果てしない物語の果てしない始まり
両親を殺された洋一は、養護院に預けられるが、恐怖の院長から虐待を受けてしまう。彼を救いに来たのは、ミュンヒハウゼンを名乗る老人と二人の侍だった!
冒険ファンタジーの傑作がついに登場!
一人の男がいる。
年は四十ばかり。頭は禿げ上がり、妻とは別れ、一人娘にはすっかり嫌われている。会社はリストラしかかり、友達はいない。他人からは、本物の変人だと思われている。住んでいるところは変てこだし、その人物とて変てこだ。
でも、彼は信じている。昔、本の世界を旅したことを。大昔に別れた友達のことを。
その人物が、いつか迎えにくることを。
だから、今日は一つの物語を語るとしよう。
息をついて、しゃれた話を一くさり。
お気に召すなら、幸いだが。
第一部 果てしない物語の果てしない始まり
はじめに
不思議なことというのは意外なことであるだけに、やっぱり意外な場所で起こるというのが常である。意外な場所で起こるからには、やっぱり人の目には止まりにくいし、あるいはそれというものが不思議で意外であるだけに、誰もが気のつきにくいものなのかもしれない。不思議な事に注意している人というものは、やっぱり少ないものなのだ。
これから私がつらつら述べるお話というものは、やっぱり不思議なことであるだけに、意外な場所で起こっていて、だからこの話を知っている人は、極めてまれであろうと思う。人伝に聞いたという人には、違う話に聞こえるかもしれないし、その人と私がこれから語るお話には若干の差違もあろうと思う。はじめて聞く人ならば、尚更奇異に聞こえることだろう。そのために怒り出す人もいるだろうし、出鱈目だ嘘吐きだと言って、非難をする人もいくらかはある。
だけど、そういう人には、不思議なこと意外なことが目に止まりにくいというだけで、やはり奇怪面妖なことなど、この世にはいくらでもあるものなのだ。
本当かよと眉に唾する|方、嘘もほんともどうでもよい……と紙をおめくりになるあなた。世の中、反応はごまんとあれど、私はこれだけは言いたい。これから物語るお話というものに、嘘偽りは全くない。
柔軟で広い心さえあれば、奇怪面妖なことなど、この世にはいくらでも起こりうるものなのである。
その少年について
もし――
あのときああしていたら、あのときああだったらという思いは誰にでもあろうと思うが、牧村洋一がどこともしれない場所で、ちびのジョンや赤服ウィル、時代錯誤のお侍、信用のおけないほらふき男爵といった面々に取り囲まれながら、木に吊したハンモックにくるまり、うつらうつらと考えていたのは、次のようなことだった。
あの日、父さんと母さんが死んでいなかったら。
男爵の誘いを断っていたら。
どうなっていたろうか?
このようなタラレバというものは、人の耳に入ると女々しく聞こえるものだし、聞こえれば、言ってもしょうのないことをぐずぐず言うなと叱り飛ばしたくもなる。だけど、彼のために弁護をするならば、両親の死というものこそ、彼にはどうしようもないもので、あのとき男爵の誘いを断るのはいっとう無理なことだった。
彼はまだ小学五年生の子供だし、背も普通だし成績も悪いし、取り柄もなければ小遣いも少なかった。そんなわけで、この先の人生を養護院で暮らすなんて、絶対に嫌だったのである。
洋一は家に帰りたかった。生まれ育った図書館に帰りたかった(正確には、今もその図書館にいるのだが。いるはずだ。きっと)。養子なんて絶対にいやだし、両親には帰ってきて欲しかったのである。
あのとき彼の願いはそれだけで、仕様もないことは言わなかったし、高望みもしなかった。無理なお願い、だけをした……。
洋一少年の育った環境は、ちょっとばかり変わっていた。
住んでいるところは古い洋館だし、その広い洋館は、図書館に改造されていた。両親は古今東西のあらゆる本を掻き集めていたが、その屋敷は山の上に建っていたから、利用者はあまりにも少なかった。
さきほどのお話のとおり、それは意外でひっそりとした場所であったから、不思議なことや奇怪なことが、近寄りやすかったのかもしれない。今から考えると、洋一の両親というのも、ちょっと奇怪な人たちだった。
洋一の両親は、牧村恭一、薫といった。三十路のなかばをこえても若々しく、人生に疲れてもいない。洋一にとって、両親というのはかならず家にいて、そして、なんの仕事もしていない人たちだった。二人は本に掛かり切りで、まさに本に取り憑かれたような人たちだった。収入は一切ない。豪奢な屋敷に住んでいるわりに、暮らし向きは質素なものだ。
それでも洋一は両親が好きだった。長い登り道にこそ辟易していたが、あの古びた屋敷のことも好きだった。利用者が少ないと言っても、押し掛ける友人は多かったのであって、ただ彼らの大半が本嫌いであっただけのことだ。ボタンを押せば、美しい画像が美しい物語を奏でてくれるというのに、なんでわざわざ紙の文字を追わなければならないのか。
とはいえ、洋館だって刺激物としては負けてはいない。その屋敷はゲームの一場面を連想するのに十分だし、なんといっても、子供心を刺激するのに、あんな立派な建物はなかった。子供をいっとう育てるものが、いっとう不可思議なものであるならば、あの洋館こそが、打ってつけだったのだ……。
このように書くと誤解を受けるかもしれないが、洋一はその屋敷に帰ってはいた。帰るときはこそこそしなかったし、堂々と門から入った。彼は、いままさにその日――屋敷に帰った、あの日のことを考えていたのである。
あの日というのがいつなのか、洋一にはもうわからなかった。彼の時間はめちゃくちゃだった(いやいや、一番にめちゃくちゃになったのは彼の人生そのものだが!)。一時間が数ヶ月になったようにも思うし、あるいは止まったようにも思えてくる。
洋一は毛布を引き寄せ、しかめっ面をしながら、大人めかしい考えに、小さな胸を痛めていた。いやいや人生というのは何が起こるかわからない、何でこんな目にあうんだと、ふんたらかんたら考え、人前では見せなくなった涙を、こっそりぽろりとこぼすのだった。
だが、このように唐突な話。諸兄とて突然されても、話の道筋などはわかりはしまい。だから、この少年のこれまでに目を向けたい。あの日から、これまでの話。
いや、まわりくどい物言いをして申し訳ない。率直に言おう。
彼は今、本の世界の中にいる……
第一章 恐怖の院長とほらふきな男爵について
その一 養護院みろくの里の実体について
1
果てしない夜の森の中、洋一少年が思いを馳せていたあの日というのは、冬も間中の寒い夜のことだった。
その日、古い石油ストーブの前で、彼は毛布にくるまっていた。外をわたる風に、洋館の窓は揺れていた。そうしてただ一人、お気に入りの本を膝に置き、クリームパンと、瓶詰めの牛乳に手を伸ばしていたその間に、彼の両親はこの世の人ではなくなった。手の届かぬところに、行ってしまったのである。
警官が訪ねてきたのは、洋一がそろそろ時間の遅いのを心配しはじめた頃だった。
洋一は玄関に応対に出て、そこで三人の警官から事情を聞いた。聞いているうちに、彼の手からは、牛乳とパンと毛布が落ちた。ほとんど飲み終えていた牛乳が床にこぼれ、その白い液体が、彼の真っ白になった脳裏に、いやに強く焼き付けられた。
