~精霊の記憶~
精霊は、風に漂い、水に流れ、光に舞い、闇に溶ける。永い時をさすらい世を眺め、ときには人に声をかけて姿を現すこともある。
あるとき、精霊は心地よい『気』を感じてその存在を探した。
「ティンク様。蝶々でございますよ」
「ちょ、ちょ」
その気の持ち主は、老人に手を引かれた子供だった。花にとまった蝶を不思議そうな顔で眺めている。小さな手を伸ばすと蝶が羽ばたき、子供はあっと声を上げる。
(ふしぎ、ふしぎ、これは生きてるの? 花もひらくから、生きものなの?)
心地よい気のせいか、子供の心がとてもよく伝わってきた。蝶や花をただ綺麗なだけのものと思わず、その命を見ている子供を、精霊は気に入った。
精霊は子供のそばにいることにした。しばらくして、子供はこの国の王子であること、老人は侍従であることを知った。
とはいえ、精霊にとってそんなことはどうでもよかった。心地よい気を持つ、王子のそばにいるのが好きなだけだ。
「ティンク様、これが魔石でございます」
「ましぇき」
老いた侍従が魔石を手に取り、王子に見せている。
この王子は言葉がうまくないようだと、精霊は気がついた。同じくらいの大きさの、人の子と比べても拙い。
(まほうつかいは光らせてた。どうしたら光るの?)
だが、心ではたくさんのことを考えている。今も魔石が魔光灯に使われている物だと気づき、夕暮れになると魔法使いがやって来ることを思いだし、さまざまな考えを巡らせている。
「くりょーど、あかり、ちゅけて」
「私は魔法を使えませんので、灯りは点けられないのです」
(まほうがないと点かないの? よくない……)
老いた侍従が申し訳なさそうに頭を下げると、王子は何度も頭をふった。彼が悪いのではないと伝えたいのだ。
優しい子供だな、と精霊は気持ちよくそよぐ。
「ティンクルス。お父様にご挨拶なさい」
「ちんくぅす、です。ごきげんよう、お父しゃま」
王子はできるだけハッキリと聞こえるように、一生懸命、口を動かす。父王に会うことになったからと、老いた侍従とともに何度も練習したのだ。
ところが、父王は「ティンクルスはいつまでも赤子のままだな」と素っ気なく笑い、王子の母は眉をひそめ、息子に嫌な目を向けた。
彼らから感じるのは不快な気だ。言葉が拙いだけの王子を、愚かだと思いこんでいるのだろう。精霊は父王とこの母が嫌いだ。
けれど、彼らが王子と会うことは滅多にない。だから、精霊も彼らを見ることはほとんどなかった。
「あっ」
「ティンク様! お怪我はございませんか?」
庭を歩いていた王子がベタリと転んだ。老いた侍従は急いで駆け寄る。助け起こすと、王子は鼻の頭から血を滲ませ、涙を堪えてきゅっと口を結んでいる。
この王子は体を動かすのも苦手なようだと、精霊は気づいていた。
「早く手当てを!」
老いた侍従が声をかけるも、周りの者は醒めた目を向け、ただ頷く。
精霊はまた、不快な気を感じた。この者たちは王子を愚鈍だと思いこみ、軽んじているのだろう。
この王宮というところは嫌な人間が多い。精霊が好きなのは王子だけだ。嫌いじゃない人間は老いた侍従だけだ。
この二人は、いつも一緒だった。
王子は老いた侍従の昔話を聞くのが好きだ。大きな魚を釣った話、馬で野原を駆けた話、中でも、彼が飼っていた黒い犬の話が気に入っていた。
王子は何度も繰り返し、話をねだる。
「アレは私の良き友でございました」
「……私も、そんな友がほしい」
こう言って笑う王子の顔は、少し寂しげだった。その心が伝わってきた精霊は悲しくなり、王子に身を寄せ漂った。
寂しくもあり、けれど穏やかでもあった生活が一転したのは、王子が十三歳のときだ。魔力を呼び覚ます儀式が行われた。
