3輪目 孝太郎、出立する
その日、孝太郎たちの部隊は上官である支倉中佐の長々とした訓示を聞かされていた。
支倉は部隊の詰め所に全員を集めて整列させ、ご自慢のカイゼル髭を指先でいじりながら「うぉっほん」と咳ばらいをしてさらに話を続ける。
「と、いうわけでだ。恐れ多くも広小路中将閣下がこの私を信頼して今回の調査をお任せ下さったわけだ。わかるな? つまり、今回の調査は必ずや成果を上げねばならん!」
口調がどんどん興奮の色を帯びていくのがわかる。部隊員たちは「ああまた始まった」と内心うんざりしつつも表情はまじめなまま崩さない。
「今回の案件は実に稀なケースだ。本来ならばあと50年100年は生まれないはずの魔窟が発生するかもしれないということだからな。必ずや成果を上げ、我が部隊の名を上げるのだ! 明朝六時に出立する。それまでに装備を整え詰め所に集合する。わかったな!」
「はっ!」
一糸乱れぬ動きで全員が姿勢を正し、声をそろえた。それに満足そうにうなずき、支倉中佐は詰め所を後にした。
途端に部隊員全員がはあーっ、と大きく息を吐いた。
「何とか調査にこぎつけたなあ」
「あれ、一色大尉が手配してくださったんですね」
白石を含めた二、三人が孝太郎のところへ来て、小さめの声でそう言って頭を下げた。孝太郎は「いや」と微笑んだ。
「俺はちらりと世間話をしただけだ。まさか中将まで話が行くとは思ってもいなかったなあ」
全員でにやりと笑った。
孝太郎が「世間話」をしたのは義父の文明にだ。「どんな話をしていたんだ」と聞かれて話したままを伝えただけだ。
ただし文明には昔なじみの「広小路中将」という親友がいる。ひょっとしたら親友に「噂話」を漏らしてしまったかもしれない。
普段ならこんな手は使わないのだが、魔窟に関することと言えばさすがに急を要する。だから文明を頼る真似をしたのだ。
さすがの支倉中佐も部下からの上申ではなくお偉いさんからの命令には嫌と言えなかったらしい。
かくして支倉部隊の魔窟調査派遣は決まったのであった。
「調査――ですか」
その夜の食卓で、芙美子は大きな瞳をますます大きく見開いて孝太郎の話を聞いた。
「ああ、部隊で調査にあたる。一週間ほど泊まりになるな」
「そうなんですね」
相槌を打ったつもりが、自分で考えた以上にこぼれ出た言葉が寂しそうな音を響かせたので芙美子は孝太郎から視線を外してしまった。まるで親に置いて行かれる子供みたいだ。
調査、ということなら危険は少ないのだろう。それでも芙美子は心配だった。たとえどんなに強い英雄だったとしても怪我をするときは怪我をするのだ。そんな物語を読書好きな芙美子はいくつも読んでいる。
「芙美子、心配はいらない。ただの調査だけだし俺もひとりでは行動することはないからな」
「は、はい」
孝太郎の言葉に頷き、鶏肉の照り焼きに箸をつけた。ちょっと濃い味つけにしたはずなのに味がしない。
孝太郎がこうして泊まりで仕事に行くことは決して珍しくはないのに、今回に限ってひどく胸騒ぎがする。なぜだろう。
何気ない顔をしているつもりだったが、芙美子の様子を見て孝太郎がくすっと笑った。
「なんだ、そんなに心配か? あやかし討伐よりはるかに危険のない任務だがなあ」
「――」
「ほんの一週間だ。芙美子の菊が咲くよりずっと早く帰ってくるさ」
「そう――ですよね」
そう、きっと大丈夫だ。芙美子は自分に言い聞かせて無理に笑顔を作って見せた。今回は「魔窟ができたかもしれないのでそれを調査する」と孝太郎は説明していた。あやかしが出たわけではないのだ。
(大丈夫、大丈夫――)
いつも早起きな芙美子だが、この日はさらに早い時間に目が覚めてしまった。
身支度を整え、少し肌寒くなってきた朝の空気の中、物音を立てないようそっと庭へ降りた。まだまだ固い菊のつぼみに朝露が零れ落ちる。
この間よりは少し蕾はゆるんだだろうか。いくらか色が変わってきた気がする。いつもなら嬉しくなるはずの変化を、今日は素直に喜べそうにない。
だって今日は孝太郎が調査に出かける日なのだから。
芙美子は早朝の冷たい空気で心を引き締め、手に持った小皿に菊の蕾や葉から朝露を集め始めた。わずかに集めたそれを手に自室に戻り、文机の前に腰を下ろす。朝露を硯に入れて墨をすり、筆を取った。願いを込めて小さめの和紙にすっと伸びる線を引いていく。
やがて描き終わったそれを小さな袋に畳んで入れて、芙美子は朝食の支度に向かうのだった。
いつもより早い朝食も終わらせて孝太郎が出立する時間になる。玄関に軍服姿で現れた孝太郎は、濃鼠色の詰襟上下、黒革の軍靴、マントに帽子。毎朝見ているのに、何度見ても見飽きないのはどうしてだろう。
「芙美子?」
孝太郎の呼びかけにはっと我に返り、不思議そうにこちらを見ている兄に慌てて駆け寄る。
「――そう心配するな。そうだな、土産は何がいいか? 今日行くあたりは山の上だから、そろそろ紅葉が色づいているかもしれん。よさそうな葉があったら一枝取ってこようか。それとも近くの村の土産物屋で売っている飴玉がいいか」
「兄さんったら」
子供をあやすように頭をポン、と撫でる孝太郎の手が大きい。手袋に包まれた手は、乱さないように優しく芙美子の髪を梳く。
「さて時間だ。芙美子、留守を頼むぞ。行ってくる」
「はい――あっ、兄さん、これを」
芙美子は孝太郎を呼び止めて着物の懐から小さな守り袋を取り出した。青い布で手作りした守り袋だ。
「お守りか?」
「はい、いえ、私が作ったものなのであまりきれいではないのですが」
「作ってくれたのか」
「その――中身はヒイラギの絵なんです。ほら、お節句でも魔除けに飾るじゃないですか。だから、朝一番の朝露で描いた絵を……」
とたんに芙美子は恥ずかしくなってきた。心配しているのは確かだが、そんなまじないじみたことをして子供っぽかったかなあと思ったのだ。土産に飴玉と言われても無理はないのかもしれない。守り袋を渡そうと差し出した手を止め、思わず引っ込めそうになった。
けれどその手は孝太郎の手に取り押さえられてしまった。
「ありがとう。肌身離さず持っていくよ」
そう言って守り袋は孝太郎の胸ポケットへとしまわれてしまった。
「は、はい。どうぞご無事でお戻りくださいね」
出かけていく孝太郎の背中に火打石をカチカチと合わせる。今日は特に心を込めて。
何事もなく無事に帰ってきてくれますようにと祈りを込めて。