魔女の月と妻の書置き
「魔女の月とは、その、夫婦ゲンカの祭り、なのかの?」
老魔術師のこの問いに、ファビオとレジスは苦笑いをもらしつつ説明をする。それによると。
昔、といっても中世の終焉は過ぎ、人々が平和に暮らす頃のこと。とある妻が家出した。ぐうたらな夫に愛想を尽かしたらしい。その家出先が防壁の一番右端にある、この頃はもう兵士が使っていなかった塔だ。
戻って来いと憤る亭主に、篭城を決めこんだ奥さん。夫婦の攻防は一月にも及んだという。夫はよほど堪えたのだろう、ようやく妻を連れ戻して以降、すっかり働き者になったそうだ。
この出来事があったのが、ちょうど魔女エリーズが亡くなった月のこと。
「それからこの月になると、奥さんたちが魔女に惑わされたってことにして、亭主へのうっぷんを晴らすようになったんだ」
妻は塔にこもり、夕方になると仕事を終えた夫が外から声をかけ、戻ってくれと訴える。
他にも、夫が妻を迎えに来ない、または、妻が夫に応じなければ離婚が成立するだとか。さまざまな決まり事があるのだと、若者たちは口々に言う。
「ほ、ほぅ……」
塔に向かって叫び続ける夫を眺め、塔の窓から怒鳴り散らす妻を見やり、ティンクルスはぎこちなくうなずいた。
見物している者たちは楽しんでいるようだが、当事者となってしまった夫は大変そうだ。将来のわが身を案じてか、若者たちも微妙な表情になっている。
(じゃが……)
妻は、夫に文句はあるものの信頼しているとも思う。家出したはいいものの夫が迎えに来なければ、もう家には戻れないのだ。
そう考えてみると、この夫婦ゲンカもほほ笑ましい……先ほどより白熱している夫婦のやり取りに、老魔術師の首は若干斜めに傾く。
「……まあ、人攫いじゃとか、そんな物騒な話じゃなくて良かったのぅ。日頃は精一杯働いてる奥さん方の、年に一度のうっぷん晴らしなんじゃ」
こう言ってほわりと笑うと、クロードの鼻が小さく鳴った。
「他の街や村の女たちは、ちゃんと働いてるのにな」
「これは、いけませんね」
騎士ジャンはものすごく渋い顔をしていた。貴族である彼には、妻のこのような行動は理解しがたいのだろう。
確かに、夫婦ゲンカで篭城する貴族女性など、きっといないに違いないが。
所変わればいろいろな風習があるものだ。ホンのちょっと、ちょっとではあるがカーヴィアに生まれなくて良かったかも、とも思ってしまう。
もう一度、塔の夫婦ゲンカを眺め、老魔術師が重々しくうなずいたとき。
「あ、ファビオさん、レジスさん……」
弱々しい声をかけてきたのは、若者たちの店にいた、妻がいなくなったという職人の男だった。ガッチリとした肩が、今はしょんぼり下がっている。
彼もこの風習に巻きこまれてしまった哀れな夫なのか。ティンクルスの眉もへなっと下がる、と。
「どうしよう! あいつ……俺が何を言っても、何一つ答えてくれないんだ!」
泣き顔になった職人が布のような物を握りしめ、ファビオとレジスに迫ってきた。
「むぅ……」
もう暗くなるからと、ひとまず宿に戻ったティンクルスは、おいしそうな焼き目のついた、香ばしい匂いを放つ鶏肉の前で難しい顔をしていた。
「ティンク。考えるのはあとにして、まず食べろ」
「お、そうじゃの……」
鶏肉をつつきパクリと口に入れると、途端、老魔術師の頬はほころぶ。久しぶりの肉料理なのだ。しばらくは、手と口が止まらない。
「むふぉ」
少し腹も落ち着き、やけに満足げな声をもらしたティンクルスは、ようやく先ほどの出来事に考えを巡らせる。
あの職人が持っていた布の端切れには、こんなことが書かれていた。
『私に帰ってきてほしければ、魔女エリーズを退治して!』
いったい何のことなのか。職人は訳がわからないといった風だったし、ファビオとレジスも首をひねっていた。
「魔女エリーズというのが、何かを指してると思うんじゃが……」
エリーズ自身はすでに亡くなった人物だ。彼女のことではないだろう。
となると、思いつくのはこの魔女の月、塔にこもった妻たちだ。彼女たちは『魔女に惑わされた』ことになっているそうだから、魔女と言えなくもない。
が、文章に当てはめてみると、妻自ら『自分たちのことを退治して』と書くのはおかしい。
「むぅ……」
再び唸りをもらしたティンクルスに、クロードと騎士が心配顔を向けてきた。
二人は、亭主にぎゃふんと言わせてやろうと元気よく、篭城したであろう妻のことなど気にしていないが、口をもぐもぐさせながら悩む老魔術師の姿は、大いに気になるのだろう。
「エリーズって書かれてたから、大侵攻のあとだよな」
クロードはフォークに刺さった肉もそのままに、何事かを考え始めたようだ。長い間、この地を漂ってきた記憶を、カーヴィアに関わる出来事を、思いだそうとしているのだろう。
そして、古くなった防壁を直していた様子くらいしか思いだせない、と顔をしかめる。
「防壁……」
「この街には、他にも魔女に関わる伝承や風習があるのではないでしょうか?」
ならば宿の女将に聞いてみてはどうだろうか、と続けたのは騎士だ。
「ふむ……そうじゃの」
こうして、ティンクルスはいくつかの情報を女将から仕入れた。
*
「おお、おはよう。わざわざ来てくれたのかの」
