老魔術師とある日の湖 ~旅後編2~
――これはカーヴィアで過ごした、ある日のちょっとした出来事。
「ふ、ふっ」
ティンクルスとクロードを乗せた魔馬が、森の小道を軽やかに駆ける。強い陽射しは茂る木々に程よく遮られ、熱気を孕んだ風も馬上で感じれば心地よい、はずだが。
「ふっ、ふぉっ、ふぉうっ」
「ティンク、そろそろ馬車に乗ろう」
クロードが手綱を引くと馬の足が止まった。老魔術師はふぅふぅ言いつつ、揺れる体を支え続けてくれた友をふり返る。
「ふぅ……そうじゃの。楽しかった、ありがとうのぅ」
ほわりと笑うと、にこりと笑みが返ってくる。
そばで並走していた騎士が、馬車の御者台に座るファビオとレジスが、危うい乗馬姿にハラハラしていたのだろう、そろってホッと息をもらした。
カーヴィアの宿屋から、若者たちの商家へ移った老魔術師一行は、本日、湖に向かっていた。商家の主人――ご老体の好意により計画された遠出である。
目的の湖はカーヴィアの街を出て、魔物のいない、畑が広がる方向にある。馬車ならば一時間ほどで着ける距離なので、一行はのんびりと、しかし老魔術師が乗馬するにはちょっと大変な速度で進んでいた。
「いろいろと良くしてもらって、ありがとうのぅ」
馬に揺られたせいか、少しばかりヨロヨロしつつ馬車に乗りこんだティンクルスは、御者台から移ってきたレジスに礼を述べた。
御者台には騎士とファビオが並んで座り、若者は興味があるのだろう、馬がどうとか剣がどうとか、楽しげに聞きしゃべっている。
「ううん。僕たちも楽しいし、何だか旦那様も張り切ってるから」
首をふったレジスは、それにね、と笑う。
実は今、二人の若者には縁談が山ほど舞いこんでいるそうだ。だから下手に店先にいると面倒なのだと、老魔術師の来訪はちょうど良くもあったのだと、そんなことを言う。
「僕たちはまだ修行中だからって旦那様が断ってるんだけど、なかなか引き下がらなくてね」
「ほほぅ。縁談が山ほど、かの」
ティンクルスは、ふむ、とうなずいた。
若者たちの商家は、カーヴィアでも五本の指に入るであろう大きな店だ。二人はその跡取り。娘を嫁に、と申し出る者は多そうだ。娘を会わせ若者たちのどちらかに気に入られれば、縁談話も進むはず、と目論む者もいるのだろう。
大きな商家ともなると、この辺りは王族や貴族に近く、けれどもう少し自由でもありそうだ。
「で、レジスには気に入った娘さんはいないのかの?」
思わず、ずずずぃっと身を乗りだすと座席から転げ落ちそうになり、クロードに支えられ、レジスにくすくす笑われる。
「まだまだ店のことで手一杯だよ。それに、魔女の月を見たらしばらくは結婚しなくていいかなぁって」
「……そう、かの」
奥さん方が篭城を決めこむ『魔女の月』。どうやら、若い男性の結婚願望を削ぐ効果もあるらしい。
「ティンク様! そろそろ湖です」
「お!」
御者台から騎士の声が届き、老魔術師はひょこりと窓から顔を出した。
*
「おぉ……綺麗じゃのぅ」
青い空が、白い雲が、緑の木々が映りこむ湖のほとりに立ち、ティンクルスはしばし景色を楽しむ。
水面を吹き抜けてきた風は、何だか涼しく感じられる。小鳥の可愛らしい鳴き声が聞こえると、ほわりと頬がゆるむ。
「ティンク、向こうで釣りをしよう。昼は釣った魚を食べて、ちょっと休んだら湖で泳ぐんだ」
ファビオが指したのは、湖の中ほどまで張りだしている桟橋だ。釣り人だろう、腰を下ろした者も幾人かいる。辺りを見れば荷馬車があるので、ほど近くにあるという村の人々かもしれない。
「うむっ、釣りに泳ぎじゃのっ」
老魔術師は小さめの拳をぐっと振り上げ、にっこり笑ってみせた。
ちなみに、彼に釣りの経験はなく、泳ぎのほうは大きな風呂を見れば練習している。しかし、まだ自力で浮いたことはない。
「こうやってエサをつけて」
「こ、こう、かの?」
桟橋に、ふっかりとしたクッションを敷いてもらい腰を下ろしたティンクルスは、釣り針をつまみ、もたもたと見よう見まねでエサをつける。
「針、気をつけろよ」
「ぉ……」
その手つきがクロードの、みなの心配を煽るのだろうが、老魔術師は不器用ではない。が、できたと言って満足げに笑うと、それぞれの口からホッと安堵の息がもれた。
あとはポチャンと垂らして魚を待つ。陽に当たり、少々暑くなった体にそよぐ風が心地よい。ときおり聞こえる葉のざわめきが、鳥の羽ばたきが、まるで子守唄のように優しく耳をくすぐる。
「ティンク、引いてるぞ」
「ん……ふぉ? おっ、おおっ」
だからつい、うとうとしてしまい老魔術師は大いに慌てた。
――それから。
焚火のそばで串に刺さった魚が焼け、老魔術師お手製の、元女将仕込のスープも湯気を立てている。
バスケットには柔らかなパンと瑞々しい果物、ご老体が持たせてくれた物だ。
「レジスが一番たくさん釣ったのかぁ……負けた!」
「でも、ファビオのほうが魚は大きかったね」
魚を見比べレジスが笑えば、少し悔しげな様子で魚をかじる、ファビオの顔にも笑みが浮かぶ。
若者たちは変わらず仲が良さそうだと、小骨をもそもそ取りながら、ティンクルスもにこにこ笑う。
「ティンクの作ったスープが一番うまいな」
「お、そうかのっ。クロードが釣ってくれた魚もおいしいのぅ」
こちらも相変わらず仲良しだ。
少し遅めの昼食を終えると、少々の休憩を挟んでから泳ごうということになった。木陰に敷いた布の上で、みな、思い思いにくつろぐ。
湖をじぃっと見つめる老魔術師の顔は、しかしキリリと引き締まっている。
――今こそ、風呂場での練習の成果が問われるとき。
小さめの拳にぐっと力が入る、と。
ひづめの音が聞こえ、そちらを向くと瀟洒な馬車がやって来るのが見えた。
「あの馬車、街から来たみたいだな」
「何だか、見たことのある馬車だと思うんだけど……」
寝転がっていた若者たちは身を起こし、訝しげな顔を突き合せる。それからレジスが「あ」と声を上げ、顔を曇らせ何事かをつぶやくと、ファビオの眉間にシワが寄った。
(……あまり会いたくない相手なのかの?)
