老魔術師と友の春 ~最終話~
「ん……」
うららかな春の昼下がり。居間に射しこむ暖かな陽を身に受けて、昼寝をしていた老魔術師の、まぶたがとろとろ持ち上がる。
「……ぅむ」
まだ寝ぼけているのか。半開きの目でのたりのたりと部屋を見まわし、しかし、映る景色に足りないものがあると気づく。
パチリ、目が開き、ガバリ、毛布を跳ね除けて、あせあせと起き上がった。
「……クロード?」
いつもならそばにいてくれるはずの、友の姿がない。
ティンクルスの胸はそわそわとして落ち着かず、不安げな顔をきょろきょろと動かす。
もう五十年以上、ともにいた二人だ。少々離れることもありはしたが、こうしたとき友は必ず断りを入れた。それなのに、いったいどこへ行ってしまったのか。
もたもたと居間を歩き、昼寝していたソファの裏を、テーブルの影まで覗いてみるが、クロードは、いない。
「ク、クロード、よっ」
外にいるのだろうか。焦り、ドアへ向かうと蹴つまずく。床が眼前に迫ってくる。いつもなら助けてくれるはずの友は……
――バンッ
ものすごい勢いでドアが開き、猛然と駆けてきたクロードが、今まさに転ぼうとしている老魔術師をしっかりと抱えた。
友の姿があったことに安堵し、じんわりと涙まで出かかったティンクルスは、ソファに座ることしばし、落ち着きを取り戻した。
(わし、子供みたいじゃの……)
この歳になって――生き返り若返ったので何歳と言っていいのか不明だが、爺としてはちょっと恥ずかしい。
「ふぉふぉっ」
気恥ずかしげな笑いをもらし、ほほ笑みを向けてくる友の顔から視線を落とすと、ふと、その腕が目に留まった。
クロードのシャツの袖が捲くれ上がっている。袖口も少々濡れているような。
「何かしてたのかの?」
老魔術師が首をかしげて窺うと、なぜだろう、友の目が逸れてしまう。
「クロードさんは私の手伝いをしてくれてたんですよ」
ここへ、ちょうど紅茶を持ってやって来た元女将が、こう言ってフフフと笑った。
「ほぅ!」
クロードが元女将の手伝いとは珍しい。そして、とても良いことだと思う。
にっこり笑って「偉いのぅ」と友の頭をなでると、ここでも、彼の目は細まりつつも何だか落ち着きがないように見え。
(照れてるのかの?)
これも珍しいことだ。ティンクルスの、首がくきっと傾いた。
あくる日は光の日、老魔術師の休日だ。この日は午後から神殿の孤児院を訪れ、弟子入りの話を進めた。
やはり、魔法使いが医者を育てる、魔法を使えない者を弟子に取る、という話は奇異に聞こえたらしい。神官も、騎士ジャンも、最初は驚いていたし、魔術師なのに医者を育てるなどもったいないとも言った。騎士づてに聞いた筆頭魔術師も同じような反応だったそうだが、王はニヤリと笑ったらしい。
よくよく話をしてみれば、みなが理解してくれた。どのように育てていくのか、計画していることを詳しく説明すると、神官は「子供たちに話してみましょう」とうなずいてくれた。
そして、ようやく一人、医者になりたいと申し出る若者が現れたのだ。
「ティンクさ……師匠、よろしくお願いします!」
若者はいつもより、ずっとかしこまって頭を下げる。
旅立ちの前の送別会に、収穫祭に、雪遊びに、孤児院の子供たちとは親しく付き合う仲なのだが、彼なりにケジメをつけているのだろう。
「お、おぉ……こ、こちらこそ、よろしく頼むのぅ」
ティンクルスのほうが、だいぶギクシャクしてしまった。
クロードが若者をジッと眺めていたのは、老魔術師のそばに近寄らせて良い人物かどうか、小姑のごとく吟味していたからに違いない。
「よし! 家に帰ろうかのっ」
神殿を出たティンクルスは、気合を入れて歩きだす。
若者の弟子入りはもうすぐだ。弟子となれば中央街の魔法屋に、一緒に住むことになる。だから彼の暮らしに足りないものはないか、もう一度確認しておこうと思ったのだ、が。
「や、待て」
「ふぉ?」
何だろう。クロードを見上げると、こちらをジッと見下ろしている。
