1輪目 芙美子と孝太郎
新連載です。いつもよりちょっと硬めの文で書きましたが、内容はそんなにお堅くはないと思います。よろしくお願いいたします。
庭の隅で菊が蕾をつけている。真っ白な大輪の菊を三本仕立てにしたもので、まだ濃い緑の蕾は固く結ばれていて瑞々しい葉はぴんと張りがある。芙美子が丹精込めている鉢だ。品評会に出せるようなものではないが、芙美子は咲くのを心待ちに大切に育てている。
九月の日差しはもう秋の色、空の青も夏の頃よりすっきりと澄み渡っている。澄んだ空に菊の葉の緑が映えて美しい。水をやる手を止めて空を仰ぐと、小鳥がせわしなく飛んでいくのが目に入る。つがいだろうか、仲睦まじく鳴いている。
「おや、蕾がついたのか」
縁側から声がかかる。振り向くと濃鼠色の軍服を身に着けた背の高い青年が芙美子を見ている。兄の孝太郎だ。隙なく着こなした軍服は、整って涼やかな孝太郎の面差しによく似合っている。
「ええ、これを三輪一緒に咲かせるのが難しくて。でも何とかなりそうです」
「よかったな。俺も咲くのを楽しみにしている――では行ってくる」
「あら、もうそんな時間」
芙美子はカタカタと下駄を鳴らして家に上がり、孝太郎のあとをついて玄関に向かう。上り框に腰を下ろし軍靴の紐を結んでいる孝太郎の後ろで単衣の着物の衿を正して背筋を伸ばし、結び終わって立ち上がった孝太郎の後ろ姿にカチカチと火打ち石を鳴らした。小さな火花が軍服の背に舞い散る。
「兄さん、今日もお仕事頑張ってくださいね」
「ありがとう。ああ、今日の夕食は何かな?」
「そうですね、兄さんのお好きな鮭にしましょうか」
「そうか、楽しみにしているよ。ああそうだ、次の休みに白石が遊びに来たいと言っていた」
「白石様が? では何か肴をご用意いたしますね。白石様は何がお好きでしょうか」
白石は孝太郎の部下だ。孝太郎のことを兄のように慕っているらしく、孝太郎からよく名前を聞く。芙美子はまだ会ったことはないのだが。
「そうだな、あいつは芋が好きだな」
「芋、ですか。今の時期なら里芋かしら……わかりました、何か考えておきますね」
「頼んだ」
そう言うと芙美子の頭をポンポン、と二回手で軽く叩き、優しい微笑みを残して孝太郎は出かけていった。その後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで見送って、芙美子はほう、とひとつため息をついた。
――どうして兄さんはああも凛々しくていらっしゃるんだろう。
ああやって微笑みかけられるたび、芙美子の心臓ははしたなく悲鳴を上げるのだ。
兄、といっても孝太郎は父の後添いである松子の連れ子、芙美子と血のつながりはない。五年前に突然出来た、三つ年上の凛々しい義兄。
芙美子は出会った瞬間芽生えた生まれて初めての淡い想いに戸惑い、けれどそっと蓋をした。
あの方は義兄となる方、男性として意識するなどあってはならない事。
――蓋をして、抑えきれるものではなかったが。
(今日もどうか兄さんが無事に一日を終えられますように)
孝太郎の背が消えた辻を見たまま、芙美子はそっと天に祈った。
芙美子たちの暮らすこの国は名を陽元皇国という。
四方を海に囲まれた島国で、おかげで諸外国とはほとんど交流がなく現在に至ってしまった。国を閉ざしていたわけではない。単純に存在を知られていなかっただけだ。
ほんの数十年前、諸外国との交流が始まり、国はずいぶんと西欧化が進んできた。人々は前を合わせて帯を締める伝統的な着物だけでなく、西欧風の服装を取り入れるようになり、今までは食べていなかった肉類を食するようになった。逆に陽元皇国の食生活は健康的だと外国でもてはやされ始めたようだ。諸外国との交流も交易も、極めていい関係を築いているといえる。
一方で軍隊も西欧化しつつある。武器や兵器については言わずもがな、特に戦略に関しては西欧のそれは新しい風を軍隊にもたらしている。
軍、といっても戦争をしているわけではない。主に防衛と国の治安維持が主な仕事になっている。
だがその中でも孝太郎の所属しているのは特殊な師団、その名を退妖師団と呼ばれる、対あやかし専門の部隊だ。
あやかしとは人に害なす魔物の総称で、陰の気よどみから生まれるとか、恨みや怒りなどの激しい負の感情を持った生き物があやかしに転じるとか言われているがはっきりとしたことはわかっていない。あやかしはいずこからか頻繁に現れ人に害をなすので、専門の討伐隊がどの国にもある。退妖師団はあやかし専門、これが案外しょっちゅう出動の機会が訪れ、忙しい。師団の主戦力のひとりに数えられている孝太郎なぞ数日帰ってこないこともある。
