老魔術師は送別会を開いてもらう
「ティンク、まだ寒いからローブを羽織れ」
ふんわりと、肩にローブがかけられる。ふり仰げは、そこにいるのはクロードだ。
「気をつけて、いってらっしゃい」
飲み終えた紅茶のカップを運びながら、元女将がにこりと笑う。
中央街のこの家に、もう老侍従の姿はない。けれど友がいる。元女将もいる。それに、とティンクルスは胸のポケットに手を当てた。
老侍従のロイクは、老いた侍従クロードは、いつもここにいる。
「みな、ありがとうのぅ。じゃあ、行ってくる」
ほわりと笑ったティンクルスは、クロードとともに家を出た。
今日は世話になった人々に、挨拶をして回ろうと思っている。老侍従を見送り、旅の準備も着々と進んでいる。旅立ちの日は近い。
といっても、老魔術師には何が必要なのか、さっぱりわからなかった。みなもそんな事は予測済みだったのだろう。この家を訪れてくれる騎士を中心に、何人かで準備が進められている。
王や筆頭魔術師の配慮だろう。至れり尽くせりだ。
大通りを歩きながら、みなと挨拶を交わす。世話になった礼を述べ、しばらく旅に出ると告げると、それは寂しくなると、気をつけてと、早く帰ってこいとも返してくれた。
「いらっしゃいませ」
中央街の店に入ると、壮年の男性がニコリと、しかしどこか元気のなさそうな顔でほほ笑んだ。
ここは老魔術師が、優しげな隊員の結婚祝いとして魔光灯を買った店。元女将の宿屋で、盗難騒ぎを起こした若夫婦の実家であり、彼はその兄だ。
「わし、王都を旅立つことになったんじゃ」
「ついにご出発ですか」
兄――この店の長男は、ホゥと溜息をつく。
「誰かがいなくなるというのは、寂しいものですね。私の妻も……はぁ」
彼の妻は今、騒ぎを起こしてしまった若夫婦を監督するため、支店のあるアンガンシアへ行っている。弟をずいぶん可愛がっていたらしい長男ではあったが、妻がいなくなって、彼女の大切さが身に沁みたのだろうか。
いつもそばにいてくれた者が、いなくなるのは寂しいものだ。実感している老魔術師も、うむ、とうなずく。
だがしかし。
はぁ、はぁ、はぁ。
長男の口からの、溜息が止まらない。
「……その、早く帰ってくると良いの」
今日はみながかけてくれる言葉を、逆にティンクルスが言うこととなった。
魔術薬師の工房を訪れると、女主人は老侍従が亡くなったことを知っていた。少ない思い出話をし、それから工房の展望を語る。
何といっても老魔術師は創立者だ。その口調は熱い。女主人も何か感じるところがあったのか、彼の言葉を紙に書きつけたりもしていた。
魔道具職人の工房へは、魔術文字を刻んだ魔石を持っていった。旅の準備をする間、あまり役に立たない老魔術師は暇だったために、仕事を引き受けたのだ。
相変わらず人不足に悩んでいるらしい工房長は、旅立つと聞くと若干泣きそうな顔になった。「早く帰ってきてください!」と、誰よりも気合の入った返事をくれた。
それから庶民街の、魔宝玉を探してめぐり歩いた店を回り、自由市場へ。
冬も終わり風邪も治まった。人で賑わい始めた広場を眺め、老魔術師がニコニコしながら歩いていると。
「ティンク、クロード」
見れば、落ち着いた感じの隊員と優しげな顔の隊員だった。
「わし、王都を発つことになったんじゃ」
これまでの礼を述べたティンクルスに、優しげな隊員は少し寂しげな顔をし、落ち着いた隊員は「また、戻ってくるんだろ?」と窺う。
「そうだ。ティンクの送別会をしようよ。俺の家……は、お母さんがちょっと具合悪いんだよね」
「奥さんのお母上かの?」
老魔術師が心配顔で首をかしげると、優しげな隊員がうなずく。
彼の妻やその母とは、結婚式で会っている。いや、その前に精霊が囚われていたネックレスを巡って、若い二人の結婚を取り持つために、母娘が住んでいた家をこっそり覗いたりもしたが。
これは一度見舞ってみようと、ティンクルスは心に留めた。
「俺の家だと、子供が多いからうるさいし場所もないな。ティンクの家に通ってる、女将の宿屋を借りたらどうだ?」
落ち着いた隊員は、どうやら子だくさんらしい。家でも静かに過ごしていそうなのに、何となく意外だ。
老魔術師が首をひねっている間に、送別会の話は進んでいく。
「じゃあ、ティンクの休日。次の光の日に!」
「おお、ありがとうのぅ」
送別会をしてくれるなんて、とても嬉しい。ティンクルスはほわほわ笑いながら、隊員二人と別れた。
*
「ティンクとクロードの旅立ちを祝って、乾杯!」
「かっ、乾杯っ」
相変わらず、老魔術師はみなから一息遅れてコップを掲げる。ちびちびと舐めるように酒を啜ると、「みな、今日はありがとうのぅ」とちょっと照れた風に笑った。