「……ティンク、今日はあんまり歩いてないから、少し散歩してから帰ろう」
「お、おぉ」
それは別に構わないが、わずかな沈黙は何なのか。老魔術師は首をかしげた。
昨日といい今日といい、友の様子がおかしくはないか。何か悩みでもあるのだろうか。ここまでを考えると。
「ない」
クロードは即答した。
「そう、かの」
そういえば、ここ数日の友はむしろ機嫌が良かったと思う。今朝など珍しく鼻歌を歌っていた。確かに悩みはなさそうだが……
ティンクルスは首をくきくき傾けながら、つまずきつつ助けられつつ春の街を散歩した。
空が夕日に染まる頃、魔法屋に戻った老魔術師が居間へ入ると――
「叔父上。誕生日、おめでとうございます」
「ティンクルス様、おめでとうございます」
そこには王宮にいるはずの、王と筆頭魔術師の姿があった。騎士ジャンも、老魔術師付だった騎士たちも数名いる。みな、顔に温かな笑みを浮かべている。
「ぉ……」
目と口をまん丸にしたティンクルスが居間を見まわすと、テーブルにはご馳走が並んでいた。元女将が用意してくれたのだろうか。老魔術師の好きな物ばかりだ。
「ティンク。誕生日、おめでとう」
後ろから声をかけられふり向くと、友の笑顔があった。差しだされたのは綺麗な小箱、開けてみると中にはクッキーが入っている。
「……これ、クロードが作ってくれたのかの?」
「ああ」
昨日、老魔術師が昼寝をしている間、クロードが離れていたのはこのためか。今朝、機嫌が良さそうだったのも、先ほど散歩に誘ったのも、全てはこの誕生会のためか。
「……ありがとうのぅ」
ティンクルスは友を見、王を、筆頭魔術師を、騎士たちを眺める。嬉しくて、心が温かくなって、幸せで。
ほわり、笑うと細めた目から、ポロリと涙が落ちた。
――次の春も、その次の春も、老魔術師は嬉しくて幸せな誕生日を迎えた。
年を経るごとに祝う者の顔ぶれは変わっていったが、クロードだけはいつも隣にいてくれた。
友が作ったクッキーは、幼い頃、老いた侍従クロードが誕生日にくれた物と、とてもよく似た味だった。
*
「ん……」
目覚めると、寝室に柔らかく射しこむ陽が暖かく感じられた。もう春か。ベッドの横で椅子に越しかけ本を読む、友の白髪頭が目に入る。
「ティンク、目が覚めたか」
ふり向いたクロードが、顔のシワを深めてほほ笑む。
「わし、ちょっと起きようかのぅ」
しわがれた声でこう頼むと、友が体を支えてくれ、ティンクルスはゆっくりと身を起こした。
この冬、風邪をひいた老魔術師は、そのほとんどを寝て過ごした。春を迎えることはできたが、このぶんだと、ベッドを離れることはできなさそうだ。
シワシワとした枯れ木のような手を見れば、それも仕方ないかと小さく笑う。
「あら、ティンクさん。起きましたね」
寝室に顔を出したのは、両手に溢れんばかりの花束を持ち、朗らかに笑う老婆だ。その笑顔は、彼女の祖母である元女将に良く似ている。
この老婆は、かつて猟師の息子マテオが恋した娘であり、夫をもらって宿屋を継ぎ、隠居した今はこの家で働いている――やはり元女将だ。
「女将さん、その花束は……」
「お弟子さんたちが持ってきてくれたんですよ。早く良くなってくださいって」
元女将はにこやかに笑い、寝室に花を飾っていく。
この花は、ティンクルスも所長を務めた『魔術医療所』――筆頭魔術師の努力により実現した、魔道具を用いて治療する魔術医師が働く場だ、の医師たちが持ってきてくれた物のようだ。
彼らの多くは、老魔術師の弟子であったり、弟子の弟子であったりする。
「綺麗じゃのぅ」
窓辺に飾られた花を眺め、その向こうに広がる街を見やる。
魔術医師という新たな職が確立し、魔術薬師も魔道具職人も増えた。庶民のための医療所ができ、魔法薬も魔道具も増えた今、王都は暮らしやすくなっただろうか。人々の目に、この街は美しく映っているだろうか。きっと――
ティンクルスはほほ笑む。
「ティンク、疲れてないか? もう横になるか?」
「そうじゃのぅ」
クロードに支えられ、ゆっくりと細い体を横たえた。
