捨駒の文章
すてごまの文章
すて-ごま【捨駒】
将棋で、局面を有利に展開していくため、相手に取られることを承知の上で打つ駒。
僕にとって、記憶とは消耗品であった。
具体的に言うとだ、僕は一度会話のネタにした記憶や体験のことを、すっかり忘れてしまうことがあるのだ。それに加えて、一度話を提示するために口にした単語を、次の瞬間にすっかり忘れてしまうこともある。
そのことを強く認識するようになったのは高校一年生の時だったと思う。君はいつも違う話をしていてすごいね、と同級生に褒められたのだ。照れ隠し半分に、今まで話した内容を覚えているなんてすごいな、僕がどんな話をしたのか話をしてくれよ、と返したところ、その子は僕の知らない、僕の記憶を語りだしたのだ。最初は適当なことを言ってごまかしているのかと思ったが、聞いているうちに、そういえばそんなことを話したような気がしてきた。なんだか不気味に思って家に帰って調べてみると(この時の話題は中学生の頃の体育祭の話だったのでアルバムで調べることができた)全くその通りで驚いた。しかもその話をしたのは二週間ほど前だというのだから更に困惑した。中学二年生の頃から高校に入るまでは覚えていたのに、高校に入ってから一ヶ月ほどで忘れるだなんておかしいのではないか……?そのときは高校の新しいことに頭が埋め尽くされているのだろうと考えてあまり気にかけなかったが、その後も似たようなことが続くのであった。
このようなことから、僕は記憶を「アイデアを貼り付けてある使い捨ての付箋」のように捉えるようになった。これはあくまで僕の頭の中のイメージで、例示をするのならば、脳がタンク、口が発射口、発想が水の水鉄砲などといったほうが伝わりやすいかもしれない。……余計混乱させていたら申し訳ないのだが。とにかく、ここで問題としたいのは、それが平面上の文字で何かを伝えようとするようになってからも、小説を書くようになってからも同じだったということだ。
僕の執筆スタイル、というのもおこがましいのだが、は、ふと浮かんだ一枚絵、音や心情の込められた一枚絵を壁の中心にでかでかと掲げ、その周囲を、それを輝かせるための額縁として彫り込んでいき、最終的には壁一面がひとつの作品として完成されている、そんなスタイル(にしたい)だと自分で考えているのだが、時に、その一枚絵は書き終えた途端に色彩を失っていき、ひどいときにはただの石版とかしてしまう。これを僕は自分の技量不足と考え、新しい絵を彩ることに専念してきたのだが、ここにきてようやく、ふと、これは、無意識の付箋化が原因なのではないか、そう考えるようになったのだ。
今まで僕が書いてきたスタイルは、題とする絵の輝かしさを、自分が一番理解していなくてはならなかったように思う、その輝かしさには、シチュエーションであればそれに付随する記憶、フィーリングであればそれの核となる体験、これらが確実に含まれているはずだ。であればだ、書き終えた、言い方を変えれば、まだ見ぬ読者にする話のネタとして消費した、そのことで絵のエッセンスは僕の中の付箋として、使い終えた不要物として剥がされ、捨てられてしまったのではないか。
もしそうだったとしても、この付箋化に対しての僕の対策はほとんどない。せいぜい。忘れられないほど強烈な記憶を題材にするか、一度脳外科にかかるか、それぐらいのものだろう。
それならば。僕は考える。本当に書きたいものがかけるようになるまで、そこまでの思い入れのないものを、取られる前提の捨駒にしてしまおう、と。これは自己破滅的な行動なのかもしれない。小さな思い出から忘れていこうと言っているのだから。けれど僕は、そうしてでも文字を連ねようと考えているのだよ。その行為が自分の局面を有利にするものであると信じて。
あなたの文章に対する価値観をコメントで頂けると非常に幸いです。私の付箋の一枚になってください。




