2輪目 白石の訪問
「白石輝彦中尉であります! 本日はお邪魔いたします」
週末になり、約束通り白石が訪ねてきた。初めて会った白石は、想像していたのとちょっと違う感じだと芙美子は思った。
髪はゆるやかに波打つ栗色で、後ろ頭で一つに束ねられている。そのおくれ毛が沿う輪郭はきれいなうりざね顔、少し垂れ目な瞳は黒というよりグレーがかった茶色。
道行く女性が思わず振り向いてしまいそうな美貌に長身、けれど怜悧な雰囲気ではなくむしろ陽気そうな気配を醸し出している。
孝太郎が月なら白石は太陽、そんな取り合わせだと思った。
「初めまして、妹の芙美子と申します」
「やあ、貴女が芙美子さん! お噂は一色大尉から伺っています。あ、これつまらないものですが」
手土産を渡しつつにこにこと笑顔の白石につられて芙美子も笑顔になる。
「まあ、ありがとうございます。お気遣いいただいて」
「いえ、お招き頂いたのですから当然のことです――それにしても大尉、こんな美しい妹さんだなんて一言もおっしゃらないんですから。しまったなあ、もっといい格好してくるんだった」
「白石」
「おお怖。はいはい、失礼いたしました大尉」
あまり悪びれることなくさらっと謝罪を口にし、もう一度芙美子に視線を向けてニッと笑ってみせた。
悪い人ではなさそうだ。
「これ、芙美子さんが作られたんですか! いやあ、こんなに料理上手だなんてびっくりだ。大尉は毎日こんな美味いもの食べてるからあんなにお強いんだ」
「おべっかを言っても負けてはやらんぞ」
「わざと負けられても嬉しくないです。いやいや、本当ですって。俺、毎日でもここに飯食いに来たいくらいです」
そう言いながら白石はパクパクと箸を口へ運ぶ。芋好きは正しかったようで、芙美子が炊いたえび芋のそぼろ餡かけがどんどんなくなっていく。あまりの健啖家ぶりに芙美子は思わず笑顔になってしまう。
「ところで芙美子さん、これは?」
白石の視線の先にあるのは、ザクザクとした衣を纏ったキツネ色の球体だ。食べやすいように一口大に作ってある。
「じゃが芋と鮭のコロッケです。お口に合うといいんですけど」
「これは美味い! 本当に大尉が羨ましい」
箸を進めつつしきりに白石は芙美子に話しかける。最初は気軽に応じていたが、ふと孝太郎がひどく無口なことに気がついた。芙美子は慌てて腰を上げた。
「あら、長居して申し訳ありません。ごゆっくりなさってくださいね」
「え? あ、ありがとうございます」
芙美子は部屋を出て廊下を台所へと歩く。
――兄さん、何だか不機嫌だった?
廊下を進んで縁側を通り過ぎる。閉じられたガラスの嵌まった引き戸には少し憂い顔の芙美子が映る。その向こう、夜の庭でまだ固く蕾を結んでいる菊がガラスに映る芙美子にふと重なった。
座敷では白石がにこにこと盃を傾けている。向かいの孝太郎は何も言わず同じく盃を傾けるが、ほんのわずか眉間にしわが寄っている。
白石はそれに気づいたのか気づかないのか、上機嫌そうに芙美子が出て行った障子の向こうを見やって言った。
「それにしても芙美子さんは本当におかわいらしい方ですねえ。一度デートしてくれないかなあ――冗談! 冗談ですよ、いえあわよくばという気持ちはありますが、大尉の大切な妹君に手出ししようなんて、俺はそこまで命知らずじゃありませんって」
「何をそんなに慌ててるんだ、おまえは」
呆れたように孝太郎は盃を傾けた。
「ところで聞いてくださいよ、大尉。これ、情報屋から来た話なんですが」
酒で少しばかり軽くなった口をくるくる回して白石が話題を変えた。声を潜めて低い声で続ける。
「風志山の麓に魔窟が開くかもしれない、と言うんです」
「なに?」
途端に孝太郎の表情がぴりりと引き締まる。
魔窟。