いやな予感がした。
彼は毛布をもったまま、警官に誘われた。パトカーに乗るのは初めてだったし、隣に座る警官たちは、いたわりの目を向けていた。
パトカーは、サイレン音を鳴らしもしなかった……
2
洋一は病院まで連れて行かれたが、両親には会わせてもらえなかった(二人の体が、すっかり燃えたことを知ったのは、ずっと後のことである)。
洋一のまわりで、時間が呆然と流れていった。死というものは、大人でも理解しがたいものであったし、両親の死を受け入れるには、彼はまだ幼すぎた。相談をしようにも、となりにいる警官は、洋一にはちょっとばかりおっかなかった。友達に電話をしたかったが、夜も遅いし、どこからどこにかければいいのかわからなかった。電話番号の控えすらない。
洋一は、父さんと母さんはまだ手術室にいて、まだ治療を受けているに過ぎないんだと、そんな考えにしがみついた。呆然とはさきほど述べたが、彼の脳みそは大部分が考えることを放棄したかのようだった。
やがてそんな時間も過ぎ、病院の安置室の長椅子にすわりこむ洋一の前に、役所の人間が現れた。彼らはもうあの屋敷には住めないこと、法律により、養護院で暮らさねばならないことを告げた。洋一には親戚がいなかった。かれの唯一の身内は安置室にいるから、独りぼっちになったわけだ。肉体的にも、精神的にも……。
役所から来た女は、足立という名前で、きれいだが冷たい感じのする背の高い女性だった。冷え切っていたのは洋一の身と心の方だったから、そんなふうに感じたのかもしれない。
ともかく、洋一は病院を出ると、その人の車に乗せられ、いったんは、自宅の図書館まで連れ戻された。服や身の回りの品を持って行くためである。
足立は屋敷までの道々、養護院はどんなところか、そこではどんなふうに暮らさねばならないかを話してくれた。また、屋敷にはときおり戻っていいこと、そのおりは養護院の院長を通し、自分に連絡をつけることを約束させた。鍵はわたしが持っておくから、心配しなくていいのよ……。
車のヘッドライトは、夜の無機質な街を照らしていた。車はゆったりだとも、速かったとも言える。時間の感覚が、なかったのだ。
洋一は足立の方は見ずに、窓の外ばかり向いていた。外に知り合いがいないか、友達が呼び止めてくれはしないかと、そんな姿ばかりを探していた。
彼は、友達の寺勘たちのことを思った。
ときおり、足立の車は、柳やんやかっつんの家の前を通ったが、どの家並みも明かりは消えていて、彼の期待した友人の姿は、どこにもなかった。
屋敷につくと、洋一は、わざとゆっくり自室に向かった。後ろから、足立が屋敷を見回し、感嘆の声を上げるのが聞こえた。家具や、造りの広壮なことに驚いたのである。屋敷だけを見ていると、洋一の家は、とほうもないお金持ちだと人は思うのだが、じっさいには、つつましやかな生活だった。
洋一は旅行用のバッグを探し出し、子供の頭でいるだろうと思われるものを、バッグの中にほうりこんでいった。その間も、外で物音がするたびに窓に駆け寄り、両親か、あるいはクラスメートの姿をさがした。そのたびに、がっかりしては引き返すのだ。
阿部先生は、なんでこんなときにかぎってきてくれないんだろう。今が一番肝腎なときじゃないか、文化祭や体育祭より大事なときだと、彼は思った。
洋一は、パンツをたくさんと、ズボンを少々、セーターを一枚用意した。たまに戻ってこられると足立はいっていたから、ゲームやおもちゃは持っていくのを控えることにした。養護院がどんなところかわからないし、山さんみたいな、いやなやつがいたら、ゲームをとられないともかぎらない。
それから、養護院はどこにあるんだろう、これまでの学校に通えるんだろうかと不安に思って、最悪の結果を予想した。だから、足立に訊くのは控えることにした。たびたび戻ってきたかったから、わざと置いていったものもあった。帰るときの、口実になるように。
つまるところはこういうことだ。
洋一は、ちょっと待ってよ、と言いたかった。車に乗っている間も、カバンに服をつめている間も、ずっとそう言いたかった。足立が、もう屋敷にはなかなか戻れないだろうとか、はやく新しい親御さんが見つかるといいのだけれど、と言っているときは、とくに強くそう言いたかった。彼にはろくすっぽわけがわからなかった。人が死ぬだとか、両親にはもう会えないだとか、こんなときの世の中の仕組みだとか……
そんなことを理解するには、彼の心は柔軟でありすぎたのかもしれない。だけど、洋一だって、もうどうにもならないということは、わかっていた。
荷造りはすんだ。足立の車はゆるやかに発車して、屋敷に続く坂道をゆっくりと下った。洋一はシートにへばりつくようにして、その道と屋敷を視界におさめつづけた。自宅のある丘を離れ、あの林が見えなくなると、洋一はゆっくりと前をむいて座り直した。
3
養護院みろくの里は、三十人ばかりの子供たちを収容している。院長の自宅は、その邸内にあって、問題が起これば、いつでも駆けつけるというわけである。
さて、洋一をこの養護院に送ってきたものの、足立はこの院に洋一を預けるのは気が進まなかった。この辺りには、他に市立の養護院がなかった。みろくの里は評判がよかったけれど、それは、この院がどんな子供でも預かるからだった。みろくの里がいいと思っているのは足立の上司だったが、その人たちは、みろくの里には来たこともなかった。事務処理も子供たちの世話も、足立が一人でやっていた。だから、現場を知っているのは、足立だけなのだ。
足立はインターホンを押した。扉はすぐに開いた。鼻にドアがぶつかりかけた。扉の裏で待ちかまえていた男が、急にドアを開けたのだ。
洋一は、クラスでもとくに後列から三番目に背が低かったが、院長は背が高かった。洋一が見上げると、八の字の髭がにょきりにょきりと立体型にくっきり見えた。
院長は、女性にも洋一にも注意を払わなかった。酔っているようだった。
足立がどぎまぎした様子で言った。「団野院長、夜分遅くにもうしわけありません」
「ああ、まったくだな」
院長は言った。
「こちらは牧村洋一君ともうします。あの……院長、聞いてらっしゃいます?」
「それがどうかしたのかね……この子は孤児なんだろう」
と、院長は急に高くなった声でそう訊ねた。
「そのとおりですが、院長」
足立が院長の肘をとり、洋一から離れるような仕草をみせた。彼らは玄関の奥に寄った。院長は足立の話を少しだけ聞くと、洋一に向かって身をかがめた。
洋一は院長の肌から、日本酒の臭いをかいだ。彼の父親はワインやウィスキーを好んだ(日本酒はわたしを訳をわからなくさせる。ワインなら本が楽しめる、というのが理由だった)。なんだか嗅ぎなれない、いやな臭いだと洋一は思った。
「牧村」
と団野は言った。洋一君とも洋一、とも言わなかった。名字で呼ばれたので、洋一が感じていた団野院長の冷たい感触は、いっそう強くなった。
「親が死んだのか? 君には親戚がいないのか? 独りぼっちなんだな?」
院長は最後の、独りぼっちなんだな、を噛み締めるようにゆっくり言った。洋一は答えることだけができずに、ひゅっと息をのみこんだ。
洋一は、足立にこう言いたくなった。僕を連れて帰ってください、ここに残したりしないでください、この人と、二人きりにしないで下さい!