だからこそ芙美子は孝太郎の無事を祈る。
大好きな兄が今日も無事に家へ帰って来られるように。その穏やかな微笑みを失わないように。
芙美子の家はどちらかというと裕福だ。父の文明は軍の文官でそれなりの地位にいて、孝太郎と同様これまた忙しい。だが家にお手伝いを雇うほどではないので、松子と芙美子は自分たちで家事を切り盛りしている。血の繋がらない母娘ではあるが、松子と芙美子は仲が良い。
午前中に掃除や洗濯を片付け、松子自慢のぬか漬けと卵焼き、蓮根のきんぴらといったありあわせのもので昼食を取ると、午後すぐに松子は週に一度のお茶の稽古へ出かけていった。その間芙美子はいつも大好きな絵を描いている。
何冊も溜まった画帳には花や鳥、虫などが墨と岩絵の具で描かれている。両親や義兄は手放しで褒めてくれるが、所詮は素人の手習い。身の程は弁えているし、描くこと自体が楽しいので家族に褒められればそれで満足だ。
ただ、この間の五月に描いた藤の花は特にいい出来だと自分でも思っている。休みの日に孝太郎に誘われて足を運んだ植物園の藤を描いたものだ。見事な藤の大棚、そこに咲く淡い紫の藤の一房にあの日の幸せな記憶が宿っている。
自室の文机の前に座り、練習用の雑紙にすっと筆を走らせる。やっと秋になってきたこの時期、庭を掃除していると、まだ若い紅葉など風情のある葉が見つかる。
朝の掃除で枝から失敬してきたそれを横に置いて、芙美子は夢中になって絵を描いていった。紅葉の葉の柔らかな葉先、ぱりっと細く真っ直ぐな軸。それらを1番素敵に表現できる描き方を一心に探っていく。
柔らかに、時にすっと真っ直ぐに筆先が走る。
やがて練習した紙が芙美子が座る周りを取り囲むほど広げられた頃、松子が帰宅した。
そろそろ夕飯の支度をしなければ。
文明も孝太郎も、今日は少し帰りが遅かった。たまたま帰りに行き合ったらしく、珍しく二人揃っての帰宅だ。
準備がちょうど終わっていた夕食は、約束通り鮭を用意した。大ぶりの鮭は脂が乗っていて美味しい。箸で身をほぐすと皿に赤橙の脂がとろりと残り、むしった身は口に含むとほろりと崩れ、鮭独特の香りが口いっぱいに広がる。
他には野菜の天ぷら、煮物に粕汁。根菜を中心にした粕汁はぷっくりとした酒粕の匂いがたまらない、家族全員の好物だ。仕込んですぐより時間を置いたほうがこっくりと酒粕が馴染んで美味しくなるので、朝から仕込んでおいた。
「そういえば孝太郎、明後日部下の方がいらっしゃるんだって?」
粕汁のお替りをよそいながら松子が聞いた。
「ええ、白石といって直属の部下です。少々お調子者ですが気のいい、信頼できる男です」
「まあ、孝太郎はよほど信頼しているのねえ」
「背中を任せられる奴ですね」
ずず、と粕汁をすすりながら少し孝太郎の頬が赤いのは、粕汁で体が温まったからか、あるいは少しばかり照れているからか。
「白石君と孝太郎は軍でも有名な二人組だ。風雷とか異名までついとるほどだ」
「父さん! やめてくださいよ、恥ずかしいんですそれ」
文明の言葉に今度こそ恥ずかしそうに孝太郎がそっぽを向き、食卓に笑い声が起きた。
和やかな夕食が終わり、食器を下げている芙美子を孝太郎が呼んだ。
「なぁに? 兄さん」
「芙美子に土産だ」
手渡されたのはまな板を二回りほど小さくしたような包み。促されて開けてみると。
「これ……画帳?」
上品な藍色の表紙のそれは、厚手の和紙を屏風折にしてページにしたもので、開くと長い一枚の紙になる。絵を描くための帳面だ。
「ちょうど手ごろなものがあったからな。菊が咲くだろう? そうしたらこの画帳に描くといい」
「――! 兄さん、ありがとうございます!」
芙美子は礼を言って思わず笑顔になった。こんな素敵な画帳に描いたら、拙い自分の絵でも素晴らしい作品に見えるかもしれない。
何より大好きな兄さんが贈ってくれた画帳だ、うれしくないわけがない。
「大切にしますね」
「描いたら見せてくれよ」
「はい、お見せできるように精進いたしますね」
芙美子はぎゅっと画帳を抱きしめた。孝太郎はそんな芙美子を見て目じりを下げたが、芙美子はそれに気が付かなかった。
イメージは大正~昭和初期くらいですが、あくまでイメージです。ファンタジーなので突っ込まずスルーしてくださいね。
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