それは文字通り魔の巣窟。理屈はわかっていないが、あやかしが大量発生する危険な場所だ。100年に一度くらいの周期で開くが、世界のどこに開くかは全くわからない。
「あやかし」は世界に漂う陰の気が何かの拍子に凝り固まり、そこから生まれでてくると言われているが、はっきりとはわかっていない。発生の兆候が見られた時は退妖師団が出動し、魔窟を浄化・封印する。処置が遅れると場合によってはあやかしの大群と戦うことになるので、できるだけ早期の処置が望ましい。
ただし、1番最近に確認されたのは50年前のことだ。必ず100年おきというわけではないが、まだ魔窟が開くには些か早い。
「それなら支倉中佐に報告するのが筋だろう。今からでも言って」
「いえ、その必要はありません」
「理由を聞こう」
「ひとつはあの中佐殿には報告済だからです」
「ならば」
「いやいや、さすがはダメ倉。一笑に伏されました」
孝太郎は片眉を吊り上げ、なるほどなと嘆息した。
支倉中佐は孝太郎たちの直属の上司だが、あまりいい上司とは言えない。何事も面倒くさいらしく仕事ぶりは決して褒められたものではないからだ。
「中佐いわく『まだ50年だよ、君い。こんなに早く魔窟ができるわけがないだろう。ガセだよ、ガセ』だそうです」
白石の支倉中佐モノマネに口に含んだ芋をグッと喉につまらせそうになった。
「しかし――それで調査も指示しないのか、あの人は」
「ですね。なので大尉にご協力願えないかと思いまして」
「ふむ」
孝太郎は顎に手を当てて少しだけ考えこんだ。
「――わかった。協力しよう」
「ありがとうございます! さすが大尉殿だ、話が早い」
ホッとした顔で白石がコロッケに箸をつけた。よほど気に入ったようだ。
「なるほど、それが今日の訪問の目的か」
よく冷えた酒をキュッとあおりつつ孝太郎がポツリと呟いたが、白石の耳には届いていないようだった。
夜も遅くなり、白石は暇を告げた。ほどよく酒も入り、頬が少し赤くなっている。
白石は靴ひもを結び立ち上がった時も少しフラッと体を揺らした。結構アルコールが回っているのだろう。
「白石、本当にひとりで大丈夫か?」
「はいっ、大尉殿! 問題ありません!」
直立で敬礼して見せる白石を見て孝太郎がため息をついた。背筋は伸びているが、そのまま左右にぐらぐら揺れている。玄関まで見送りに来ていた芙美子は白石の屈託のない笑顔に苦笑してしまった。
孝太郎がふう、とため息をついて靴を履く。
「――途中まで送ってくる」
「はい、お気をつけて白石さん。兄さんもどうぞお気をつけて」
「ありがとうございます! こんなにお綺麗で優しくて料理上手な芙美子さんにお見送りいただけて、不肖白石輝彦、光栄の至りです!」
「いい加減にしろ白石。ほら、行くぞ」
白石の背中を叩きながら夜の中へ歩いていく孝太郎を見送り、芙美子はそっと玄関の扉を閉めた。一緒に見送っていた松子がくすりと笑った。
「話には聞いていたけれど、陽気な方ねえ、白石さんて」
「ええ。本当に兄さんと仲良さそうで――母さん、あとは私が片付けておくから、先に休んで」
「あら、いいの? じゃあお言葉に甘えようかしら」
明日の朝食は私が片付けるわね、と松子が自室へ去り、芙美子はひとりで台所へ戻った。
今日は品数を作ったので、二人前とはいえそれなりに皿の数がある。盥に水を張り、灰を溶かして藁束でごしごしとこすり始めた。静かな台所に皿洗いの水音、皿と皿のこすりあう音だけが響く。
――何だか、妙に家の中が広く感じる。静かすぎるせいだろうか。
こんなのは毎日のことなのに、先刻まで陽気でにぎやかな白石がいたから余計にそう感じてしまうのだろうか。
白石のことを思い出したからだろうか、皿を洗う手を動かしながらも、あの時のどこか機嫌の悪く見えた孝太郎を思い出してしまう。
ぴちょん。
盥に溜まった水に水道管から水滴が落ちる。部屋の中の静寂が際立って、芙美子はますます思考の海へ沈み込んでしまう。