そんなことを言ったら、院長はどう思うだろうか? 最後に感じたこの思いで、洋一は胸に渦巻くその言葉を、口にすることだけは踏みとどまった。洋一は虐待を受けたことはないが、虐待のなんたるかは知っている。
洋一は、こわばった顔のまま、小さく幾度かうなずいた。院長の髭だけが、うれしそうに笑った。
洋一は、よりいっそうの不安を覚えたのだった。
4
足立は去っていった。彼女は去り際に、気をつけてね、と洋一に言いたかったが、そんな失礼なこと、院長の前で言えるだろうか?
団野院長が玄関を閉めた。団野院長は、目の前に立った。洋一は、扉と院長にはさまれた格好になる。洋一には院長のズボンとチャックしか見えない。背の高い人だな、と思った。僕が小さすぎるのかな?
次の瞬間には、洋一は顔を平手打ちにされ、タイルの上にしりもちをついていた。何が起きたのかわからずにいるうちに、鼻血が垂れ落ち彼の服に赤い染みを、一つ、二つともうけていった。
「夜分遅くに申し訳ありません」と院長は上目遣いで足立の口まねをした。「まったくだな。礼儀がなっとらん。失礼じゃないか。そうは思わないか? わたしは寝ていたかもしれない。酒を飲んでいたかもしれない。女と淫行をしていたかもしれないではないか。そうは思わないか?」
と訊きながらも、院長の目は、洋一を通り越していた。地球の中身でも覗いているかのような、心ここにあらずな目……
洋一は震えて黙りこんだ。両親が死んだのだって、彼にとっては口も利けないほどショックなことだ。骨が砕けるほど強烈な平手打ちを食ったのだって初めてだ。彼は父さんにはぶたれたことはなかったし、母さんにぶたれたのだって、もういつのことだったか思い出せもしないほど。それに、院長は手首付け根の硬い骨で、洋一のあごを正確に打った。彼のダメージは、脳みそにまでおよんで、いまだにぼうっとしている。その意味では、あの瞬間だけは、院長の足下は確かなものだったといえる。
院長の目の焦点が、ようやく洋一を探り当てた。洋一は院長の目玉に、怒りの熱気が揺らめくのを見た。
「お前はあいさつをしらんのか……」
「はい……?」
「はい? イエスなのか? そうなのか……」院長は洋一の襟首をひっつかむと、むりやり立たせ、「悪い子だ。すごく悪いじゃないか。うちじゃな、悪い子には折檻することになってる。折檻しないと、子供はいいこととわるいことを覚えないんだよ! なぜなら、子供には理屈をいっても無駄だからだ」
院長は酔っているとは思えない力で、洋一の体をドアに放り投げた。硬い樫のドアに背骨が跳ね返され、内臓が、胸から飛び出るほどの衝撃を受けた。
洋一が咳きこみうずくまっていると、院長は間も与えずに髪をつかみあげ、
「悪い子だ悪い子だ、覚えろ、覚えろ、しつけを覚えろ! 俺にあったらあいさつをすると!」
大声で叫びながら、洋一の頭を扉に打ち当てはじめた。洋一は脳みそを揺さぶられ考えることもできない。ようやっと考えられたのは、今日繰り返しつぶやいてきた言葉で、これは夢だ、の一言だった。
「みんな、なんでも俺に押しつけやがって、市の補助金なんてくそくらえだ」
院長は、最後に洋一の体を、ボールみたいに床にたたきつけた。
「くそくらえだ」
そういうと彼は立ち去ったのだが、恐怖と痛みに震える洋一の目には、院長の足下しか見えなかった。
5
骨が折れたんじゃないかと思った。肩甲骨や肋がひどく痛かった。こんなふうに痛めつけられたのは初めてだ。友達と喧嘩をしたことはあるが、それは痛めつけられたなんて言わない。院長は大人の圧倒的な力で、彼をおもちゃみたいに扱った。ゴミやボールをほうるみたいに、彼の体をほうり投げた。
だけど、彼が本当に冷凍庫に放りこまれたネズミみたいに震えだしたのは、鞭を持って戻ってくる院長の姿を目にしたときだ。こんな恐怖は、これまでなかった。
「おしおきだ」院長は言った。「おしおきだ。言うことをきかないやつはおしおきだ。しつけのなってない子はお仕置きだ! 俺様が悪いお前をとことんこらしめてやるぞ。腕を出せ!」
院長の持っている鞭は、乗馬につかう、短いが威力の鋭そうなやつだった。彼はそれをびゅんとふるわせた。鞭が棚にぶつかり木枠が裂けた。
洋一は、扉まで後ずさると、腕を体の後ろにかくし、
「僕は何もしてません!」
と泣きながら叫んだ。
「いやしている」
院長は、壁にかかった額縁の絵を鞭で打った。分厚い紙が、斜め一文字にきれいに裂けた。
洋一は、僕のほっぺもあんなふうにさけるんだ、と震えた。生まれてはじめて、どんなことでもするから、許してほしいとさえ思った。
院長は鞭の端を両手で持ち、仁王立ちした。
「お前は甘ったれてる。その証拠にあいさつもろくにできない。俺の睡眠のじゃまをした。酒を飲むのをじゃまをした。うちの院では、そういう小僧はきつくしつけるんだ。俺はそのためにお前を預かっている。両親にかわってお前をしゃんとしてやるぞ、とことんだ!」
「あやまります!」
洋一は言った。院長ははっとしたようにしゃべるのをやめ、天井を見ていた目を水平の位置までおろした。それでも洋一のことは見ようとしなかった。
「悪いことしたんならあやまるよ。だって僕、こんなところに連れて来られるなんて知らなかった。僕……」
「知らないことが罪なんだあ!」
とたんに院長が駆け寄ってきて、その右のつま先で、洋一のみぞおちを蹴り上げた。
洋一は痛みで息がつまる、横隔膜が引きつって、息も吸えない。
「知ったふうな口をきくな! 知ったふうな口をきくな! 子供は大人のいうことを聞けばいいんだ!」院長は叫びながら、なんどもなんども足を踏みおろす、洋一の体めがけて。「そうしないと、間違うだろう! 誰かが、お前たちを、しつけなければ、世の中は、どうなる? むちゃくちゃに、なってしまう。そうならないために、しつける、役目が、大人には、あるんだ!」
院長は酒に酔った荒い息を吐き、洋一を見下ろした。「腕を出せ」
洋一は震えながら丸まっている。彼は泣きながら言った。
「おしおきならもう受けた。もういいでしょう!」
「なんだその口の利き方は?」
洋一が見上げると、院長はあまりのことに呆然としているようだった。そんなふうに反論されるのは、さも心外だと言いたげに見下ろす。
焦点が二転三転して、洋一の目線と合った。
「誰にそんな口の利き方を習ったんだ?」
「誰でもいいよ! 僕の父さんは僕を叩いたりしなかった……」
「いまは、俺がお前の父さんじゃないか」
「お前なんか、僕の父さんじゃない……」
洋一は泣きながら、そっと膝元に顔をうずめていった。そうしたら、体が小さく丸まって、消えてしまえるみたいに。
院長はうなり声を上げながら、踵を洋一の後頭部に振り下ろした。院長は飛び上がると、お尻から彼の背中に落ちた。あまりの衝撃に洋一の体が伸びると、こんどは右足の上で地団駄をふみはじめた。
