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6輪目 白石、一色家を訪ねる

 そうして2か月ほどが過ぎた頃、芙美子は街に買い物に出ていた。

 あれ以来すべてがふわふわと現実的でなく感じる。しゃきっとしなきゃ、という思いはあるのだが、自分の心持ちが浮いたり沈んだりと移り変わりが激しくて落ち着かない。ただ、何かに打ち込んでいる時は辛いことを忘れられるのでふわふわとしながらも芙美子なりにがむしゃらにがんばっている。


 秋もすっかり深まり、外の空気は冷たい。毛糸で編んだ赤い肩掛けを羽織り庭に出ると、もうすっかり芙美子の菊は花開いている。

 もう何枚もこの花を描いた。試し描きの雑紙も山ほど使ったし、画帳にも描き起こした。あの時、描いたら見せると孝太郎と約束をしたのだから、蕾の時、やっと蕾がほぐれてきた時、一分咲き、三分咲き、五分咲きと時を変えて何枚も何枚も描いている。

 その度に雑紙にたくさん練習して、やっと孝太郎からもらった画帳に筆を落とし1枚を描く。孝太郎が褒めてくれるように、喜んでくれるように心を込めて丁寧に描く。

 そうして昨日、満開と言えるところまで開いた菊を描き始めている。その瑞々しさや清楚さ、高貴さを余すところなく写し取れるように心がけて線を引く。


 だがふと筆を置いて緊張を緩めた時に目頭が熱くなってしまう。孝太郎がいない不安と心配と焦燥、そして寂しさがないまぜになって芙美子を苛む。

 そうして孝太郎を慕う心を自覚させられるのだ。

 ああ、気持ちに蓋なぞせずにいればよかった。孝太郎に気持ちを伝えてしまえばよかった。芙美子は後悔し始めていた。

 慕う心を告げたくても告げられない、それがこんなに苦しいことだとは思わなかった。

 万が一伝えていたらどうなっただろう。孝太郎は迷惑に思うだろうか。それとも喜んでくれるだろうか。

 わからないけれど、孝太郎が帰ってきたら衝動的に告げてしまうかもしれない。

 けれど今はできないから、その沸き上がる思慕は筆に込める。

 そうして芙美子は画帳の菊にもう一筆薄墨を置くのだった。


 この日はただ家のことと絵ばかりに熱中している芙美子を心配した松子に街に買い物に追い出されてしまった。

 自分でも引きこもっている自覚はあったので、素直に言いつけられたものを買いに出た。

 自分のものを買う気にはなれなかった。だから葱に薄揚げ、床の間に飾る花、そんなものを買い揃えて芙美子は家へと道を戻り始めた。川沿いの道は少し寒いけれど、風がないのでさほど辛くはない。それでもやんわりと揺れる柳を眺めながら、芙美子は道をゆっくりと歩いた。

 ――と、芙美子を呼び止める声があった。


「芙美子さん」


 ゆるりと振り向くと、一台の車が止まり、中から洋装の青年が会釈をしている。


「白石――様」


 白石だった。だが芙美子は一瞬戸迷ってしまった。というのも、あの日陽気に料理をほめてくれた青年とはあまりに違う表情だったからだ。

 頬はこけ、どこか病的なほどに色も白い。だから別の人ではないかと思っても無理はない。


「こんにちは。車の中から失礼します」


 車から降りずに白石が挨拶してくる。彼の首から白い三角巾で左腕を吊っているのが見えた。

 そういえば白石はあの時重傷を負ったと聞いていた。そう思い出し、この様子にも合点がいった。ひょっとしたら退院したばかりなのかもしれない。

 芙美子は車に近づいて頭を下げた。


「こんにちは。ご無沙汰いたしております」

「芙美子さん、実はこれからお宅にお伺いするところだったんです。よろしければご一緒しませんか」

「え、でも」

「ああ、お出かけの途中でしたか。ではお帰りになるまでお宅の前で待たせていただきますね」


 白石の様子に芙美子はどこか落ち着かない気持ちになってきた。彼が家に来た日は酔っていたとはいえ、あまりに白石の様子が違いすぎるからだろうか。

 白石はどうやら芙美子に、芙美子の家族に話があるようだ。

 喉の奥をぎゅっと絞られたような気持ちになる。白石の話をききたいような、聞きたくないような、聞かなければいけないような。

 そうだ。聞かなければいけない。あの時のことを。

 怖いけれど、怖くて仕方がないけれど。


「いえ、それには及びません。私ももう用事を済ませて帰るところです」

「では、どうぞ乗ってください。大丈夫、お宅までは車ならほんの5分ほどですし、車には私だけでなく、私に対しては人一倍厳しい執事と侍女も乗っております」


 見ると本当に初老の男性と、お仕着せの中年女性が乗っていて芙美子に会釈している。


「――それでは不躾ながらお願いできますでしょうか」


 芙美子がそう言うと、白石は笑顔を見せて芙美子を乗せた。





「まずは謝罪させてください」


 家に着き、応接間に案内されるなり白石が土下座した。応接間には松子と芙美子、そして文明が白石を迎えた。白石は連れてきた執事と侍女を伴って入ってきたが、2人は応接間には入ってこないで部屋の外でまっているようだ。


「一色大尉を助けられず、おめおめと自分だけが帰ってきてしまった。ご家族のご心痛を思うといても立ってもいられません。本当は戻ってすぐにでも謝罪に伺いたかったのですが、恥ずかしながら負傷いたしましてそのまま病院に監禁されておりましたため、伺うのがこんなに遅くなってしまいました。誠に申し訳ございません」


 そう言って頭を下げる白石を見て、芙美子と松子は息を呑んだ。三角巾で吊り下げられた左腕には手首から先が無くなっていたからだ。白石はその視線に気がついて眉を下げた。


「お見苦しいものを――申し訳ありません。不調法でご覧のとおりです」


 自嘲気味に笑いながら吊っている腕を撫でた。

 文明がそれを見ながら重苦しい表情でゆっくりと口を開いた。


「白石君、謝罪など必要ない。むしろ君こそよくぞ生きて帰ってきてくれた」

「――」


 白石が顔を伏せ押し黙る。わずかに肩が震えているようだが、ここでそれを指摘する者はいない。

 あの陽気な男がここまでやつれるほどだというのに、誰が何を言えるというのだろう。

 ただ沈黙の中に白石の抑えた嗚咽が混じるだけ。

 やがて顔を上げた白石に芙美子がそっとお茶のお代わりを差し出した。


「ありがとうございます」


 熱い緑茶にほう、と落ち着いた息を吐き、改めて芙美子たちへ向き直る。


「もしお聞きになりたければあの日起こったことをお話しできればと思います。けれども無理にとは申しません」

「お聞かせいただけるんですか」

「はい、もちろん」


 文明が松子と芙美子を振り向いた。視線で「聞きたいか」と問いかけてきたのがわかったので、二人とも頷いた。


「では、お願いする」


 その文明の言葉を皮切りに、白石はお茶の載った机へと視線を落とし、ゆっくりと話し始めた。


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