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老魔術師はアンガンシアを満喫する

「ふぅ……いい湯じゃのぅ」

 頬をほんのり染め、広い湯船にとっくり浸かったティンクルスは、ご満悦な様子でほんわりと笑う。

 浴室の高いところにある、大きく開いた窓の外を眺めれば、まだ青空が広がっている。左右にはクロードと騎士がのんびりと、しかし、ときおり老魔術師に目を向けるのは、つるっと滑って湯船に沈まないかと心配しているためだろう。


 アンガンシアの領主館で謁見を済ませ、店もめぐり終えた彼らは、今日一日をこの街で過ごし、明日旅立つことにした。

 今日は光の日、老魔術師の休日だ。まず、元は領主館だったという茶色い神殿で祈り、併設されている孤児院に寄った。

 領主の息子の婚約者となった娘と顔を合わせ、魔法と魔術の話に盛り上がる。ティンクルスは子供たちの勉強を見、幼い子らには高い高いを……こちらは騎士が担当した。老魔術師がやったら、きっと子供も本人も危うい。


 それから『若様のご婚約』で湧き立つ街をぷらりと歩き、まだ夕暮れには間のある時間に、公衆浴場へやって来た。

 アンガンシアは鉱夫の街。夕方になると、仕事を終えた彼らが浴場に押し寄せてくる。汚れた体を洗えば湯も減り濁る。だからこの街の、家に風呂のない人々は、それより早く来るのだそうだ。

 まだ早い時間にも関わらず、結構浴場は混んでいた。


「わし、公衆浴場って好きじゃのぅ」

 お祖父さんと孫だろうか。幼い子供が楽しげに、広い背中を洗っている。湯をバシャバシャとかけ合い遊ぶ少年たちは、友達なのだろう。

 ガハガハと笑う男たちは、妻の悪口を面白おかしく披露しているようだ。らっくりとした浴場に油断したらしい。女湯から彼らの妻だろう怒声が飛んできて、一瞬シンと静まった。


「みな、のんびりして楽しそうじゃ。一人で入ってたらこういう姿は見られないからのぅ」

 老魔術師がほわっと笑うと、クロードが首をひねる。

「ティンクが一人で風呂に入ったことって、あったか?」

「ふぉ?」

 王宮では侍従が世話をしてくれ、街に出てからは友と一緒に入っていた。背中に手が届かなかったり、いまだ髪をうまくすすげなかったりするためだが。

 つまり、生まれてこの方ティンクルスは……

「わし、一人で風呂に入ったこと、ないかも」

 だからといって、どうという事もないのだが、老魔術師の口がパカッと開いた。



 風呂から上がり、もぞもぞ服を着こんでいると、ティンクルスは涼んでいる者たちが何かを飲んでいるのに気がついた。

「あれは水かのぅ?」

 王都の公衆浴場でも水は自由に飲めた。だが、みなの手元を見てみれば、うっすら濁りがあるような。やけにおいしそうに飲んでいるような。

 見てまいります、と、とっくに身支度を終えていた騎士が歩いていく。


「ティンク様。あれは水にクァムの実を搾った物だそうです」

 クァムの果実は苦くてすっぱい。葉は薬草として用いるが、実をそのまま使うことはないはずだ。

 首をかしげた老魔術師に、騎士が続ける。

 アンガンシアの土地と農業用の魔法薬に肥料。これらで育ったクァムの実は、苦味がなくすっきりとして、果実水にするとおいしいのだそうだ。


「ほぅ!」

 少々お金はかかるそうだが、これは飲んでみなければ。

 ティンクルスは、いそいそと服を着こみ、あせあせと売り場まで行く。そして、もたもたと腰の革袋から小銭を取りだす。

「クァム水を三つ、売ってくれるかのっ」

 シディンス硬貨をぐっと突きだし、意気揚々と注文した。

 風呂上りの温まった体には、とてもおいしかった。宿でも出してほしいと思う。





 空が茜色に染まり、茶色い街がいっそう茶色に染まる頃。ティンクルスたちは一度、宿屋へ戻った。

「ティンク殿!」

「おぉ、お待たせしてしまったかの? すみませんのぅ」

 食堂から顔を覗かせたのは領主の息子だ。

 今晩は彼が、夜の鉱夫街で夕食をご馳走してくれることになっている。相談事を見事に解決した――いろいろと思い違いはあったが、お礼らしい。


「若様、おめでとうございます」

「ようやくご結婚ですねぇ」

 街を歩くと人々が、領主の息子を囲むのでなかなか歩みが進まない。若者は庶民らしい服を着、帽子も被っているのだが、さして効果はないようだ。

 照れながらも嬉しげな『若様』を見て、良かったのぅ、と、老魔術師がほほ笑むと。


「あんた様が、縁結びの魔法使いかね?」

「ふぉ?」

「あら、この坊ちゃんが若様たちの?」

「ふぉっ?」

 見知らぬお婆さんに握手を求められ、どこぞの奥さんからは背中をパンパン叩かれる――クロードがすぐさま止めに入ったが。気がつけば、ティンクルスまで囲まれていた。

 宿屋の女将から広まったのだろう。いつの間にか、老魔術師は『縁結びの魔法使い』とやらになったらしい。


 鉱夫街に入ると、扉の形も窓の位置も、まったく同じ建物がずらりと並んでいた。魔石の採掘量が増えるとともに集まってきた、鉱夫たちのために建てた区画だそうだ。

(何だか、迷子になりそうじゃのぅ)

