず手厳しい。しかし、そういう訳にもいかんのだ。王都外は彼らの管轄ではない。立派な軍紀違反であるし、無闇な損害を出して王都の守備が手薄になることも見過ごせん。中佐相当の俊足や、飛竜ならば追いつけると見込んでの頼みなのだ」
紅の辛辣な言葉を受け、ロマノフはいかに説得したものか頭を悩ませた。
「僭越ながら、閣下……もしやフォルツ大佐は、リーゼンブルグへ向かったのでしょうか?」
そこへ、フォルツの独断の動機に思い至ったカティアが遠慮がちに問いを発する。
「うむ、恐らくはそうだ。この王都の東に隣接するリーゼンブルグは、リーゼンシュタイン家の領地だからな。敵がこのまま街道沿いを進軍するならば、必ず通るルート。戦功を焦る気持ちもあるのだろうが、今回の越権行為は故郷と領民を想っての行動だと思われる」
ロマノフは紅にもわかるよう解説を加えながら返答した。
「義に篤いのは結構ですが。私情を優先するのは、将としてはいかがなものでしょうね」
肩をすくめる紅の感想を聞き、カティアはどの口が言うのかと突っ込みそうになるも、話の腰を折らぬように思い留まった。
そもそも紅には将の自覚がないのだ。言うだけ無駄だろう。
「いかにもその通り。戻ったら、たっぷりと懲罰と説教をくれてやらねばならん。そのためにも、できれば命がある内に身柄を確保してもらいたいのだ」
「隊長。私からもお願いします」
カティアとしてもフォルツは遠縁ながら血族であり、手段はさておき貴族としての使命感も理解できるものであった。そして本家の嫡男が戦死などすれば、一族内の争いの種になりかねない。それは領地へ混乱を招くことにも繋がるだろう。
みすみす見殺しにはできず、紅へ深く頭を下げるカティア。
「はてさて」
二人から請われた紅は、しばし思案顔を見せてからにこりと微笑んだ。
「そう言えば、あの方には先日お世話になったばかりでしたね。忘れる前に借りをお返しする機会が得られたと考えましょう。善処致します」
ほんの気まぐれで承諾した紅に、ロマノフとカティアは揃って安堵の息を吐く。
「ありがたい。では頼んだぞ」
ロマノフの期待を背に受けながら退室した二人は、足早に廊下を進み始めた。
「隊長。改めて、フォルツ大佐の件を引き受けて下さってありがとうございます」
「構いません。どの道同じ戦場へ向かうのですから。ついでに済ませてしまいましょう」
声を弾ませて礼を言うカティアに、紅はふわりと笑みを返した。
「何より、他でもないカティアのお願いです。聞ける範囲ならば聞きますよ」
その不意打ちの一言に、カティアは心臓が飛び跳ねたのを自覚する。
「……もう! またそうやってからかって!」
「何故怒るのでしょう」
照れ隠しに顔を背けたカティアを前に、不思議そうに首を傾げる紅。
打算も何もなく、純粋な好意を表せる愛らしい上官を羨みつつ、カティアは誤魔化すように話題を任務へと戻した。
「ところで、隊の編成はどうしますか」
「アトレットだけ呼んで来て下さい。他の方々は昨日ずいぶんと泥酔されていましたから、起こしても使い物にならないでしょう」
「ああ、確かに……」
晩餐会での男性陣の暴飲暴食ぶりを思い出し、カティアは頭痛に襲われた。
「それに今回は急ぎのお使いがありますし、少数でリュークに乗っていくのが良策かと。大佐殿を発見したら、説得と護衛はお任せします」
「了解しました!」
紅の的確な判断を受け、カティアは敬礼を一つ残して兵舎へ向かった。