今日は光の日。老魔術師の送別会だ。
優しげな隊員とその妻、落ち着いた感じの隊員におっちょこちょいな隊員。彼が誘ったのだろう、今日も黒のローブを羽織った、魔法使いの娘も一緒だ。
娘の家の近く、自由市場の裏手にある神殿の神官も、そこで育てられている子供たちもいる。その中に、一緒に劇場へ行った少年たちの顔もあった。彼らも神殿の子供だったようだ。
元女将と宿屋の家族。顔見知りになった店の者たち。向かいにある薬屋の主人と、この冬は老魔術師が作った魔法薬のおかげで助かったという人々。
「こんなに大勢になっちゃったから、宿屋を借りて良かったよ」
「ティンクはずいぶん顔が広いんだな」
「いや、わしも知らない人が……」
くるりと見渡すと、見知らぬ男が魔法薬の礼を述べながらコップを掲げる。すると、あちこちから感謝の声が上がり、再び乾杯になる。神殿の子供からも、お礼だと言って小さな花束をもらった。
ティンクルスはちょっとばかり感激し、じわっと涙が出た。
送別会では、子供たちが劇を披露した。少年たちが観た『勇者レイガスと囚われの姫』だ。
一番の客であるはずの老魔術師が、魔法で魔物の影や光を出してやったりもした。みなが盛り上がったし、ティンクルスも楽しかった。
「俺の剣をお前に捧げる! 結婚してくれ!」
なぜだか、おっちょこちょいな隊員の求婚まであった。どうやらまだ、娘が承諾していないようだ。
「お嬢さんは隊員さんのことが好きなんじゃろ? やはり隊員さんの捧げ方が変じゃから、ダメなのかの?」
「なっ」
「どっ、どこが変なんだ!?」
真っ赤に染まった娘の横で、隊員が勢いこむ。老魔術師は懇切丁寧に、剣の捧げ方を教える。
「これで完璧じゃ」
満足げにうなずく老魔術師。再び求婚するおっちょこちょいな隊員。ジッと娘の返事を待つ人々。
「だっ、だからそうじゃなくて……人前で求婚なんてしないでよ!」
娘の大声に、ティンクルスの体が、ぴょん、と跳ねた。
「今日はとても楽しかった。ありがとうのぅ」
昼から始まった送別会は、夕方でお開きになった。老魔術師はクロードと、隊員たちと、心地よく笑いながら夕焼けに染まる大通りを歩く。
「ところでみな、家がこっちにあるのかの?」
「いや、みんなで風呂に行くんだ」
中央街や貴族街では、それぞれ家に風呂がある。が、庶民街には公衆浴場があり、人々はそこを利用する。
休日は仕事を終えた者たちが来る前の、広々とした風呂に入るのが、ちょっとした贅沢なのだという。
「わしも、行くっ」
初めての公衆浴場に、老魔術師は小さめの拳をぐっと握った。
のそのそ、もたもた。
元々運動神経もなく、最近になって、ようやく身のまわりのことをするようになったティンクルスの、動きはとても遅い。脱衣所にはクロードと二人。隊員たちはすでに浴場だ。
「ティンク、タオルを腰に巻くんだ」
「ほぅ、そうかの」
なぜだろうと首をかしげつつも、クロードに倣ってタオルを巻く。
王宮では当然のように侍従に洗われ、今も手が届かないために背中を友に洗ってもらっている彼は、いろいろと、いろいろと知らないことが多いのだ。
「ふぉぉぉ……」
タイル張りの洗い場に、湯気の立った大きな大きな湯船。王宮の風呂場よりさらに広い。
「ティンク、滑らないように気を」
「ふぉっ」
第一歩目にして足を滑らせ、クロードに助けられた。
「ふぅ」
湯船に肩までとっくりと浸かり、風呂好きな老魔術師はご満悦だ。
途中、おっちょこちょいな隊員が泳ぎだし、さも迷惑そうな顔になったクロードが沈め、落ち着いた隊員が止めに入る。慌てたティンクルスも足を滑らせ湯船に沈み、優しげな隊員に助けられる。
という、ちょっとした騒ぎもあった。
おっちょこちょいな隊員が盛大にむせながら、ギロリとクロードを睨む。そのクロードはというと、ひたすら老魔術師を心配している。
「こういうのが、裸の付き合いっていうんじゃのぅ」
少々むせつつも楽しげに笑うと、優しげな隊員が「ちょっと違うと思うけど」とぬるい笑みを浮かべていた。
空が薄暗く、街の魔光灯が点き始めた頃。ティンクルスはクロードとともに、アーチ橋にいた。
見渡せば、大通りを照らす光がまっすぐに伸び、家々からはほのかな明かりが漏れている。王宮を向けば、時計塔がひときわ明るく浮かんでいる。
しばらく見ることはないだろう光景を、静かに眺める。
「王宮も好きじゃが、王都も楽しかったのぅ」
「離れるのが寂しいか?」
「……いや。わし、旅も楽しみじゃ。クロードよ、これからもよろしく頼むのぅ」
五十年来の友を見つめ、ティンクルスはほんわりと笑った。
王都編 ―完―




