百二十九 笑うは悪魔か死神か
サリディアとニーベルは連れ立って、砦の物見台へ移動していた。
監視を続けていた見張りに状況を報告させようとした矢先、遠目に見える帝国軍の方向から炸裂音が響いてくるのが耳に入る。
「つい先程からこの音が聞こえ始めました。詳細は不明ですが、どうやら後方にて戦闘が始まった模様です」
サリディアに双眼鏡を手渡しながら見張りが告げる。
確かに騒音の中に銅鑼を打ち鳴らすような重いものも混ざっており、敵襲を報せているのだと思えた。
「総員、戦闘配備にて待機を」
打って出る訳ではないが、万が一国境を犯すようなら対処せねばならない。
伝令に指示を出しつつ双眼鏡を覗き込んだサリディアの視界に、ふと巨大な影が映り込む。
「あれは、飛竜……?」
一瞬目を疑い見直すが、確かに威容を備えた巨躯に翼持つ獣が帝国軍の頭上を飛んでいた。
そして信じがたいことに、猛然と吐き出される業火の矛先は帝国軍だったのだ。
「仲間割れ? 竜騎士の裏切りがあったとでも言うの?」
まったく予想だにしていなかった場面を目撃し、サリディアは笑みが消えた顔に疑問を浮かべて観察を続ける。
飛竜は帝国軍を横切るように炎を撒き散らすと、反撃態勢が整う前に素早く上空へと逃れて行った。
その直後、混乱が抜けきっていない帝国軍の後方にて、突然複数の爆発が巻き起こる。
「火薬!? それにしては威力が大きすぎますね……」
隣で双眼鏡を構えていたニーベルが戸惑いの声を漏らす。
「帝国が新兵器の開発を進めているらしいとは聞いていたけれど。仮に完成したのだとして、帝国軍がその攻撃に晒されているのはおかしな話ね」
極力平静を保とうとしつつ、状況を見守るサリディア。
爆炎が帝国兵を舐め尽くし、立ち昇った煙が晴れた後。
焼失した隊列の向こう側に現れたのは、見慣れた意匠の旗を掲げる一団だった。
「何故ここに公国軍が!?」
「最新の報告では、アッシュブールへ進軍を開始したばかりだったはず。もう落としたと言うのかしら」
驚愕を隠せないニーベルとは対照的に、努めて冷静に考察を進めるサリディア。
とは言え、もたらされた情報量の割に、断定できる材料が少なすぎる。
考えられるのは、公国軍が都市攻略作戦を大きく前倒しして奪還に成功。間を置かずにこちらへ部隊を派遣したという線。
それにしても予想を遥かに上回る進撃速度だと言えた。
「紅殿の力をもってすれば、あり得ない話ではないかと」
「そう……あら、公国側に戦車も混じっているわね。アッシュブールを解放して、帝国の置き土産を転用したと考えれば辻褄は合うかしら。飛竜まで従えているのは信じがたいけれど……」
公国軍の前衛に配置された複数の戦車が連弩で牽制する中、それを盾とした兵が隙間から細長い筒を掲げると、その先端から勢いよく光の弾が発射され、衝突した場所で大爆発を引き起こしては帝国兵を吹き飛ばす。
爆炎の正体を見たその場の全員が息を呑んだ。
「射撃武器であの威力とは。なんと恐ろしい……」
「常識外れもいいところね」
二人が嘆息している間に、何とか立て直した帝国軍が対抗射撃を始めると、公国軍はそれを見越したように後退していた。
それを見た帝国軍が追撃に移ろうと前進するのを見て、サリディアは同盟国の支援をするべきか思案を始める。
その刹那。
不意に帝国軍前衛の兵の首が一斉に舞い、噴水のように血飛沫を上げたではないか。
多数の首無し死体が倒れゆく中心には、いつの間にか黒衣の少女が出現していた。
艶やかな黒髪。類稀なる美貌。手にした紅い刀。
その容貌を見て、サリディアはすぐさま何者であるか察した。
「あの子がそうなのね」
「はい。間違いなく紅殿です」
ニーベルに短く確認すると、即答で返される。
そのわずかなやり取りの間にも少女は再び姿を消し、帝国軍の隊列を次々と切り崩していた。
何が起きているのか把握できないままに絶命しているのだろう。
前進しながら体がばらばらに散って行く兵達の姿は、まるで糸を切られた操り人形のようにも見える。
一つ刀が閃くだけで無数の斬撃が生じ、大量の人体がいとも容易く細断されて紙吹雪のように宙を舞う。
その様は先程の兵器が生温く思える程。
帝国から悪魔と呼ばれ恐れられるのも納得がいく。
最早強いなどという一言では表せぬ、異次元の暴力である。
サリディアとてニーベルの師を務める程の腕前を持つが、それですら遠目に奔る斬閃を追うのがやっと。目前で対峙したなら、剣のみではまともに斬り合えるかも怪しい。
戦慄に囚われ目を奪われたサリディアは、ついに決定的な場面を見ることになる。
瞬く間に瓦解した帝国軍の只中へ降り立った少女は、血に濡れた満面の笑みを湛えていたのだ。
愛らしい顔には一片の邪気も殺気も感じられず。ただ純粋に殺戮に興じているのを覗わせる。
築いた屍の上に楚々として立つ姿は寒気がする程美しく、殊更におぞましさを際立たせていた。
サリディアは少女の振る舞いに、無垢故の残虐性を垣間見た。
ニーベルの言う通り、完全なる邪悪ではないのだろう。
しかし、喜びをもって必要以上に人体を損壊するやり口は、相手が侵略者であろうと人の尊厳を踏みにじる行為である。神の僕としては断じて正義と認める訳にはいかぬ、鬼畜の所業と言わざるを得ない。
明らかに、秩序を容易く乱し得る危うさを孕んでいる。
そのような者が英雄として祭り上げられている公国の現状は、立場上実に憂慮するべき問題だと思えた。
「……危険ですね」
ぽつりとサリディアが呟いた時。
混乱した帝国兵が誤射でもしたのか、複数の流れ弾が砦へ向かって飛んできた。
「大佐殿!」
「主のご加護を信じなさい」
危機を感じて慌てる兵らを、サリディアの一言がたちまちにして鎮める。
果たしてその直後、弾丸は砦に達することなく見えざる壁に阻まれて破裂した。爆発の余波すら遮られ、砦にはそよ風一つ届かず消える。
予めサリディアや他の神官兵が協力し、奇跡による結界を張っていたのだ。彼女らの高い信仰心があって初めて成せる御業であった。
これで帝国の新兵器が防げると判明したのは収穫だったが、今はそれより優先すべきことがある。
さほどの時間もかけずに帝国軍が全滅したのを見届けたサリディアは、足早にその場を離れた。
「大佐殿、どちらへ?」
「ご挨拶に向かいます」
後に続いたニーベルへ短く返すと、馬を駆るべく厩舎へ向かって行った。