魔力は誰にでもある。が、その量には違いがあり、多い者は十歳を過ぎた辺りで、身の内に眠っていた魔力が目覚める。その年を過ぎても魔力が現れなければ、王族や貴族はこうした儀式をする。特別な力を持つ、魔法使いを早く輩出したいがためだ。
放っておいても王子の魔力はもうすぐ現れるのに、と精霊は少し呆れながら見ていた。
集まった者たちは、王子に無関心な様子だった。中には小バカにした風に、小さく鼻を鳴らす者もいた。十一歳のときも、十二歳のときも、魔力が現れなかったからだろう。愚鈍だと、噂されていたせいでもあっただろう。
みなの視線に晒され、おどおどする王子に、精霊はそっと寄り添った。
魔法使いが呪文を唱え、王子はつっかえながらも呪文をつぶやく。
すると、心地よい魔力がふわりと湧きあがった。それは大きく、さらに大きく広がっていく。
体に眠っていた魔力を初めて感じた王子の、心は躍り、魔力も踊る。楽しくなった精霊も、魔力の中を飛び跳ねる。
その魔力が静まったとき、精霊は人々のざわめきに気づいた。声ではなく、心のざわめきだ。嫌な騒がしさだ。
このあとからだ。顔にだけ笑みを貼りつけた嫌な者たちが、王子のそばに寄ってくるようになったのは。みなが王子の魔力だけに目を向けている。
老いた侍従が体を壊し、王宮から姿を消したのも、ちょうどこの頃だ。
王子は周囲に戸惑い、怯え、疲れていた。老いた侍従がいないことを、毎日一人で泣いていた。子供らしくふっくらとしていた頬は、すっかり細くなり、優しげな笑顔もその顔から消えた。
だから精霊はささやいた。
――名を呼べ、姿を想え
王子は精霊にクロードという名を、老いた侍従と同じ名を、与えてくれた。彼から聞いた話の中で、一番好きだった犬の姿を、友の姿を、与えてくれた。
*
王宮を離れる馬車の中、クロードは涙を拭うティンクルスを見た。
あれから五十年。クロードは嫌な者たちを、ティンクルスに近づけなかった。それだけなら老魔術師は孤独になっていただろう。けれど彼の人柄か、気の良い者が徐々に集まり、精霊は王宮の暮らしもそう悪くない、と思うようになった。
老魔術師が亡くなったときは、その魂を取りこんで、ちょっと驚かせてやろうと思っていた。
ティンクルスは、取りこまれた魂は糧になると思っているが、実は精霊の中でともに生き続けるのだ。
人は変わる。心地よかった気が不快になることもある。だから、精霊が魂を取りこむことは滅多にない。初めて取りこもうと思う相手を見つけたクロードは、とても楽しみにしていた。
『わし、どうなったんじゃ!?』
取りこまれた彼は、きっとこんな風に慌てふためくだろう。
『ふぉっ!? どこへでも行けるのか?』
王宮で生涯を終えたティンクルスを、遠い国、高い山、深い谷、竜の棲み処、この広い世界の端から端まで連れていってやろう。きっと目を輝かせて喜ぶはずだ。そう思っていた。
ところが……
(まあ、こうやって旅をするのも悪くないか)
クロードは小さく笑う。
「みなと一緒に、これから旅が始まるんじゃのぅ」
クロードを見、老侍従を見たティンクルスが、そっと胸のポケットに手を当てた。そこには色あせた小さな袋と、中にはクロードと同じ名の、老いた侍従の遺髪が入っている。
「私の祖父は幸せ者でございます」
ほほ笑んだ老侍従――ロイクの目に、光るものがあった。
「安心しろ。ティンクはお前より、ずっと長生きすることになったからな。死んだらロイクの髪も、爺さんと一緒にその袋に入るぞ」
「こっ、これ、クロード。そんなことを言うもんじゃ……」
ティンクルスが慌てる。その姿は子供の頃から何も変わっていない。クロードに向けられた老侍従の目は、ジトリと据わっている。だが、その心は嬉しげだ。
やっぱりクロードはティンクルスが好きだし、この老侍従が嫌いじゃなかった。




