古代神殿と女神像
天窓から射した幾筋もの光が、透けてきらめく黒の女神像を、肌にうろこを持った勇ましい戦士の壁画を、ひっそりと照らす、古代神殿。
ティンクルスはここに入るといつも落ち着かない。壁に彫られた竜人語を解読するために、何年も通っていたにも関わらず、だ。
「嫌な像だな」
女神像に目を向けたクロードが、フンッと鼻を鳴らした。
そうなのだ。あの像が、ティンクルスを落ち着かない気分にさせるのだ。
女神像からは魔力が感じられる。魔物らしき魔力だ。何らかの魔物の体で作られているのだろう。精霊であるクロードが嫌うのも、当然かもしれない。
像には文様も刻まれている。これが何なのか、老魔術師はついに解読できなかった。竜人語を全て読み解いても、文様に関する記述は一切なかったのだ。
この女神像は、老魔術師が見つけた『魔石と特殊な文字――魔術文字と呼んでいる』を使う方法とは別の、『魔物の体と謎の文様』を用いた、いわば魔道具なのだろう。
ティンクルスとしては知りたいと思う気持ちもあるし、好ましくない魔力のために使いたくないという感情も湧く。
そしてクロード曰く、女神像には何かがいるそうだ。かすかな気配を感じるらしい。だが、像の魔力に邪魔され、それが何かはわからない。
大精霊なのか、それとも、まったく別のものなのか。
ティンクルスは女神像に近づき、その顔を見上げた。つるりとした頬の、美しい女性だ。この像を見ると、いつも首をかしげてしまう。
(うろこを持つ竜人の女神なのに、なぜ人の姿なんじゃろ?)
大精霊は精霊と同じく、姿を持たないと伝わっている。竜人は人を支配していたとも聞く。その彼らが女神を象ったなら、うろこのある女性になるはず。
ここまでを考え、ティンクルスは首をふった。今は大精霊のことを調べなければ。
「クロードよ。やはり女神像にいる何かが大精霊かどうか、わからんかの?」
「わからない」
眉間にシワを寄せたクロードが、気に入らないのだろう、拳でドンと像を叩いた。
「こっ、これクロード、これは一応国の大切な」
――カラン
「ふぉっ!?」
音のしたほう、女神像の後ろ側をひょいと覗いたティンクルスは、思わず奇声を上げた。灰白色の床に、キラリときらめく黒の欠片が転がっている。それはどう見ても像の一部だ。
古代神殿の全てが、この国に魔術を齎してくれた大切な宝。好ましくない魔力であっても、女神像は竜人が残した貴重な遺跡だ。魔力を感じない人々にとっては美しい女神、大精霊と重ね合わせて祈る者もいる。
王に怒られるかも……ティンクルスののどが、ゴクリと音を立てる。ともかく拾おうと一歩踏みだしたとき。
女神像の胸の辺りがゆらりと揺らぎ、赤く光りだした。それは徐々に黄色く、緑から青、藍色へ、また赤へ。七色に揺らめき輝いている。
そして感じた大きすぎる力、くらりと揺れた頭に響く、静かで温かな声。
――囚われている精霊たちを解放してほしい
「ティンク!」
老魔術師は一瞬、気を失ったらしい。気がつけば、クロードに抱えられていた。
クロードに確認すると、先ほど感じた力は確かに大精霊のもので、昨夜二人を包んだ力でもあった。
大精霊は精霊たちが囚われていると言った。これは千年前、精霊の数が急に減ったことと関係があるのか。その彼らが、今もまだ囚われているのか。もしかすると、女神像にいた大精霊自身も囚われていたのではないか。
そして……
「クロード、もう大精霊はいないんじゃの?」
「ああ、もう何の気配もない。存在も、感じないな」
大精霊は消えてしまった。
ティンクルスとクロードは、まだ古代神殿にいた。大精霊のことは王と筆頭魔術師に報告しなければならない。これとは別に、気になることがあるのだ。
手のひらに乗っているのは、先ほど落ちてしまった女神像の欠片だ。
「お、ここだな」
「どれ?」
クロードが指した場所を、ティンクルスはつま先立って覗き見た。女神は葉のかんむりを被っている。その葉の一枚に削られた跡が残っている。
実は、この女神像は簡単に傷つけられる代物ではない。騎士のように立派な青年になったクロードであっても、叩いたくらいで壊れたりはしないのだ。これを削れるのは、聖獣である竜の牙や爪くらいのもの。
つまり何者かの仕業ということだ。目立たないよう像の後ろ側を削り、よくよく見れば、床に粉らしき物も落ちていた。
「まだ迷信を信じる者がいるのかのぅ……」