「ん……」
うつらうつらと寝起きを繰り返し、何日が経ったのか。もうわからないが、友がそばにいてくれることだけは、わかる。
「ティンク、目が覚めたか」
「おぉ……わし、今、昔の夢を見てたんじゃ」
かすれた声でこうつぶやく。
夢は、二度目の生を与えられたとき、生き返り若返ってからのものだった。
若返った手を見て慌てふためいたこと。古代神殿で大精霊の願いを聞いたこと。王宮をひっそりと抜けだし、王都で暮らし始めたこと。初めての街暮らしは、楽しいことも驚くこともたくさんあった。
それから、この地を旅して回ったこと。これもまた、初めての旅。たくさんの出会いがあり、騒動があり、笑いがあった。竜の谷も越えた。
王都に戻って魔法屋を営んだこと。夏の建国祭に、秋の収穫祭、冬の雪遊びと、そして春の誕生日。それから、それから……
たくさんの光景が、出会った人々の姿が、溢れでてくる思い出が、老魔術師の心を弾ませ温める。
「楽しかった、のぅ」
「ああ、楽しかったな」
ティンクルスが頬をゆるめると、クロードも優しげに笑う。
「ちょっと、寂しい、のぅ」
「ああ。でも、また会える」
ティンクルスの眉が少し下がると、クロードが腕の辺りを擦ってくれ、大丈夫だとうなずいてくれる。
もうすぐ、老魔術師は二度目の生を終えるだろう。
守護精霊は契約者の魂を取りこみ、しばらくの間、ともにいることができる。しかし、二人は話し合い、ティンクルスは天国へ行くことにした。
『今ならまだ生まれ変わってないと思うから、みんな天国にいるだろ。だから会ってこい。ティンクもゆっくり休んでこい』
友がこう言ってくれたのだ。
大切な二人の侍従、王と筆頭魔術師、兄王や父王、騎士のジャン、かつての元女将に、親しくなった隊員たち、王都の人々や旅で出会った者たち。天国へ行けばたくさんの懐かしい顔があるはずだ。
だが、そこにクロードはいない……けれど。
――生まれ変わったら、また、友達になると約束した。
「また……の」
「ああ、またな」
春の霞がかかったようにぼやけていく視界の中で、友のほほ笑む顔が縦にゆれたのだけは、しっかりと見える。
ほわり、笑った老魔術師のまぶたは、静かに閉じていった。
*
精霊は、風に漂い、水に流れ、光に舞い、闇に溶ける。
何度も、何度も、何度も一人、この地を漂い春を迎えた精霊は、懐かしい『気』を感じてその存在を探した。
向かってみると、そこは黄みを帯びた石造りの建物がずらりと並ぶ、大きな街だった。かつて精霊が、人の姿で大切な友達と旅した街だ。
精霊は、心地よく、懐かしい、会いたかった気配に、それが間違いではないことを祈るように、ゆっくりゆっくり近づいていく。
「坊ちゃま。蝶々でございますよ」
「ちょ、ちょ」
その気配の持ち主は、老人に手を引かれた子供だった。花にとまった蝶を不思議そうな顔で眺めている。
(ふしぎ、ふしぎ、ちょうちょは生きてる。じゃあ、花も生きてるの?)
子供の心も、とてもよく伝わってくる。
思わず泣きたくなるような、懐かしい光景。だが、違うところもあった。
ここは商家だろうか、王宮よりはずっと小さな建物だ。庭で遊ぶ子供と老人のそばには、テーブルに座る男女がいる。子供の両親だろうか、温かな目を、優しい気持ちを向けている。
暖かい春風の、薫る庭に身を漂わせ、精霊はとても良い気分になる。けれど、これ以上そばに行くのは怖いとも感じた。
生まれ変わった彼は、何も覚えていないのだ。それでも。
――また、友達になると約束した。
精霊は震える心を必死に静め、勇気だけは奮い立たせ、ゆっくりと、ゆっくりと、近づく。
子供が、こちらを向いた。何だろうと首をかしげた子供の、小さな手が伸びてくる。
その、温かな手が精霊の存在を、確かめるようにそっとそっと優しくなでる。
(あたらしい、お友だち!)
ほわり、笑った子供の顔が、一番、温かかった。
老魔術師は二度目を生きる ―完―
読んでいただきまして、ありがとうございました。