「こい」と院長は洋一の腕をひっつかみ、彼の体を引きずり出す。「二度とそんな口の利けない子にしてやるぞ! 俺にそんな口をきいた奴がどんな目にあうか、お前の体に焼き印をおしてやる!」
洋一は引きずられながら意識がもうろうとして、逃げなきゃ逃げなきゃと思うのに、頭が扉や壁にぶつかってもどうにもできず、その身に起きたあまりに理不尽な出来事のために、軽い緊張病を起こしていた。彼は痴呆のように口を半開きにし、よだれを垂らしていたのだが、院長が煙草を束にして丸め、それに火をつけだすと、急にしゃんとなった。
「どうするの?」
「吸うと思うのか?」
「ぼ、僕にそいつを押しつけたら、きっと黙ってないぞ」
「誰がだ?」
院長は洋一を見下ろした。真剣な目で。
「誰が黙っていないんだ。お前の親は丸焦げになって、ずっと黙ったままだ」
それがさもおもしろいジョークだとでもいうかのように一笑いした。洋一が泣き始めると、拳で彼の頭をこづきはじめた。
「泣くな、こいつ。男だろう、男だろう、男だろう。鍛え直してやるぞ、お前を俺がきたえなけりゃあ、そうとも、とことん、とことんやらなけりゃあ」
煙草に火が回った。十本ばかりが重なり合い、その先端の火口は赤い火の玉に変わった。
「誰も助けなんてこないんだぞお。それなのに、俺に逆らうってことがどういうことなのか、こいつで体に刻み込め!」
洋一は逃げようとしたが、院長は彼の頭を床に押しつけている。洋一は痛みとあきらめの気持ちも手伝って、抵抗らしい抵抗もできなかった。
院長は彼の背中に、服もめくらず火のついた煙草を押しつける。洋一の耳に服がとけるジュウッとした音が届き、彼は皮膚が焼ける痛みに声を限りに絶叫した。
洋一は信じられなかった、こんな痛みも自分がこんな声を出したことも。彼がちょっとでも怪我をしたら心配してくれる母さんがもういなくって、見知らぬ男に煙草の火を押しつけられていることも。
「どうだ! 誓え! ここに神に誓って誓約しろおっ! 二度と俺には逆らわないと! この院で起きたことは絶対に口外してはいけないんだぞお! みながそうしてきたようにお前も誓えええ!」
誓う! 誓います!
洋一は自分の喉がそういうのを聞いた。服や皮膚だけでなく、頭の中にも火がついたかのようだった。
「いい子だ」
院長の体が離れた、洋一はぐったりと床にしなだれた。
しかし、院長は手にした煙草の幾本かに火が消え残っていることに気がついたようで、その火を消すのに、灰皿ではなく洋一の体を使うことを思いついたようだ。
院長は、消え残しの一本を、洋一の右手に押しつけた。新しい痛みに苦悶する洋一の耳で、もう一本。こめかみでもう一本。そして、親指の爪に一本ずつ。
「お前は、しばらく外に出ることを禁ずる。この家の部屋に閉じこもってろ。いいか、体の傷を誰かに見られたら、俺が困るんだ……」
僕の体を傷つけたのは院長じゃないか……と洋一は心で、悲鳴混じりの非難を上げた。
6
洋一は自分が気を失っていたのか、そうでないのか、後になっても思い出すことができなかった。だけど、院長が彼の手を引きずり、廊下を引きずっていた光景を覚えているということは、完全に気絶していたわけではなかったらしい。ともかく、院長は自宅の物置に連れて行くと、その部屋に彼を押しこめた。それから、忙しくて放尿のことを今の今まで忘れていたみたいに、壁に向かってしょんべんをした。
足下に飛沫が飛んできた。
その後、院長は洋一の元に戻ってきて、テーブルに紙とペンを用意した。書け。と彼は言った。
「お前がここで暮らすための誓約書だ。言っておくが、これはれっきとした法律にのっとった書類なんだ。汚すなよ」
と院長は言った。
「お前は、ここで起きたことを誰かにしゃべってはいけないし、俺に逆らってもいけない。養護院の仲間とはうまくやれ。掃除や雑用もすべてお前に課せられた義務だ。うちではな、子供には労働の義務があると見なしている。お前は働いて金を稼がねばならん。お前が食う飯のための金を、お前の親父や母親が稼いだみたいに、こんどはお前が稼ぐんだ。ここに名前を書け」
院長は洋一に紙に書かれた内容を一通り読ませたあと、誓約書の下にある署名欄に名前を書かせた。
そのあと、院長が懐からカッターナイフを取り出したので、洋一は、あ、と声を上げた。
「心配するな。判を押すだけだ」
といいながら、院長は彼の親指を切り裂いた。
カッとした痛みがあった。かと思うと、洋一の親指に、見る見るうちに血があふれ出してきた。
院長は指にたっぷりと血がついたことを確かめると、名前の横に拇印を押した。
「これでいい。これでお前は正式にうちの院生となった。お前は以降十年間をここで暮らすんだ。これからは俺と養護院の生徒がお前の家族だ」
院長は誓約書を掲げた。
「逃げ出してはいけないと書いてある」
「誓約書に違反したら、どうなるの?」
洋一は怖ろしかったが、どうしても訊きたくてその質問を口にした。それに、これ以上は痛めつけようがないんじゃないかという、期待があった。
院長はさも心外なことを聞いたと言いたげに、
「それは法律違反じゃないか……そんなことをしたらどうなると思う?」
洋一はうなだれて答えなかった。
「お前は裁判にかけられて、刑務所に入ることになる」
院長は保証すると言いたげにうなずいた。それから、洋一の頬を張り飛ばした。
「そこはここなんかより、何十倍も怖ろしいところだ。そこに入らないためなら、なんでもするという気分にお前はなる。養護院を変わりたいなんて、そんなことは思ってもだめだ。そんなことはできない。世話になった俺にたいして失礼じゃないか。しゃんとした俺様がお前をしゃんとさせてやっているというのに。第一どこも似たようなものだし、どこよりもうちがましだからな」
院長は立ち上がると、扉に向かっていった。
「お前はここにいるんだ。わたしの許可がない限り、一歩も外に出てはいかん。出るかでないかは傷の治り具合をみて俺が決める。もし、規則を破ったときは……わかっているな?」
院長は部屋を出ていった。出ていくときは洋一を見もせずにこう言い残していった。
「養護院、みろくの里に、ようこそ」
その二 ほらふき男爵、かく現りき
1
暗闇だった。その闇の中で洋一が覚えているのは、体の痛みと心の痛み、院長の放ったアンモニアの臭気。日本酒のまじった、あの臭いときたら……。
時折身じろぎしたが、その身じろぎすら体に走る激痛のために、苦痛ですらあった。彼は暗闇の中で涙した。院長の痛烈なことばの数々は、受け入れるべからず両親の死を、むりやり洋一の喉に押しこんできた。もう二人には会えないんだ、と思うと、彼はつらかった。自分もこの世から、消えてしまいたかった。
これからは自分が家族だ、と院長は言った。洋一は、
「あんな家族なら、欲しくないよ……」
と、闇の中で答えた。