心配になったティンクルスは、瀟洒な馬車をそろりと窺う。
馬車から降りてきたのは、恰幅の良い中年男性と、湖に来るにしては妙に華やかなドレスを着た、娘が二人。
「おぉ! ファビオさん、レジスさん!」
大きく声を震わせた中年男性が、大きな体も震わせながら、満面の笑みを浮かべてやって来る。
――チッ
――ハァ
老魔術師は音のしたほう、若者たちをくりっとふり向いた。今、確かに舌打ちと溜息が聞こえたはずだが。
しかしファビオはにこやかに笑い、レジスは控えめな笑みを湛えている。二人は商人として、着々と成長しているようだ。
そして。
「こんなところで会うとは偶然ですなぁ!」
ガハガハと豪快に笑った中年男性は、なぜだか娘二人を若者たちの前に、差しだすようにして立たせた。
(これは……)
「こいつ、偶然なんて嘘だな」
クロードのつぶやきに、やはり、とティンクルスはうなずく。
中年男性は、店先に姿を現さない若者たちに、何としても娘二人を引き合わせたかったのだろう。つまり、これは強引な見合いなのだ。
腹も膨れ、ゆったりと休み、気持ちのほぐれる頃合を計って近づいてくる辺り、なかなか良く考えている。と、妙な感心をしたりもする。
「これも何かのご縁です! せっかくだから若者同士、湖のほとりを散歩するなんていうのも、良いものですなぁ」
中年男性はこうも続け、さらに娘二人を押しだした。彼は商売人らしい図太さを、しっかりと身につけているようだ。ティンクルスはまた、妙な感心をする。
若者たちを窺ってみれば、ファビオは表情を崩していないが、レジスは困った風に見える。
ファビオは断りたいのだろう。それらしいことを口にするが、「まあまあ、そう恥ずかしがらずに」などと遮る中年男性の、押しはかなり強い。
同じ街に店を持つ者同士。まだまだ修行中の跡取りと、おそらく主人であろう中年男性。若者たちには遠慮があるのだろう。
このまま押し切られては、「うちの娘たちと、湖で楽しいひと時を過ごしましてなぁ!」なんて、言いふらされてしまうかもしれない。そうなれば、若者たちの望まぬ縁談話が進んでしまうかもしれない。
(……よ、よしっ)
ここは、彼らとはしがらみのない『客人』である、爺の出番だと思う。爺から見ればまだまだ若い中年男性に、負けるわけにはいかない。
「もっ、申し訳ないんじゃが! わしたちはこれから……むっ、村へ行く予定なんじゃ! ファビオ、レジス、そ、そろそろ案内してくれるかのっ?」
気負いこみすぎたせいか。老魔術師はものすごくつっかえ気味にそわそわと、いかにも嘘らしい言い訳をしていた。
――こうして無事、湖を発った、いや、中年男性から逃れた馬車の中。
「ティンク、ごめんね。せっかく湖に遊びに来たのに……」
「いやいや。わし、村を巡るのも好きじゃから」
申し訳なさそうな顔を向けてきたレジスに、ティンクルスはにこにこ笑って首をふる。
良くしてもらっている『客人』として、少しは恩返しができたと思う。店の大切な跡取りを守ることができた。あの強引な中年男性に、勝つことができた。
あまりにも下手な言い訳だったために、逆に男性も、何も言えなかったのかもしれないが……
ともかく、老魔術師は満足だ。
「でも、まだ泳いでなかったのにね」
「ふぉっ! ……そうじゃった」
ティンクルスのまぶたが、くわっと開いた。すると隣のクロードが、不思議そうに首をかしげる。
「今日の夜も、風呂で泳げばいいんじゃないか?」
「や……風呂と湖では、ちょっと違うんじゃないかの?」
「お湯と水の違いだけだろ? それに風呂のほうが浅くて安全だ」
「や……そう、かの?」
「そうだろ」
「そう、かの」
外で泳いだことのない、心地よい湯にしか浸かったことのない王宮育ちの老魔術師は、何となく、そんなものかとうなずいた。
彼が、湖と風呂ではまったく違うのだと気づくのは、そして見事に沈むのは、次に訪れた街でのこと――