(確かに兄さん、あの時機嫌が悪かった。私が延々と白石様とお話していたから? 邪魔だったのかしら)
けれど、今までに孝太郎がああいう態度を見せたことはない。
(ああそうか、きっと私には聞かせられない大事なお話があったのね。お仕事のこととか。それをお邪魔してしまったのかも)
そう考えついたらそうとしか思えない。悪いことをしてしまった。あとで謝らなければ。
あんなむすっとした顔をみせたことがない孝太だ。余程不快だったのだろう。
「ああ、どうしましょう――」
「何がだ?」
独り言が洩れてしまったところに声をかけられて、文字通り跳び上がるほど驚いた。振り向くといつの間にか孝太郎が帰ってきていて、台所の戸口からこちらを覗いている。その瞳がいつも通り穏やかな色を湛えているのを見て芙美子は少しほっとした。もうすでに止まってしまっていた手を前掛けで拭いながら孝太郎を振り返る。
「お、お帰りなさい兄さん。白石様は」
「だいぶ酔っていたな。だが足元がおぼつかないほどではなかったから心配するな」
「はい」
「まったく、よく食べたな白石は。あいつ、また来る気だぞ」
「あら、じゃあお食事でも酒の肴でも用意しますからいつでも呼んでくださいね」
「いいや、あいつに芙美子の手料理を食わせるのは勿体ない」
「やだ、兄さんったら」
和やかな会話。どうやら孝太郎は機嫌がいいらしい。芙美子は前掛けの端をきゅっと握り、少し下を向いた。
「あ、あの、兄さん」
「どうした? そういえば何か困っていたのでは?」
「い、いえ、さっき白石様がいらしていた時に長いこと私がお邪魔して兄さんが困っていたのではないかと――その、お詫びしなくちゃと考えていたのです」
「別に困ってなどいなかったぞ? 芙美子に謝罪される覚えはないが。むしろ俺の方が礼を言わなきゃいけないな。旨い料理をありがとう」
「――そうならいいんですが。でも兄さん、もし何か私に至らないところがあったら言ってくださいね」
「芙美子に至らないところなどない。心配するな――ならこれで芙美子の困りごとは解決だな。片付けを手伝おう」
「いえ、兄さんの手を煩わせるわけには」
「いいから。洗った皿を拭いて片付けるくらいはできるさ」
ふわりと見せた孝太郎の笑顔に芙美子が見惚れていた一瞬で、孝太郎は布巾を手に皿を拭き始めた。確かに拭いてもらえるだけでもずっと早く終わるだろう。
「ありがとうございます、兄さん」
「芙美子の方こそ大変だっただろう、あんなに品数を用意してくれるとは思っていなかった。あの芋と鮭のコロッケ、また作ってくれるか」
「ええ、いつでも」
再び台所に水音と皿のこすれるカチャカチャという音が響き始める。こすり終わった皿をすすぎ、籠に伏せていくのを孝太郎が布巾で拭き上げていく。二人でやればどんどん洗い物は終わっていく。
(二人で作業、何だか夫婦みたいな――)
ふとそう思ってしまい、ハッと我に返る。
(嫌だ、恥ずかしい想像を)
動揺しながら手に持った漆塗りの椀をすすぎ、籠へ伏せようと手を伸ばし――皿を取ろうとした孝太郎の手とぶつかった。
「ひゃ!」
芙美子の口が勝手に変な声を立て、それすら自分で驚いて手にしていた椀を取り落としてしまう。かこん、と軽い音を立てて椀が床に転がった。
「芙美子、すまない。手が当たってしまったな」
「い、いえ、私こそ」
少しどもりながら答え、椀を拾って洗いなおしながらも必死に表情を取り繕う。さっき触れてしまった手の甲が熱を持っている気がしていたが、触ったところを濡らしたくなくて気を付けて洗い物を済ませた。
様子がおかしいと気づかれなかっただろうか。挙動不審ではなかっただろうか。
こっそりと見上げた孝太郎は特に何も気づいたようには見えなくて、ほっと胸をなでおろした。