洋一は闇の中で横たわったまま、夜が明けるのを待った。夜が明けたとて、ここを出られる訳もないのだが、院長に逆らって、ふたたび虐待が行われれば、拘束はさらに長引くものと思われる。
「父さんも、母さんも、僕をちゃんと育ててくれたんだ……お前なんか」
熱いものが喉にかかって、先を続けられなかった。びっくりするほど熱い涙がこみ上げて、しゃくり上げて泣いたのだった。
あんなふうに言われっぱなしで、自分や父さんにたいして申し訳がなかった。なんとすれば、両親はもう反論なんてできないのだから、彼こそがあの院長に、屹度言ってやらなければならなかったのだ。
それから洋一は院長に言われたことを一生懸命考えてみた。大人からこんなふうに扱われたからには、自分が悪いことをしたからじゃないかと、疑ったのだ。だけど、院長の発した言葉の数々は、彼にとって大半が意味不明なものだったし、自分のどこが悪かったのかはわからなかった。
洋一は涙をこぼしたが、院長に聞こえないよう、必死に嗚咽をかみ殺した。それから、誓約書の規則をやぶったら、刑務所にいれられるなんてほんとかな? と考えた。いくら彼が小学生とはいっても、多少の知識はある。
院長の言葉は信じがたかったが、それでも彼は子供だ。
刑務所がここよりもおっかないところなのは、ほんとかもしれない。あそこは、罪を犯した大人の人が入るところだ。
事態がこれ以上悪くなるなんて、それこそお笑いぐさだが、今の洋一にはすべてが悲観的に見えた。生活と人生がすべてひっくり返った小学生が、奈落の底まで落ち込んだとして、それを攻められる人なんて、きっと三千世界にいやしないのである。
2
さて、牧村洋一は、体をのたくる激痛に歯を鳴らしながら、なんとか手をつき身を起こした。闇に目が慣れて、涙をぬぐい落としてみると、そこがデスクや本棚の置かれた狭い物置であることがわかった。
洋一は立ち上がって、扉に鍵がかかっているか確かめようかと思ったが、足を振り上げ、暴れ狂う院長の姿がなんども脳裏をよぎって、立つことすらかなわなかった。そんなふうにおびえるのは腹立たしくもあったが、院長の殴打は彼のガッツを根こそぎ持ち去ってしまったものらしい。
洋一は腫れ上がった瞼の下で、部屋の端にカーテンが掛かっているのを見た。一瞬彼は、映画の主人公宜しく、そこから逃げ出す自分の姿を想像したが、体が怪我で思うように動かない今、逃げ出したところで捕まるのは時間の問題だった。車でここに来たから、自分のいた洋館がどの辺りにあり、どのぐらいの距離があるのか皆目わからなかった。ここを出たところで、家に帰り着くのはむりだと彼は考えた。なによりも、自分が逃げ出すことを、院長は望んでいるような気がして(望んでいるのは、その結果行われる虐待をだ)、洋一は行動を起こす気になれなかった。
窓があると思われるカーテンの向こうから、ホトホトと中をおとなう物音がしたのは、洋一がしばらくここに身を潜めていようと、考えることすら放棄しようとした、まさにそのときだったのである。
3
洋一はびっくりして目を瞬かせた。誰? と彼は声をかけたのだが、喉からは空気の漏れるかすれた音しかでなかった。院長の言葉と打撃は、彼をすっかり萎縮させていた。あの院長が、窓に回って見張っているんだろうか? と彼は考えた。
洋一は、もう何もかもが嫌になり、また涙をこぼしながら横たわろうとした。そのとき、
「洋一、洋一……」
窓の外にいる誰かが、彼の名を呼んだ。院長の声ではなかったが、洋一はかえりみなかった。
「僕はもういない。牧村洋一は死んじゃったんだ……」
洋一は空耳だろうと、背を向けつづけた。ひどい激痛で、考えることすら億劫だった。すると、
「洋一、おらんのか? おのれ、返事がない。奥村、玄関に回って様子を見てきてくれ」
玄関っ?
洋一は体を痛めたことも忘れて、身を翻した。
大変だ、そんなことになったら、院長がまた目を覚ましちゃう。
洋一は立ち上がってとめようとしたが、院長に痛めつけられた足のために、その場に膝をついてしまった。
「待って……」と彼は院長に聞こえないよう細心の注意をはらって、外の男に声をかけた。「僕ならここにいる。よけいなこと、しないでよ」
「おお、洋一、そこにいたか」
洋一は外の男の無遠慮な大声に腹が立った。
「ちくしょう、僕はこんなに苦労してるのに、なんでそんな大声をだすんだよ」
と言うと、身も世もなく泣けてきた。
「うむ、この窓には鍵がかかっておるな」
「格子もじゃまですな」
別の男が言った。
「洋一よ、わしらに手を貸して欲しい。まずは窓を開けて、顔を見せてくれ。洋一」
洋一は耳を疑った。
僕の方こそ、人の手を借りなきゃ立てないぐらいなのに、手を貸してくれだって?
いったいどうなっているんだろうという疑惑が心をかすったが、洋一は心にわいたかすかな希望にすがりついた。スーパーヒーローを信じるには彼は年をとりすぎていたけれど、それでも外の男たちが自分のことを知っていて(でなければ、なんで名前を呼んだりするだろう!)、院長とは無関係の人間であることだけはわかった(そうでなければ、なんで窓から呼びかけたりするだろう!)。
「役所の人なの?」
洋一は言った。足立という人の様子から見て、あの人たちは、あたごの実態を少しは理解しているようだった(それなのに自分を引き渡すとはひどい話だが)。ひょっとしたら、外にいるのは父さんの友人かもしれない。
ともあれ、今の洋一は、なんにでもすがりつきたい気持ちだった。彼は痛む足を引きずり、ソファーやデスクに手をついて、窓ににじり寄りはじめた。
「待って、すぐに開けるから、待ってよ。玄関にはまわっちゃだめなんだ」
「おお、洋一、なつかしきわが友よ。顔を見るのも久方ぶりなら、声を聞くのも久方ぶり……」
外の男は、舞い踊るような声音で言った。洋一は、どうにも変な人だな、と泣き笑いの顔に滴をつけながら、窓へと向かっている。
「待ってよ。院長に痛めつけられたんだ」
洋一はやっとの思いで窓にたどりついた。薄い緑のカーテンを月明かりが照らし、外ではまだこの夜にみた満月が照っているようだった。自宅であんパンを食べ、本を読んでいた時分のことを思い出すと、すべてが夢であるような気になった。
ああ、この痛みだけでも、夢と消えてくれたらいいのに。
洋一はカーテンに手をかけた。咳きこむと、白い息の中に血の飛沫がまじり、彼はぞっとした。口の中もずいぶん切ったようだった。
「なにがあったのだ洋一、しっかりせい」と表の御仁は慌てた様子だ。「我らには危険が迫っておる。気を抜いてはいかんぞ」
抜いたりするもんか。
洋一はカーテンを引き開けた。そして、口をあんぐりと開けた。
格子の向こうにはどでかい鷲鼻をした白髪の男が立っていた。
