第1話
本当に大切なものは、失って初めて気付く。
千堂あかねがそれを身をもって知ったのは、今朝のことだった。
白いベッドと小さなローテーブルに、漫画だけが置かれた本棚。
カラフルなクッションや動物のぬいぐるみがあちこちに散らかっている。
そんなありふれた女子高生の部屋を、太陽が強く照らす。
「ふぁぁ...」
あかねは起床すると、寝惚け眼で時計を見た。
「あれ、9時...?やばい!」
やばいというのは学校に遅刻することにではなく、朝食を食べ損ねたことに対してだった。
「なんでお母さん起こしてくれなかったんだよー。」
ぼやきながら、慌てて2階のリビングへ駆け降りる。
しかし、そこに母の姿は無かった。
「あれ、お母さん?もう仕事行ったのかな。」
疑問に思いながらも、せっせと登校のために支度をする。
母の出勤時刻は遅めだったが、こういった早出はままあることだった。
あかねは手早く支度を済ませると、玄関に腰掛けてローファーを履いた。
「さて、それじゃあ私は重役出勤と行きますか。」
あかねは冗談交じりの独り言を呟きながら、キーホルダーだらけのスクールバッグを肩に掛けた。
ドアノブに手を掛けて扉を開くと、見慣れた外の景色が目に入ってくる、その時。
「あかねちゃん!!!」
息切れしながら発したような、しかし朝の街中には似つかわしくないほど大きな叫び声。
驚いたあかねが声の主に目を向けると、幼い頃からの友人である天津けいが、青ざめた顔であかねを見つめていた。
丁度走って来たようで、その顔には大量の汗が垂れている。
あかねは、けいも寝坊をして焦っているのだろうと思ったが、彼女の深刻さを帯びた顔がそれを否定した。
心配になったあかねは声をかけようとしたが、それを制止するかのように彼女は口を開いた。
「あかねちゃん!お母さんはいた!?」
あかねはその言葉の意味が理解できなかった。
母に用事があるとして、いる?というなら分かるが、いた?というのは一体どういう事だろう。
釈然としないあかねをよそに、けいは更に言葉を続けた。
「起きたらお母さんもお父さんもいなくて、それで学校行ったら開いてなくて...だからあかねんちに行こうと思って。」
彼女の話は、どうにも要領を得ない。
あかねの頭にはいくつもの疑問が浮かんだ。
しかし、けいの発した次の言葉が、それらを全て消し飛ばした。
「それでね、ここに来るまで、誰にも会って無いの。」
本当に大切なものは、失って初めて気付く。
あかねは、日常の終わりと非日常の始まりを告げる、チャイムの音が聞こえた気がした。