百四十一 そびえる巨影
レンド公国東部の港町ベルンツァは、ウグルーシュ帝国第5軍による占領の打撃からすっかり立ち直り、目覚ましい復興を遂げていた。
王都からの兵の補充が早かったこともあるが、紅率いる遊撃隊の活躍によって帝国軍の侵攻は鳴りを潜め、復旧作業に集中することができた点が大きい。
遊撃隊の各地での奮戦は、新聞によってベルンツァにも轟いている。王都より遠いこともあって情報は少々遅れているものの、その記事を見た兵や住民達は我がことのように喜び、日々の活力へと変えていた。
特に先日届いた最新の号外では一大ニュースが報じられ、町が解放された当時のような熱狂に包まれることとなった。
仕事も何もかも放り出して、昼間から飲めや歌えの大騒ぎ。日が沈んでも興奮は一向に冷めやらず、喧噪に満ちる町は不夜城の様相を呈していた。
「お疲れさん。交代だぞ」
夜闇に煌々《こうこう》と燃え盛る篝火の下、町の外壁上で見張りについていた兵らに、背後から声がかけられた。
「お、もうそんな時間か。新聞読んでたらあっという間だったな」
「何だと? 真面目に見張ってたのか?」
「一人ずつ回し読みしてたから大丈夫だよ。なあ?」
二人一組の見張り兵は顔を見合わせて笑い合う。
「まったく。気が抜けてるんじゃないか。町がお祭り騒ぎだからって、俺達まで浮ついてどうする」
交代の兵は気難しそうな顔をあからさまにしかめた。
「そう言うなよ。なんたって、とうとう帝国軍を完全に追い返したんだぜ?」
「それも我らが女神様の活躍のお陰で、ときた! 本人を知ってる身としては、はしゃぎたくもなるだろ」
「まあ、気持ちはわからんでもないが……」
この場にいる者達は王都からの補充組ではなく、占領下で生き残っていた古参の守備兵だった。
紅の過激にして華麗なる制圧劇を間近で目撃した証人であり、大恩人である彼女を崇拝する最初期の信者とも言える存在である。
そんな彼らが、紅の留まるところを知らぬ偉業を聞いて、冷静なままでいられる訳がなかった。
「その内雑誌の取材とか来たりしてな。女神の軌跡特集、みたいな企画でさ」
「俺のところに聞きに来たらこう言うね。あの日、我々は伝説の始まりをこの目で見た……なんつってよ!」
「嬉しいのはわかったからその辺にしとけ。曹長に聞こえたらどやされるぞ。続きは仮眠室でやりな」
盛り上がるあまりくだらない話に及び始めたのを見かねて、交代の兵は二人をたしなめ見張り台に立った。
「何だよ、ノリ悪いな」
「勤務中は切り替えてるだけだ。お前らも程々にしろよ」
「そうは言っても、帝国はあれ以来全然来ないしな。暇な見張りも楽じゃないぜ」
「そうやって油断した時に何かあったらどうする。見張りの意味がないだろうが」
「か~、お前らは真面目だねえ」
肩をすくめる見張りを、交代兵がじろりと睨む。
「いいから邪魔するな。さっさと戻らないと、さぼってたことを曹長に報告するぞ」
「そりゃ勘弁……ん?」
脅しを受けて退散しようとした見張り兵が、ふと動きを止めて耳を澄ました。
「今度は何だ」
「しっ。今揺れなかったか?」
怪訝そうにする交代兵に、声を潜めて尋ね返す。
先程までのおちゃらけた態度とは打って変わって真剣な表情に、他の三人もすぐに気を張り詰めた。
静まった場に響いて来るのは、町でのどんちゃん騒ぎ。
しかし集中した見張り兵は、篝火を据えた台座がかすかに震えて、火の粉を落とすのを確かに目撃した。
「地震か……?」
「にしては、一定すぎるな。本震も来ない」
「おい、あれ見えるか!?」
その時、町の外を見張っていた交代兵が声を上げて一点を指し示す。
全員が目を向けると、彼方のウォール森林の方角に、月光に照らし出される巨大な影を発見した。
森の木々の倍はあろうかという高さ。双眼鏡を用いるまでもなく、しっかりと存在を確認できる。
「何だあのでかぶつは!」
「やっぱり、俺の幻覚じゃないんだな!」
「少しずつ動いてる……?」
まだ遠方にいるため細かい挙動は見えないが、微弱な振動と同期するように揺らめいているように感じられた。
「帝国の新兵器か!? それとも三騎将か!?」
「分からんが、とにかくお前らは報告に行け!」
「おう!」
交代兵に促され、見張り兵は連れ立って上官の元へ走り出した。
「おいおい、あの土煙……森を薙ぎ倒してるのか……?」
「冗談じゃないぞ……ここまで振動が伝わるなんて、相当な重量だ。あんなもの、こっちに向かって来たら止めようがないだろう」
「縁起でもないこと言うなよ!」
改めて双眼鏡で観察し始める二人は、初めて見る異様な光景に戦慄を隠せなかった。
出来ることと言えば、このまま監視を続け、神に祈りを捧げる程度。
「女神よ……願わくば……」
「我らを守りたまえ……!」
二人の兵は迷わず、聖教ではなく紅へと懇願していた。