女神像と王
ひっそりとした古代神殿。高い天井を見上げれば、彫られた竜が雄々しく舞い、視線をそのまま下ろしていくと、途中、回廊がぐるりと巡っている。
そこに潜んだティンクルスは……パンをもぐもぐ食べていた。一緒に潜むクロードも、老魔術師付の騎士も、そろって口を動かしている。
ティンクルスのお尻の下には、ふっかりとしたクッションが敷かれている。周りには水と食べ物が小山を作り、眠くなったときのためにと毛布まである。
これは、古代神殿を見張ると聞いた老侍従が、速やかに用意した物だ。そのせいなのか、まるで緊張感がない。
「うまく来てくれるかのぅ?」
「騎士たちも元に戻したし、噂も流したんだ。きっと大丈夫だろ」
もぐもぐしたティンクルスが、心配そうな顔を斜めに傾けると、やはりもぐもぐしていたクロードが気楽な様子でうなずいた。
女神像を削った者は、老魔術師の喪に服す三日間、騎士の配置が変わったためにやって来ないかもしれない。
だからティンクルスは、騎士たちに芝居を打ってもらい、配置を元に戻した。王に、「やはり私たちは、霊廟に眠るティンクルス様をお守りしたい!」と熱く訴えてもらったのだ。
王なら彼らの言が嘘だとわかる。ニヤリと笑ったともいうから、老魔術師の思惑にも気づいただろう。この話は広まって、きっと犯人の耳にも入るはず。
それでも、犯人がすぐに来るとは限らない。ティンクルスもずっと古代神殿にはいられない。
ということで、一つ、噂を流してもらった。『女神像が七色に輝いた』という話だ。これを聞けば、やはり像には神聖な力があるのだ、となり、ぜひとも早く手に入れたい、となることを期待している。
「誰か来るぞ」
「むふぉ」
クロードのささやきに、ティンクルスは若干パンを詰まらせた。
この日、古代神殿にやって来た人物は三人いた。
一人は老魔術師も見覚えのある貴族。彼は静かに祈りを捧げ、そのまま立ち去った。守衛の騎士もちゃんと同行していた。もう一人も貴族だと、こちらは一緒にいた騎士から聞いた。彼はずいぶん熱心に祈り、やはり何事もなく去った。
彼らはいつも祈っているのか、ティンクルスが流した噂に釣られてしまったのか。そうだとしたら、ちょっと申し訳ないと思う。
そして、最後に来た人物。格好から見て侍女のようだ。
彼女は一人で入ってくると、すぐに女神像の裏へ回った。白いナイフらしき物を取りだし、慣れた様子で台座に登る。手を伸ばし「あ」と小さな声も上げた。葉のかんむり――昨日、欠け落ちてしまった部分だ、に気づいたのだろう。
台座を降りて床を見まわし、隅に転がしてあった欠片を拾う。彼女はニタリと笑い、それを持って出ていった。
「きっと、あの侍女じゃの」
「ああ。じゃあ、騎士に後をつけさせるぞ」
すぐそばの窓を覗き、クロードが外に向けて魔力を放つ。その先には、茂みに隠れた老魔術師付の騎士がいる。
「お……」
魔力がぶつかった騎士の頭が、結構揺れたように見えた。大丈夫だろうか。
ちゃっかりと昼寝までした見張りを終え、夜になると。
ティンクルスたちは、女神像に祈りを捧げるという名目でやって来た王とともに、古代神殿を抜けだし、叔父上を懐かしむという名目で立ち寄った王とともに、魔術師用の作業場へ戻った。
王宮はいろいろと面倒臭いのだ。
「叔父上。見事、女神像を削った者を見つけたようですね」
ニコリと笑った王に、ティンクルスはわかったことを報告する。
侍女は、王の息子である第一王子、彼の妃の一人に仕えている者だった。彼女は欠片を持って妃の下へ向かったので、おそらく妃の指示だろう。
侍女は古代神殿に入る際、守衛の騎士に何かを渡していたようでもあった。金か何かだろう。何度も通っているらしく、手馴れた様子だったという。
「もし妃が飲んでるなら、いや、誰であっても早く止めてやらねばのぅ」
病に罹ってしまう、と続けたティンクルスに、王は静かにうなずく。
ここで、クロードがフンッと鼻を鳴らした。精霊は人の感情に敏感だ。彼はうさん臭そうな顔で王を見てもいる。
もしかして。王は犯人が誰なのか、すでに知っていたのではないか。見過ごしていたということは、息子の妃が病に罹っても構わないということであり……
ティンクルスが思わずじっと見つめると、王はフッと笑いをもらした。それは自嘲めいた笑いだ。
その妃は、きっと王には好ましくない家の娘なのだ。本当は、こんなことをしたいわけではないのだろう。もっと力があれば妃の病など願わず、堂々と追いだすことができるのに、と情けなく思っているのかもしれない。