かつては、女神像を削ってその粉を飲むと、長生きできるとか美しくなれるとか何とか、王族も好んで飲んだという。けれど実際は、像の魔力のせいだろう、病に罹ってしまうとわかり、こうした習慣はなくなった。
だが、まだ誰かが飲んでいるとしたら。このまま捨て置くわけにもいかない。
眉を下げたティンクルスに、クロードは「自業自得だな。まあ、ティンクが気になるなら調べればいいさ」とうなずいた。
精霊は契約者以外の人間を、あまり気にかけないものなのだ。
*
「精霊たちを解放、ですか」
夜になると、王と筆頭魔術師がやってきて、ティンクルスは古代神殿での話をして聞かせた。
王は目をつむり、考えこんでいる様子だ。筆頭魔術師の肩が下がっているのは、魔物を減らす精霊を、生みだしてくれる大精霊が消えてしまったからだろう。
ティンクルスは、そんな二人を見つめながら話しだす。
今、大精霊が現れたのは、女神像が削られてゆき、囚われていた魔術が多少なりとも緩んだからではないか。それでも像から出るために力を使い果たしたのか、それとも寿命だったのか、存在は消えてしまった。
その大精霊が最後にしたのは、わざわざ老魔術師を生き返らせ、精霊たちの解放を願うことだった。これは、きっと重要なことなのだ。
大精霊にとって重要なこととは、精霊を生みだす、だろう。それには新たな大精霊が要る。だから精霊たちの解放は、大精霊が甦る、または、新たな大精霊の出現につながるかもしれない。
なにより、囚われている精霊たちを解放してあげたい――ティンクルスはそう思った。
「じゃからの、わし、精霊たちを解放するための旅に出ようと思うんじゃ!」
老魔術師を若返らせたのも、きっと解放の旅に耐えうる体を与えるためだ。
ぐっと小さめの拳を握ったティンクルスを、王と筆頭魔術師がポカンとした顔で眺めた。
その顔は、ものすごく運動神経が鈍いのに大丈夫なのか、と言っている。王宮からほとんど出たこともないのに旅なんてできるのか、と言っている。そもそも王族生まれで身のまわりのこともできないクセに、外で暮らしていけるのか、と言っている。
これは誰が口にしたのでもなく、老魔術師の見解だ。
「俺がついてるから大丈夫だ。俺を人間の姿にしたのも、きっとティンクを助けるためだろ。この姿ならしゃべっても変じゃないし、どこでも一緒にいられるからな」
ふふん、と得意げな顔をしたクロードに、王がニヤリと笑う。
「そうですか、クロード殿が、ね。では、試しに女神像を削った者を見つけてもらいましょう。これくらいできなければ、叔父上を助けることはできません」
「ふん。そんなの簡単だ」
王とクロードの、視線がバチリとぶつかった。
その光景は、もう四十年も前になるか、講義を抜けだして遊びにきた幼き日の王と、犬だったクロードのやり取りによく似ている。おやつを奪い合ったり、ティンクルスの膝の上を取り合ったり、仲良くじゃれ合っていたものだ。
(何だか懐かしいのぅ)
筆頭魔術師がいささか慌てている横で、老魔術師はほわほわと、のん気な顔で笑っていた。
王と筆頭魔術師が帰ると、ティンクルスとクロードは、女神像を削った者をどうやって見つけるかを話し合った。
「古代神殿は騎士たちが守ってる。なら騎士がやったか、誰かが騎士に頼んで忍びこんでるか、どっちかだ。騎士たちを締め上げればすぐにわかる」
「……もうちょっと、穏やかにいかんか?」
クロードの眉がキリリと上がったのに対し、ティンクルスの眉はへなっと下がる。
この件はクロードの言うとおり、騎士が関わっているのだろう。彼らを問い詰めれば、犯人は見つかると思う。しかし。
女神像を削ることのできる、竜の牙や爪はとても希少で高価な物だ。となると、持っているのは王族や身分の高い貴族。加担してしまった騎士は、断ることができなかったに違いない。
騎士を探し回っている間に、このことを知った首謀者が証拠を消し、騎士に全てを押しつける可能性もある。
それに今、二人は老魔術師と守護精霊ではなく、身元の知れぬ不審者だ。王宮をうろうろするのはよろしくない。
「じゃからの、そっと見つけたほうがいいと思うんじゃ」
「それもそうだな」
ティンクルスの提案を、クロードはアッサリと受け入れた。騎士たちを締め上げることに、特にこだわりはなかったらしい。
老魔術師は五十年来の友が物騒じゃなくて良かったと、ちょっと安心した。