十八世紀の貴族が被っていたような、豪奢な絹の帽子を頭に乗せている。その帽子からは、大きな鳥のはねが、ひらひらと揺れていた。洋一が、絵本でみた貴族の挿絵を想像したのは、男の目が青かったからだ。本物の白人で、しかも、その髪は、ルイ十六世のように幾重にもカールをまいていた。窓の向こうに立っているから全身は見えないが、大昔の赤い軍服めいたものを着込めかしている。背も高いようだった。
洋一は顔をゆがめてカーテンを閉めようとした。頭がおかしくなったと思ったからである。
「どうした?」
とその赤づくめの服を着込んだ白人の老爺は言った。洋一は老人をよくよく見直した。彼の服はナポレオンが着ていた服みたいに紐やボタンがあちこちについて、装飾が施されている。おまけに腰にはサーベルをさしている。
「本物なの?」
「なにを言ってる。子供のころに会ったろう?」
「記憶にないよ。あんた、誰?」
「わしはミュンヒハウゼン男爵。お前の父の親友にして、よき仲間、お前の名付け親でもある」
洋一は顔を上げた。両親から、自分の名前を付けたのは、外国人だと聞いていたからだ。だが、洋一の頭ではミュンヒハウゼンの名が、いくつもの連想をともなって、ぐるぐると回っていた。
ミュンヒ、ハウゼン。
「でも、僕その名前きいたことあるよ。家にある本に出てたもん」
「いかにも。わしこそがほらふき男爵」
「なにを言ってんだ。父さんの友達だって? じゃあなんでこんなときに仮装してるんだよっ」
洋一は窓を開けた。十二月の冷たい空気が忍びこんできた。男爵の背後には、着物をめかしこんだ小柄な男が立っている。頭の上に乗っかっているのはちょんまげみたいだ。月代こそ剃っていないが、腰には刀を差している。
最初の男はミュンヒハウゼンの仮装で、こっちは侍の仮装をしてる……洋一の心に、むらむらと怒りがわいた。しかも、男のわきには、洋一と同じぐらいの年恰好の少年が、男と似たような格好をして立っていた。その少年も、おもちゃみたいな刀をさしている。
「誰だよ!」
声がすっとんきょうに高くなった。
ミュンヒハウゼンが振り向いた。
「彼は奥村左右衛門之丞真行。お前の両親の友人だ。あれは奥村太助と申すもの。奥村の子息である」
と言った。
洋一は怒りに身を震わせた。
「僕の父さんも母さんも死んじゃって、あさってには葬式があるんだぞ。友達ならなんでそんなふざけた格好をしてるんだよ」
「お前こそずいぶんではないか」ミュンヒハウゼンは落ち着き払って、鷲鼻の下のちょび髭をなでた。「久しぶりにあったというのに、ふざけたとはなんだ。お前を見つけだすのには苦労したんだぞ。しかし、お前の身に起きたことを思えば……」
ここでミュンヒハウゼンは口をぽかんと開けた。
「その傷はどうした?」
自分では気づかなかったが、洋一の姿はまったくひどかった。まぶたも唇も腫れ上がっているし、やけどをしたところは広範囲に炎症をおこしている。殴られすぎたのか、ろれつもおかしくなっていた。
「ここの院長にやられたんだ」
思い出すだけでも悔しく、くちびるをかみしめる。ミュンヒハウゼンと奥村が顔を見合わせた。
「何者だ?」
と、男爵は怒りを押し隠した声で(隠しきれていなかったけれど)言った。
「ここの院長だよ。団野院長。知ってて来たんじゃないの?」
男爵は渋い顔をした。
「われわれは今日になってようやくこちらに到着したのだ。だが、一歩間に合わず恭一たちは救えなかった」
洋一の頭で、またも疑問が渦を巻いた。その疑問は、心を締めつける荒縄のようだった。
救えなかった――救えなかったと男爵は言った。両親は交通事故で死んだと聞いている。事故は突発的に起こるものだ。なのに、救えなかったとはどういうことだろう?
奥村が、「男爵、そやつもウインディゴの手のものかもしれませぬ。急ぎましょう」
「ウインディゴってなにっ?」
洋一はとうとう悲鳴を上げた。ミュンヒハウゼンと奥村はまた顔を見合わせた。「知らんのか?」と男爵は逆に面食らったようだ。
「知るわけないよ。僕はあんたたちのことだって知らないんだぞ」
奥村が、
「ともあれ、ここから救い出しましょう」
といった。洋一は初めて奥村と目があった。気遣わしげな視線だった。それは、両親が彼にいつもかけてくれた視線だった。不覚にも、洋一は鼻っ柱が熱くなった。
「だめだよ、僕契約書にサインしちゃった。ここを出たら、僕は刑務所にいれられるんだ」
「なんの話だ?」とミュンヒハウゼン。
「契約書なんだ。院長に言われたんだ。僕はこの養護院を出てはいけないし、ここのことを誰かに話してもいけない。僕はもう二度とここから出られない……」
洋一が涙ながらに訴えると、男爵は怒りに身を震わせた。
「わしはお前の洋館に立ち寄り、お前はお前を保護する施設に入れられたと聞いた。わしは、お前がこの国とこの国の役人に保護されていると信じた。だが、来てみればどうだ。わが親愛なる友人の息子にして名付けの子は、痛めつけられ、目も覆わんばかりの有様」
「でも、僕……」
「しっかりしろ洋一、人を保護する法はあっても、人を縛る法などないぞ。さしづめそやつはウィンディゴに支配されておるのだろう。だが、わしらが来たからには安心しろ。お前の身は必ずや守ってやる」
その申し出に、洋一の顔はかがやき、胸は熱い思いでみたされた(ウィンディゴのことはさっぱりわからなかったけど)。洋一は目の前をじゃまするデスクを乗り越え、格子に近づこうとした。だが、そのとき、彼の背後で扉が開き、廊下の明かりが暗い物置に差しこんだ。
4
団野は部屋に入ってくるなり、開口一番、
「何をしている」
と言った。団野は男爵たちに度肝をぬかれたようだ。彼らから目を離すことができなかったが、それでも洋一の元に駆け寄り、彼をデスクから引きはがすことはできた。洋一が、体に走った激痛に悲鳴を上げ、表の三人が怒りを発した。
「なんだお前らは」と団野は言った。「ここは俺の敷地内だぞ。なんだ……おかしな格好をしやがって! とっとと出ていけ!」
「貴様などに言われなくとも出ていくわい」と、男爵は、口辺に唾を飛ばしてわめいた。「ただし、その子も一緒だぞ。我が輩こそは、その子の真の保護者だからな」
「なにをいってやがる、この餓鬼にもう身寄りはいないんだ」
そう言って、洋一の頭を押さえつけた。団野のローブからただよう酒の香りが、強く彼の鼻腔をみたした。このさき洋一は、酒の臭いを嗅ぐたびに、真っ赤な唇を、叫びの唾でぬらす団野のことを、思い出す。
開け放たれた窓からは、真冬の冷気が、かんかんと部屋に注ぎこむのに、団野の体からは、狂気の熱気が漂いだすかのようだ。現に、団野は、零下に近い室温の中で汗をかき、真夜中だというのに、きれいになでつけた前髪を、額に幾筋もたらしている……。
洋一は、団野が手荒く扱う体の痛みよりも、心の痛みのほうが強かった。男爵はああ言ってくれるけれど、僕の身内はもういないんだ――
「だから痛めつけてもいいと言うのか?」
奥村はまるで居合い斬りを仕掛けるかのように、低く腰を落としている。彼が低音の押し殺した声で言うと、団野ははっと洋一を見下ろした。