 どこまでも同じ景色が続く、夕日に溶けそうな茶色い道を眺めると、ティンクルスは不思議の街に迷いこんだ気分になる。

 少しのわくわくと、そわそわとした感じ。隣にクロードがいることを確かめてホッとしたりもした。


「ここが鉱夫たちが集まる酒場だ。賑やかで楽しいんだ」

 領主の息子が案内してくれたのは、この辺りでは唯一だろうアーチ型の入口の、大きな酒場だった。



 酒場でも、『結婚の決まった若様』と『縁結びの魔法使い』は、みなに囲まれ酒を交わす。

 仕事を終え、風呂も済ませた鉱夫たちが増えてくると、酒場はさらに賑やかになった。


 テーブルの上には逞しい腕が二本、がっちりと組まれている。一本は二十歳すぎの鉱夫、もう一本の腕の持ち主は、騎士のジャンだ。

 二人は真っ赤な顔になりながら腕相撲をしている。王都の護衛――ジャンのことだ、に負けるなと怒鳴る鉱夫たち。そして。


「ジャン、がんばれ! 倒すんじゃ!」

 ティンクルスも小さめの拳をぶんぶんと振り、必死になって応援する。

 実は、王宮で生まれ育った彼が、腕相撲を見たのは初めてのこと。妙に興奮してしまう。


 ――ダンッ


 勢いよく、テーブルに拳が打ちつけられた。勝ったのは騎士だ。

「ふぉおおおぅ!」

 老魔術師は、こちらも生まれて初めて雄たけびというものを上げた。ちょっと間の抜けた、優しげな声だったが。


 クロードも鉱夫と対決した。どうやら酒場は、王都の護衛対アンガンシアの鉱夫、という様相を呈しているようだ。

 友の晴れ舞台とあって、ティンクルスはさらに拳をふり回す。


「ふぉっ?」

「ティンク様!」

 ――ダンッ

「ティンク、大丈夫か!?」


 ふり回しすぎたらしい。よろりと上体を崩した老魔術師は騎士に抱えられる。

 これに、クロードは気を取られたのだろう。負けてしまったものの、そんなことはどうでも良いとばかり慌てた様子で駆けつける。

「……クロードよ。すまなかった、のぅ」

 ティンクルスの背が、しょんぼりと丸まった。


「よ、よし。じゃあ次は、わしじゃ……」

 勝負は一勝一敗だ。次は非力ながら爺の出番だろう。ここは精一杯がんばるしかない。

 が、クロードと騎士は危ないと、二人そろって首をふる。鉱夫たちもひょろりとした魔法使いの坊ちゃんと、腕相撲をする気はなかったようだ。

 これで勝負しようぜ、と丸い輪を持ちだしてきた。輪投げである。


「ほぅ。あの棒に輪を引っかければいいんじゃの?」

 狙いをつけ、輪を投げる。

「……ちょっと練習するか」

 これまで物を投げる必要も習慣も、まるでなかった老魔術師だ。輪は明後日の方向へ飛び、鉱夫は真面目な顔を向けてきた。


 最初はとんでもない方向へ投げてしまったが、投げ方を見、何度かやってみると。

「結構うまいな。投げ方を知らなかっただけか。あとは力加減だけだ」

「なんか、すごく正確に、少しずつ近づいてないか?」

 輪の落ちる位置が、じりっじりっと回を重ねるごとに、着実に棒へと近づいていく。

 ティンクルスはものすごく真剣な顔で投げ、みながジッと見守る。輪を拾った鉱夫たちはなぜだか胸にそれを当て、それから老魔術師に手渡す。


 何度目になるだろうか。ひょろっと投げた輪が、カラン、と棒に引っかかった。


「お……入った。わし、できた」

 初めての成功に、まぶたがぱっちりと開く。じわじわと喜びが湧き上がってきて、ティンクルスはクロードを見上げる。

 この感動を友と分かち合いたいと、とびっきりの笑顔になったとき。

「よぉし! これで俺はジーナと恋人だぁ!」

 一人の鉱夫が絶叫し、老魔術師の体が、ぴょん、と跳ねた。


 鉱夫は『縁結びの魔法使い』が投げる輪に、恋しい娘と恋人になれますように、と祈りを捧げていたらしい。

「俺も頼む!」

「俺のも!」

「……うむっ、任せてくれ!」

 何となく、輪投げは得意なように思う。魔法と魔術以外にも出来ることが見つかり、ティンクルスはとても嬉しい。

 きりりと顔を引き締めて、差しだされた輪を受け取ると、ひょいひょい棒に引っかけていく。


 ものすごく輪投げがうまかったことと、実際に恋人になった者たちがいたためだろう。

 本人の預かり知らぬことではあるが、アンガンシアではしばらく、『大地の魔法使い』と並び『縁結びの魔法使い』が持てはやされることとなった。

 ともあれ、老魔術師は輪投げという得意技を習得した。とてもとても満足だ。



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