竜の棲み処の谷の底
「ティンク、大丈夫か!?」
「ふぉっ、ほっ、ほ……」
草むらについた両手が、両膝が、がくがくと震える。心臓のばくばくと跳ねる音が、さらに体を震わせる。吐く息は乱れ、友の問いかけに満足に答えることもできない。
竜に掴まれ大空を舞ったティンクルスたちは、人の住まう地から深く大きな谷を越え、竜の棲み処へ運ばれていた。
「おい、お前! ティンクに何するんだ!」
――私は大精霊に頼まれたとおり、印ある人間をここへ運んだだけだ
頭に響いたのは、子供とも大人とも老人とも、男性とも女性とも思える、幾人もが話しているような声だった。それでいて、声が聞こえている間、竜はグググとくぐもった音ももらしていた。
のどを鳴らしながら、この不可思議な声を紡いでいるのだろうか。竜が言った言葉も気になる。
老魔術師がヨロヨロと顔だけを上げると。
白く艶めくうろこに覆われた、美しく大きな竜がゆったりと座る姿があった。
また、ティンクルスは何も聞こえなくなる。自身の乱れる息も、うるさい心臓の音も。ただただ竜を見つめる。
竜の顔はこちらを向いている。黒い瞳はただ静かに感じられ、何を思っているのかわからない。いや、精霊よりもさらに強い力を持つという彼らだ、人のことなど何も気にしていないのかもしれない。
目を合わせていたのは一瞬だったのか、それとも、もっとずっと長かったのか。
「空を飛ぶなんて、ティンクが落ちたらどうするんだ! 爺さんのままだったら心臓が止まってたぞ!」
いきり立つ友の声で、ティンクルスは我に返った。
精霊と竜は仲が良いのか。それはわからないが、悪くはないのだろう。クロードは遠慮なく猛然と竜に抗議している。竜のほうは何となく、しれっとしている風に見えなくもない。
クロードは宙を漂う精霊だ。空を飛んでも恐れを感じなかったのだろう。元気そうな姿を見て、無事で良かったとも思う。
どうやら竜は、大精霊に頼まれて、老魔術師を竜の棲み処に運んでくれたようでもある。文句を言い続けている友を止め、お礼を言わなければ。
「こ、これ、クロ……ふぅ」
体中が落ち着かず、持ち上げていた頭がカクリと垂れると、クロードの文句はピタリと止まり心配顔を向けてきた。
クロードがどこからか持ってきてくれた水を飲んだり、少しばかり横になったりすることしばし。
ティンクルスはようやく落ち着き、辺りを見まわす余裕ができた。
彼らのいる場所は案外広く、一面緑に覆われている。けれど少し薄暗い。周りには崖が切り立ち、はるか上に青空と少し傾いた陽が覗いている。
「ここは、あの裂目の中かのぅ?」
竜の棲み処から流れ落ちる滝と滝の間に見えた、亀裂の奥だろうか。一方を見れば崖は途切れており、そちらから水音がかすかに聞こえてくる。もう一方は木々が茂り、森になっているらしい。
「嫌な魔力を感じるのは、こっちだな」
クロードが森の方向を指し、眉をひそめた。
ティンクルスにはまだわからないが、森の奥で、大精霊の娘が囚われているのだろう。おそらくだが、王都の古代神殿にあった、女神像のような物があるのだと思う。
ふむ、とうなずいた老魔術師は、そっと竜をふり返る。
「わしたちを運んでくれて、ありがとうのぅ」
まずはお礼だ。丁寧に頭を下げるも、竜はただこちらを向いているばかり。
「その、ちょっと聞きたいんじゃが、千年前、何があったのかのぅ?」
これにも竜は答えない。
ここでクロードが「ティンクが聞いてるだろ!」と文句を言いだし、老魔術師は慌てていさめた。
「あの……さっき言ってた印ある人間とは、わしの気配のことじゃろうか?」
――お前は大精霊の匂いがする
「ぉ……」
――それが印だ 印ある人間が来たらここへ運べと、大精霊から頼まれていた
「おぉ……」
ようやく、幾重にも重なる不可思議な声が返ってきた。
くんくん、と腕の辺りに鼻を押しつけ匂いとやらを嗅いでみるが、ティンクルスにはちっともわからない。竜が匂いとして感じているものは、大精霊の力のようなものだろうか。
ともかく、生き返り若返ったとき、老魔術師の体には大精霊の匂いが残った。
これが、クロードには気配の違いとして感じられたのだろう。そして、匂いのする者をこの場所へと運ぶよう、大精霊は頼んでいた。
つまり、老魔術師の気配が変わったのは、この竜への目印だったわけだ。
「そうじゃったのか、ありがとうのぅ」
竜が答えてくれたことが嬉しくて、ティンクルスの頬がゆるむ、と。
――きゅるるるるぅ
「……」
聖獣と呼ばれる、美しく雄々しい竜を前にして、腹が鳴るのはいかがなものか。
しかし、今日は竜の谷に圧倒され、竜の姿に息をのみ、空を飛んではとんでもない思いをした。それから、竜が運んでくれたと知り、竜と話すこともできた。
ホッとして、少し気が抜けてしまったのかもしれない。
「ティンク。もう、だいぶ昼を過ぎてる。ちゃんと食べないとダメだぞ」