「この子はうちの院生だ。院生は規則に従う必要がある。院生はしつける必要だってある」院長は燃えたぎる眼光で、奥村たちを見渡した。「ここでは団体生活を行っているんだ! 規則を定めて従わせなければ、院内の生活はどうなる! 院内の規律は! それに子供を鍛えるのは俺の役目だぞ! この俺の使命! だから――」
「黙れ、この若造!」と男爵は手にしたサーベルで地面をつき、雄々しく腕を振り上げた。あふれんばかりの情熱という点では、彼も団野に負けてはいない。「その子は我が同胞にして我が家族! 手をあげるものは何人たりともゆるさんぞ!」
「俺が預かったんだ!」と院長は唾を飛ばしてわめいた。「俺がこの子の親代わりだ! おいっ!」
団野は洋一の右手をつかみ上げる。洋一は骨が砕けるんじゃないかと思ったが、団野から目線をはずせなかった。ちょっとでも視線を外したら、また痛めつけられると信じていたからだ。
「オマエはここの生徒だ」団野は洋一のほおを拳で殴りつけた。男爵たちが、抗議の悲鳴を上げた。「ここの院生こそがオマエの家族だ!」もう一度。「俺がオマエの親で!」もう一度。「オマエは息子なんだ! わかったかわかったかわかったか」
団野はそう連呼しながら、洋一の頭をこずきつづけた。男爵たちがなにかを叫んでいるが、洋一の心には、もう団野に殺される恐れしかない。
舌が口の中でふくれあがり、気管をふさいで、息もできなくなった。もう息をしたくなかった。恐怖心が彼の体を殺しかかっていた。
だが、こめかみから流れ出した血が、床に落ちた瞬間、ショック死しかかっていた身のこわばりがとけた。血は、事故を連想させた。両親の姿が、彼の目蓋に浮かんだ。両親はいなくなったけれど、彼の体は、二人の記憶を、誰よりも色濃く残している。その点で、洋一の両親は、この世とつながっている。洋一は、自分が死んだら、二人は本当にこの世から消えていなくなってしまうんじゃないかと、そう信じたのだ。
血の水滴がまた三つ――洋一は振り向き、団野の姿を視界にとらえた。
洋一は、振り上がる団野の拳のタイミングを見計らうと、かの拳が舞い降りかけた瞬間、身を翻し、戸口に向かって駆けだした。団野は目標を失って、身をふらつかせている。男爵は、走れ、玄関まで走れ、と、狂ったように叫んでいる。
洋一は走った。ふらつく足で、痛む肋を腫れ上がった指で押さえ、自由への扉めがけて駆け抜けた。後ろからは団野が狂気の熱を帯びた罵声を上げ、スリッパをばたつかせる音も高らかに追ってくる。追いついてくる。玄関が見えた。廊下を曲がって、一歩二歩、廊下を半ばまで来たときには、彼はゴールを目前にひかえたマラソンランナーのように疲労困憊だ。洋一はドアノブに向かって、目一杯に手を伸ばした。
団野は彼の襟首をひっつかみ、その自由への逃避行を阻止したのだった。
洋一は虎柄にも似た敷物の上で、体を振り回された。
「貴様あ、契約書にサインしたろう! 忘れたのかあ!」
団野はもう一度洋一をぶとうとした。洋一は両腕で頭を抱えながらわめいた。「お前なんか僕の両親じゃない! あんな契約書くそくらえだ! 僕は、僕はあんなもの……」
団野は洋一にのしかかり、顔を床にたたきつけ、押さえつけた。洋一は苦しい息の下で、まだなにかをしゃべろうとした。彼自身のためだけではなく、両親のために。ここで引き下がったら、一生団野のことをおびえて暮らさなきゃいけなくなるとわかっていた。だが、洋一は団野の膝で首を押さえつけられて、ほとんど窒息しかかっている。男爵が玄関扉を引き開けて、昔日の勇者のごとく躍りこんでこなければ、彼はきっと涙の下で意識をなくしていたに違いない。
洋一が顔を上げると、無敵の男がそこにいた。海賊が被るような金縁の黒帽子に、大きな鳥の尾羽をなびかせ、息も切らせて駆けこんでくる。
ああ、そう、彼は年老いたフック船長のようでもある。だけど、彼はほらふき男爵その人だ。サーベルを手に傲然と立ち、ブーツの音も高らかに玄関口から上がりこんでくる。
「貴様、洋一から離れろ!」
ミュンヒハウゼンは、扉を叩き開けた瞬間から絶叫をした。三百五十年の長きにわたって、人々に愛されつづけた男爵の義侠心に火がついた。彼はサーベルを引き抜いて突進してきたから、さしもの団野院長も、洋一の上から身を引きかけた。
「不法侵入だぞ」と彼は言った。「こんなことをしでかしてただですむと思うな! 警察は貴様らをとっつかまえるぞ、そんな刃物でこのわしを脅したんだからな!」
「なにをこのちょび髭の下郎!」
と男爵は火の出るような絶叫を上げ、手にしたサーベルを床に突き立て、
「奥村、ここはわしに任せろお!」
と背後の二人に呼ばわった。
「決闘じゃ」
男爵は右の手袋を脱ぐと、団野に向かって放り投げた。
「その子と我が命をかけて決闘を申し込むぞ! さあかかってこい!」
5
団野はミュンヒハウゼンがそう宣言したあとも、まだ年若の奥村の方が脅威のようで、表の二人に油断なく視線を走らせた。男爵は両腕を上げて、ボクシングのポーズをとっている。団野を挑発するかのように、軽く拳を繰り出した。
洋一の体から、そっと圧力が遠のいた。
団野が立ち上がり、うめきながら、ミュンヒハウゼンとにらみ合った。
最初のうち、男爵は優勢だった。格闘技をかじっていたようで、軽快なジャブを繰り出し、右左のフックを浴びせかけたが、団野も狂える闘争本能で盛んに応戦をした。
男爵は、おそらくは七十になんなんとする老人である。男爵の放った十発のパンチのうち、八割は相手方を捉えはしたが、団野のはなった二発の渾身のフックと右ストレートが男爵の顔面をとらえると、このはてなき闘争は完全な逆転劇を展開しはじめた。男爵は巧みなボクシング技術で、団野の繰り出す闇雲な攻撃をかわしはしたが、あふれ出る鼻血で息を切らし、目に見えてスピードは鈍り、足下も不確かなものとなった。
団野の拳が、男爵のこめかみをとらえると、奥村が刀に手をかけ飛び出しかけた。男爵は大手を振ってこれを制し、
「来るな、奥村、これはわしとこいつの問題」
と苦しい息の下で言った。
洋一は、何度男爵にサーベルをとってと言いかけたかわからない。だが、彼の目に宿る不屈の闘志が消えさるまでは、その言葉を口にすることはできなかった。なによりも、洋一は見たかった。かのミュンヒハウゼン男爵が、数々の困難劣等を乗り越えて、恐怖の院長を討ち果たすところを。
一方、男爵はその洋一の視線に気がついていた。明るい屋内灯の下で見ればどうだろう、我が名付け子の、惨憺たる様子は。必ず牧村親子を守ると言い残してきた国の者たちに、もう顔向けもできない。
だが、男爵の体は、その不屈の闘志にもかかわらず、自らの期待を裏切ろうとしていた。数刻もえない闘争で、体力は尽き果て、膝はその身を支えることすらおぼつかない。