朝になると、フィビオとレジスが宿屋に姿を現した。
「ああ。昨日、旦那様が街を案内してやれって言ってただろ。それとティンクの都合もあるだろうけど」
宿の女将に気を使ったのだろう。ここでファビオは小声になって、「いつでも店に泊まりに来てくれって」と笑う。
「ティンクが魔宝玉を探してるって言ったら、協力してあげろって。だから僕が知ってるところを案内するよ」
レジスは「任せて」と大きくうなずく。
「ほぅ……」
理由はよくわからないが、どうやらご老体は、本当にティンクルスのことを気に入ってくれたようだ。
そうした人物の案内に、この若者たちをつけるということは。
「ファビオとレジスは、店の自慢の跡取りなんじゃのぅ」
こう言うと、若者たちは少し照れ臭そうにして、けれど嬉しげな誇らしげな笑顔を浮かべた。
みなで宿屋を出ると、老魔術師は昨夜の考えをファビオとレジスに話して聞かせた。
「奥さんが書いた『魔女エリーズ』は何を指してるのか、か……」
「すぐに思いつくのは魔女の月だけど、違うんだよね?」
「うむ。自分たちを退治しろなんて変じゃからのぅ」
指を一本立て、ついでにつまずき助けられ、ティンクルスは続ける。
この街で次に思いつくのは、疫病だそうだ。病が流行ると『魔女の仕業』とささやかれる。
「でも、疫病を退治しろなんて、魔法使いでもないのに無理だよな?」
「残念じゃが、魔法使いでも無理じゃ……」
ファビオに顔を向けられると、老魔術師は力なく首をふった。
魔法薬を作ることはできても、病をなくすことはできない。ちょっぴりしょんぼりし、しかし今は落ちこんでいる場合ではないのだと、シャキリと背を伸ばす。
「たとえば、奥さんの身内に病気の人がいて、薬を買って病を退治してほしい、というのはどうじゃろ?」
こう聞くと、そんな身内はいないだろうと若者たちは首をふり、しかしそういう考えもあるかと感心した風にうなずく。
「魔女の月に女性たちが消えて、それが実は人攫いの仕業じゃったという話もあるんじゃが……」
「じゃあ、井戸の水が魔女の血で、赤く染まったとかいう話は……」
「あとは、防壁から魔女のうめき声が聞こえたという話はどうかの?」
宿の女将から仕入れた、魔女に関わる話を次々に繰りだしてみるが、若者たちはこれと言って思い当たることがないらしい。
ちなみに、この手の話は怪談めいたものが多い。しかも、この時期は夜になると風が強くなるらしく、カタコトと窓やら何やらの揺れる音もした。
ゆえに、老魔術師はちょっとばかり怖気づき、昨日は寝つきが悪かった。本日は少し寝不足だ。
「やっぱり、あの職人さんに聞いたほうが早いかもな」
ファビオが顔をしかめると、うなずいたレジスが横を向く。
「そうだね……あ、この店にティンクが探してる魔宝玉があるはずだよ」
こんな話をしていても、彼は当初の目的を忘れていないようだ。
おかげで、ティンクルスは精霊が囚われている玉を順調に入手しながら、職人街へ向かうことができた。
――ハァ、ハァ
ささやかな居間に、妻に篭城されてしまった職人の、絶え間ない溜息が響く。
塔へ迎えに行った際、彼の妻は何一つ言葉を返さなかったそうだから、離婚という言葉が頭にチラついているのかもしれない。若者たちの励ましも、まるで効果がなかった。
今日は風の日、王都と同じくカーヴィアの職人も休日であるらしい。静かな職人街は、近所の奥さん方なのだろう、女性たちの朗らかな声がこだまする。
「ハァ……」
また、職人の口から大きな溜息がもれた。
「その……まったく心当たりはないのかの?」
老魔術師は職人に、こんなことを聞いていた。
たとえば、奥さんに対して、攫ってしまいそうなほどに恋心を募らせている者はいないか。あるいは、奥さんが使っている井戸の水が濁ったりはしていないか。はたまた、最近奥さんがうめき声をもらすような、不快な出来事はなかったか。
『魔女を退治』するのだから、このことを指す原因を退けるなり直すなり、何らかの対処をすれば、妻は戻ってくると思うのだ。
けれど……
「ダメだ。思いつかない……ハァ」
職人の肩がガックリと下がる。
しばし溜息だけが続いたせいか。ティンクルスのまぶたも下がり、あふ、とあくびがもれた。
「ティンク、宿に戻って寝よう」
「やっ、大丈夫じゃ」
すぐさま立ち上がったクロードに、老魔術師は慌てて断り首をふる。まだ何の解決策も見つかっていないのに、ここで帰るわけにはいかない。すると。
「あぁ……俺たちのベッドで良ければ寝てもいいぞ」
覇気のない手がゆっくりと持ち上がり、扉が開いたままの寝室を指した。つられて、老魔術師の顔もそちらへ。
「……あれ、何じゃろ?」
ベッドの上の薄い掛け布団が、もそ、もそ、とわずかに動いて見える。じぃっと集中してみると、ヒュ、ヒュ、と何やら奇妙な音も聞こえてくる。
「何だ?」
怪訝な顔をしたクロードが、ティンクルスを庇うように前に立つ。剣を手にした騎士が、寝室へと近づく。
このときばかりは消沈し、うなだれていた職人の頭も上がった。
「気、気をつけて、の……」
ベッドに何か、いるのだろうか。ささやいた老魔術師ののどが、ゴクリと音を立てた。