ここで友が心配顔を向けてきた。いつもどおりのクロードに、老魔術師はさらにホッと安心する。
グググ、と、もれ聞こえたのは竜がのどを震わせている音か。
それが笑ってくれているように思えて、照れつつも嬉しく感じて、ティンクルスはほわりと笑った。
*
ティンクルスとクロードは、亀裂の奥へと進んでいた。
竜がひょいと首を動かし、奥を指し示したからだ。老魔術師の腹の音を聞き、食べ物は向こうにあると教えている風にも見えたし、先に進めと言っているようにも思えた。
ふり返れば、その竜は今、降り立った場所にうずくまりまぶたを閉じて休んでいる。老魔術師が成すべきことを終えるのを、待っているようにも感じる。
よし、と一つうなずき、ティンクルスはつまずきつつ助けられつつ、さらに奥へと歩みを進めた。
「のぅ、これ……」
森を歩いている途中、ふと見ると、茂る葉の下に石が見えた。手を伸ばすと、それより早くクロードが魔力でもって葉を散らす。
そこには、石の積まれた壁があった。葉に覆われた周囲をよくよく眺めてみれば、入り口があり窓があった。
「これは……家じゃ。人の家じゃ」
こんなところに――ぐるりと顔をめぐらせる。森と見えていたのは全て、長い年月放置され、緑に呑みこまれてしまった人の家なのか。誰の住まいかと考え、竜人と呼ばれた人々だろうと老魔術師は思う。
千年前、姿を消した竜人たち。彼らはここに移り住んでいたのか。支配していた地上を捨て、この谷底にひっそりと隠れるようにして……
なぜ捨てたのか。何から隠れたのか。千年前、いったい何が起きたのか。
捨て置かれ、葉に埋もれた家々に囲まれていると、恐ろしいことがあったのではと想像しまう。不安を覚えたティンクルスが、わずかに眉をひそめたとき。
「ティンク、リンゴがあるぞ。あれは黄金のリンゴだな」
「ふぉ?」
友の指した先には、木に実る、赤く艶めくリンゴがあった。
「これが黄金のリンゴ、かの?」
一日に一つ食べれば命をつなぐことができ、二つ食べればどんな病も治り、三つ食べれば寿命が延びる。竜の棲み処にのみ実ると伝わっている、黄金のリンゴ。
クロードから手渡され、小さめの手に納まっているリンゴは芳しい匂いを放ち、鮮やかに艶めき、しかし赤い。
ティンクルスは首をかしげた。黄金のリンゴなのだから、黄金に輝いているものだと思っていたが。それとも『黄金』は、その効能に相応しい比喩なのだろうか。
「金色に光らないな……」
けれど、クロードも手にしたリンゴを陽にかざすと、同じように首をかしげた。
聞いてみれば、黄金のリンゴは赤ではあるが、陽の光が当たると金の光を放つらしい。以前、この崖の上に生っている実を見たときは、確かに輝いていたそうだ。
「ここは光が弱いからかのぅ?」
「そうかもな。でも、魔力も少ないぞ」
リンゴからは十分に植物の魔力を感じるが、それでも崖の上の物に比べると少ないと、クロードは続ける。
陽光が足りないせいで、効能も少ないのかもしれない。
「ほぅ、そうかの。どれどれ」
それでも十分においしそうだ。
シャリリ。かぶりついた老魔術師の唇が、きゅう、と窄まった。
「ティンク、大丈夫か!?」
「……すっ、ぱい」
かぶりつけば芳香が鼻を抜け、爽やかな甘みが口いっぱいに広がると聞く、黄金のリンゴ。
だが、これも陽光不足のせいなのか、残念ながらひどく酸味が強かった。
崖の上から覗く陽は、まだ夕暮れ前のようだ。けれど谷の底はもう暗い。
柔らかな草むらに腰を下ろし、魔法で出した淡い光に包まれながら、今日は休むことにした。
「竜人と呼ばれた人々は、こんなところで暮らしてたんじゃのぅ」
ティンクルスは森とも家ともつかない、暗い周囲を眺める。
手の中のリンゴは、半分ほど食べただけで腹を満たしてくれたものの、とてもじゃないがおいしいとは言えない。
この黄金のリンゴは、崖の上の、竜が自由に羽ばたくのであろう地上から、竜人が手に入れたのだろうか。そして谷底に植えたのだろうか。きっと彼らの貴重な食料だっただろうとも思う。
こんなに薄暗い場所で――
おいしくもない実を食べて――
彼らはどれほどの時を生きたのか――
老魔術師の口から、深く長い溜息がこぼれた。
「わしたちは、同じ過ちを繰り返してはいけないのぅ」
千年前、竜人と呼ばれた人々にいったい何が起きたのか。それはまだ、わからない。だが、彼らと同じ道を辿ってはならないことだけは、わかる。
千年前の出来事が、この谷底のどこかに記されているのか。甦るか新たに出現するであろう、大精霊に聞けばいいのか。とにかく知らなければならないと思う。
「うむっ!」
我知らずうつむいていた顔を上げ、ティンクルスは小さめの拳をぐっと握る。そんな彼を、クロードが優しげな顔で眺めている。
谷底の夜は、静かにゆっくりと更けていった。