男爵は団野の狂い獅子のような猛攻をひたすら受け続けるばかりで、反撃の余力も残していない。男爵の必死のブロックは、団野の若い力任せの攻撃を防ぎきれなくなった。男爵の腕は骨も砕けんばかりにはじかれ、団野の拳はついにその身に届きはじめた。アゴをはじかれボディブローをくらい、ミュンヒハウゼンはその身を屈しかけている。
男爵はボクシング技術を捨てて、団野の腰に組み付いた。彼は足腰を奮い立て、団野の体を押しこみ、壁際に体勢をもちこんだ。勢い余って、ミュンヒハウゼンは頭蓋を壁に突き当てたが、もうかまっていられない。団野は拳を振り上げ、ミュンヒハウゼンの痩せこけた老体を打ち据えるが、男爵も腰にかぶりついて離れない。彼は洋一の敵をとろうと必死だった。あまつさえは、この団野が洋一の両親を殺した憎い敵のような気になってきた。
ミュンヒハウゼンは、足をつっぱって団野の胴体を圧迫した。団野が苦しんで攻撃の手をゆるめる。男爵は一瞬のすきをついて身を起こすと、団野の顎をめがけて、猛烈に身を突き上げた。
骨の砕ける、いやな音があたりに響いた。男爵の頭突きは、団野のとがったあごを見事にとらえた。団野の体から急速に力が抜け、壁に向かって崩れかかった。
男爵は身を離すことすら億劫になり、しばらくその体勢のまま団野に身を預けていた。
そのうち、団野は壁にもたれかかった姿勢のまま、ずるずると身を滑らせ、そのまま床まで崩れ落ちていった。
6
洋一の見ている目の前で、男爵と院長はともに床まで頽れていった。洋一の目には二人が相打ったように見えた。だが、血を噴き、正体なく首をくゆらせる団野を見て、男爵の勝利を確信した。
「お見事!」
奥村が大声を上げてミュンヒハウゼンに駆け寄った。
男爵は重たそうに痩せた身を引き起こし、どっかりとあぐらをかいた。
洋一は痛む膝をかばいながら立ち上がろうとした。奥村の息子が駆けつけ、脇に手をさしいれる。洋一は、痛む肋に顔をしかめながら、太助を見た。
男爵は団野のことを忌々しそうに睨みつけながら、
「ここが物語の世界なら、首を刎ね落としてやるのに」
洋一は、興奮に紛れて、その言葉を聞き逃した。まだ、このときは。
ミュンヒハウゼンは、奥村に支えられて立ち上がった。洋一が近づいた。
男爵はこの数分の闘争で、めっきりと年老いたかのようだった。
「遅くなってすまなかったな」
洋一に負けないくらいに顔を腫らした男爵が、彼の頭に手を置いて、
「恭一のことはすまなかった。あいつは立派な奴じゃった。しかし、お前も恭一に負けないぐらいに立派な男になったらしい。お前とわしは共にあやつに負けなかった。そうおもわんか?」
男爵に言われて、洋一の目に涙がたまった。あやつとは院長のことなのだとは、容易にわかった。だけど、院長に痛めつけられても洋一の心が折れなかったのは、ひとえに男爵のはげましのあったおかげである。団野は彼の体を痛めつけた。けれども、それ以上に両親が死んだんだと思い知らされたとき、彼の心はへし折れる寸前までいった。団野の拳と言葉は愚風のようで、かれの身骨を砕こうとした。だが、その折れかけた細い身茎を支えてくれたのは、名付け親を名乗るやせっぽちの老人なのである。
洋一は、この日一度たりとも口にできなかった疑問を、男爵になら話すことができた。ミュンヒハウゼンはたしかにほらふき男爵なのかもしれないが、いつわりは一言たりとも申さなかった。それは、男爵の心と言葉が、見事に一致しているからだった。
彼はうつむいてこう訊いた。
「父さんも母さんも、まちがいなく死んだんだ。そうでしょ?」
頭に置かれた男爵の手が、そのときだけは揺らいだようだった。
「牧村は世界中に仲間がおる、とびきり優秀な奴じゃった。わしはあいつが大好きじゃ。だが殺された。殺されたのだ」
「誰に?」
洋一は、涙に曇る目で男爵を見上げた。彼はこのときだけは、まだ見ぬその相手をはっきりと憎んだ。
「洋一、お前にこのようなことを伝えるのはつらい……。ほらも吹けぬほらふき男爵、あいすまぬ」と男爵はポロポロと涙をこぼしながら頭を下げた。背後で奥村親子も泣きにくれている。「この奥村左右衛門之状真行は、恭一とともに旅した無二の仲間である。そして、恭一と薫の二人は、ウィンディゴの手によって命を落としたのだ。車の事故とは、見せかけだ」
男爵は大きく鼻をすすった。
「ウィンディゴって? 外人?」
男爵は迷うように、洋一の顔の上で視線をさまよわせた。
「話してよ」洋一は、男爵の豪奢な服の袖をとった。その服が、本物の絹の手触りであることを知った。「話してよ。僕には知る権利がある。そうでしょ?」
男爵は黙って視線をそらす。
「僕は知りたいんだ。父さんも母さんもいつも僕に何か隠してた。僕にはわからないことがいっぱいあるんだ。二人とも図書館をやってたって、ろくに働いてないのに、なんでうちには生活するだけの金があるのか、うちは市立の図書館でもなんでもないのに、それこそ私設の図書館なのに、世界中から本を集めたりしてる。父さんのところには世界中から手紙が届いてた。世界中に仲間がいるってのはうそじゃないんだ、きっと。だって、いろんな国の人が、電話をかけてきてたもん」
「まあ、落ち着け」
「いやだ」と洋一は男爵の手を振り払った。「僕が立派に育ったって、本気で思ってるなら話してよ。父さんも母さんも、僕が子供だと思ったから話さなかったんだ。二人とも黙ったまま死んじゃった。い、命を落とすぐらい、危険なことなのに……」
そんなのひどいと思った。
「だから、話してよ男爵。僕は、ほんとのことが知りたい」
男爵は払われた肩に、もう一度両手をおいた。彼は片膝をつき、洋一と顔の高さを同じくし、
「お前はほんとに見上げたやつだ。だが、この話は……今まで聞かされたことがなかったのだから、信用できるかできないか」
彼は吐息の代わりに顔を垂れ、その面を上げ、
「お前にわしの知るすべてを話す。だが、恭一たちが死んだいま、わしらはお前の助けを借りねばならない。話を聞いたあと、お前にはこれからの生き方を決めて欲しいのだ。お前は一人前の男だし、生き方を決める権利とてもっている。お前はもう、そういうことを決めていかねばならんのだ」
男爵は、両親が死んだのだからだ、という言葉をのみこんだ。そのことを、洋一は直観で知りえた。洋一は、その重荷をかんじて体が震えたし、また涙がこぼれそうになった。だけど、どうあっても、そうしたことから逃げるわけにはいかないのだから、なんとか涙をのみこんだ。「わかったよ、男爵」
「わしはお前に強制はせん。あるいはわしらと来るより、ここにいた方が安全なこともあるだろう。そのことも、わかるか?」
洋一はうなずいた。男爵は満足そうに頭をなでた。「それでいい。それでこそ、恭一の息子だ」
男爵は、倒れている団野をかえりみて、きらりとその目を光らせた。
「さて、契約書とかいったな」
第二巻に続く……