魔法に、魔術に、生涯を捧げてきたとはいえ、老魔術師も王宮を生き抜いてきた王族だ。綺麗事だけでは済まないのだと、知っている。
肩を落とした王の、わずかに白髪が交じる頭を、ティンクルスははるか昔を思いだして優しくなでる。
「……ティンク、こいつ甘えてるだけだ。慰めなくていいぞ」
クロードがジロリと睨むと、王の顔は一転、にんまりと笑った。それは、この甥が幼い頃、いたずらに成功したとき、よく見せた表情だ。
「やはりクロード殿には通じませんね。実は、その妃を追いだす手はずはもう整っています」
「ふぉっ?」
ティンクルスの口がポカンと開いたのを見て、王は「お二人が一緒なら、王宮を出ても大丈夫でしょう」と楽しげに笑う。
どうやら、女神像を削った者を見つけさせたのは、二人が外でちゃんとやっていけるかどうか、試すためだったらしい。
老魔術師の口は、まん丸に開いたままだ。
「お前、相変わらず気に食わない奴だな」
「これくらい、貴族よりはマシですよ。ですが……叔父上がいなくなると寂しくなりますね」
これは心からの言葉だったのだろう。ポツリとこぼした王の声は、少しだけ湿っていた。
*
「わし、これから身のまわりのことは、自分でするからのっ」
清々しい朝日を背に浴びて、ティンクルスが高らかに宣言した。
昨夜、王はティンクルスが王宮から出ることを許可した。とはいえ、すぐに各地を巡るわけではない。
囚われている精霊がどこにいるのか、大精霊は何も言わなかった。が、女神像のことを考えれば、古い、魔力ある物に囚われているのだろう。ならばまず、人が集まり物も集まる、この王都から探すべきだ。
というわけで、老魔術師は今日、住み慣れた王宮を出ることとなった。これは彼にとって旅の始まりだ。そして旅をするなら、いつまでも老侍従の手を煩わせるわけにはいかないのだ。
ところが。
「ティンク様がご自分で……でございますか?」
老侍従は、なぜだか衝撃を受けたような顔をしている。
「まあ、ティンクがやりたいなら、いいけどな……」
クロードも歯切れが悪く、心配そうな顔でもある。
生まれたときから人に世話され、ぬくぬくと育ってきた老魔術師ではあるが、こんな顔をされてしまうとちょっと情けない。
「……わし、まず着替えてみる」
ティンクルスは綺麗に折りたたまれていたシャツを取り上げ、こちらが前かとひっくり返し、苦労しながらのそのそと腕を通した。どの穴にどのボタンを嵌めるかをじっくり確かめ、もたもたと留めていく。
見守るクロードと老侍従は、ひどく不安げな顔だ。
次はズボンを持ち、片方の足を通す。と、ヨロリと体が傾いた。すかさずクロードが支える。彼が心配していたのは、おそらくコレだったのだろう。
老魔術師は運動神経そのものを、母の胎内に置き忘れてきたのかもしれない。
「ふぅ……どうじゃ?」
着替えを終えたティンクルスの顔は、何だか誇らしげだ。庶民なら、いや、王だって服くらいは着られるだろうが、彼は初めてだから仕方ない。
クロードと老侍従も、良くできました、とばかりにほほ笑むから、老魔術師は大満足であった。
ちなみにクロードは、ティンクルスを見守りつつ、ティンクルスを手助けしつつ、ティンクルスより早く、着替えている。これに気づいたとき、老魔術師はがっくりと肩を落とした。
そして再びの夜。
「ティンクルス様、馬車を出してもよろしいですか?」
今度は筆頭魔術師とともに、王宮を抜けだしたティンクルスは、生まれ育った城に目をさまよわせていた。
王宮は王都にいれば見ることができる。彼が探しているのは、ここを出れば滅多に会うことはないだろう、王の姿だ。
幼い頃から何だかんだと言い訳をしながら、ティンクルスの下へ遊びにきていた甥。王になるのは嫌だと駄々をこね、旅に出たいと言ったこともあった。それが今、旅立つのはティンクルスのほうだ。
(昨日の夜でお別れじゃったかのぅ……)
王は忙しいのかもしれない。いや、あれで案外寂しがりやだから、見送るのが嫌なのかもしれない。
ほぅ、と溜息をつき、ティンクルスが前を向こうとしたとき。老魔術師の塔、彼の部屋で、ゆらりと影が揺れた。
それは確かに王の、可愛がっていた甥の影だ。若返り、目は良くなったはずなのに、その姿がぼやけていく。
「陛下……レイヴンス、さらばじゃ」
つむった目から涙がこぼれ、馬車はゆっくりと動きだした。