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別れと旅立ち

 タライに入った液体に手をかざし、淡い金色の光を満遍なく当てていく。みなの風邪が治るようにと、老魔術師は心から祈る。


「よし、いいかのぅ」

「じゃあ、壺に移すぞ。漏斗じょうごを押さえててくれ」

 クロードが魔法薬のなみなみと入ったタライを、軽々と持ち上げた。ティンクルスは漏斗をしっかり両手でつかむ。


「ん? 移さないのかの?」

「大丈夫か? ちゃんと押さえてられるか?」

「……大丈夫、じゃ」

 ものすごく心配そうな顔を向けてくるクロードに、わしって……と、老魔術師の眉がへなっと下がった。


 裏庭での薬作りを無事終えて、居間へ戻ると元女将が、「寒かったでしょう」と温かい紅茶を淹れる。

「ありがとうのぅ」

 にっこり笑ったティンクルスではあるが、部屋を見まわすと小さな吐息がこぼれた。

 いつもそばに控えてくれているはずの、近頃は同じテーブルにも着いてくれるようになった、老侍従の姿がないのだ。

 少し前、咳をしていた彼は今、実家で療養している。


 この一月、王都では風邪が流行っていた。

 魔法院は一時研究を中断し、魔法薬を作っている。この時期少ない薬草を採りに、魔法使いが騎士とともに派遣されてもいる。中央街の魔法屋にも、魔法薬を安値で売るよう命が下った。

 老魔術師がいち早く王宮へ手紙を出し、王が素早く動いたためだろうか。今年は数年前ほどひどい事態にはならないだろうという見通しが立ち、曇っていた人々の表情に少し明るさが戻ってきたところだ。

 だが、老侍従はいまだ回復していない。


 ティンクルスは魔法薬を片手に、薬作りをしない日は毎日せっせと貴族街へ、老侍従の実家へと通っている。

 祈りをこめて作った魔法薬のおかげか。王宮にいたならできなかっただろう、老魔術師の見舞いのためか。もちろん家族の看病の甲斐もあっただろう。老侍従の風邪は治ったのだ。

 ただ、長く寝付いていたせいで、ずいぶんと痩せてしまった。以前のように起き上がることができなくなった。



 初めて老侍従を見舞ったとき。

『ティンク様、申し訳ございません。私に構わず、精霊を解放する旅へ……』

 この頃はまだ、熱のあった彼は、少々呼吸を乱しながらもこう述べた。ティンクルスはすぐさま首をふる。


 元々、王都を旅立つことになったら、老侍従は街に残るだろうと考えていた。今までずっと仕えてくれたのだから、これからは家族とともに過ごしてほしいとも思っていた。

 けれど、こんな老侍従を置いて旅立つことはできない。それに。


(わし、クロードのときは何もしてやれなかった……)

 もう五十年も前、老いた侍従クロードが体を壊して王宮を辞したとき。王子だったティンクルスは、魔力も目覚めたばかりの一人ぼっちだった少年は、どうすることもできなかった。亡くなったと聞いて、遺髪を届けてもらうのが精一杯だった。

 だが、今なら薬を作ることもできる。こうして見舞うこともできる。


『わし、寒がりじゃから、旅は春になってから行くことにしたんじゃ』

 老魔術師がほんわりと笑い、クロードも当然といった顔でうなずく。

 老侍従の目に、涙が浮かんだ。


 何度目かの見舞いでは。

『まあ、ロイクもだいぶ歳だからな。治りが遅くても仕方ないさ』

 クロードがふふんと笑うと、少々落ち窪んでしまった老侍従の目が、ジトリと据わる。ティンクルスはいつものごとく慌ててたしなめる。


 元々クロードは、遠慮がないというか、ちょっと口が悪いのだと思う。

 守護精霊は契約者が亡くなると、魂を取りこむこともある――糧になるのではなく、精霊の中でともに生き続けるのだと、今は老魔術師も知っている。つまり、大切な人間との別れがない。

 長い長い年月を生きる精霊は、死生観も違うのだろうと思う。だが。


『悔しかったら早く元気になれ』

 ふんっと鼻を鳴らしたクロードが珍しくもらした本音に、老魔術師の目頭はじわっと熱くなり、しかし涙をぐっとこらえた。


 一度目の生を終えるとき、老侍従はときおり沈うつな顔を見せることはあったものの、いつも静かにほほ笑んでいた。伏せっていたティンクルスは、彼の笑顔を見れば心穏やかになったものだ。

 だから、もし、もしその時が訪れたとしても、泣かないと決めたのだ。


「……よし! 明日はロイクのお見舞いじゃから、わし、スープでも作って持っていこうかのっ」

 紅茶を飲み干しカップを置くと、老魔術師は何を作ればいいだろうと、元女将を窺う。

「そうですねぇ。ロイクさんは肉が好きだから、それで出汁を取って、パンを浸しても良いかしらねぇ……」

「あいつ、ティンクが作った物なら、たぶん何でも食べるぞ」

 クロードがニヤリと笑うと、元女将もそのとおりだと笑う。ティンクルスも、頬をゆるめてうなずいた。





 あれから、一月、また一月と日々は過ぎていた。まだ風は冷たく、空もどんよりと曇っている日が多い。

 が、日中は少し暖かく感じるときもあるか。ティンクルスがせっせと魔法薬を作る必要もなくなり、しかし老侍従への見舞いは続いている。


「いつもすまんのぅ」

「いえ。私も侍従長には世話になりましたので」

 中央街のこの家へ、定期的に訪れる騎士が戸口でにこりと笑う。貴族街へ行く際は、彼が付き添うようになっていた。


 老魔術師付の騎士になって十五年くらいか。この騎士と老侍従の付き合いも十五年。

 見舞いに行きたいという気持ちは本当だろう。今は地方の商家の息子という身分の、ティンクルスが見舞いやすいように、との配慮もあるのだろう。

 そして、少々気落ちしている彼のそばに、いてくれるのだと思う。

 ありがたいことだ。老魔術師はほほ笑む。


 風邪がひどく流行ることもなく、冬も終わりに近づき、人々の表情も明るくなった中央街から、いつも静かな貴族街へ。ここ数ヶ月で通い慣れた道を歩いていくと、老侍従の実家がある。

 すっかり顔見知りになった、邸の使用人に案内されて廊下を歩く。


「今日も同じようなご様子ですか?」

 騎士が問うと、使用人は顔を陰らせうなずいた。


 ここしばらく、老侍従はあまり目を覚まさなくなった。すっかり細くなり、小柄なティンクルスより小さくなったとも感じる。

 いつから穏やかな声を聞いていないだろう。どれくらい優しげな笑みを見ていないだろう。

(もう一度、笑って話をしたいのぅ……)

 じわりと、湧いてきそうな涙を飲みこみ、ぐっと小さめの拳を作る。今日も老侍従は寝ているかもしれない。けれど起きているかもしれない。

 老魔術師はにっこりとした笑みを浮かべ、寝室へと入った。



「ロイク、ロイクよ。わしじゃ……」

 そっとささやくも、老侍従はただただ寝息を立てている。その顔はとても穏やかに見える。

(やはり、寝かせておいたほうが良いんじゃろうの……)

 そう思いつつも名残惜しく、せめて顔だけでもよく見ておこうと腰を屈めたとき。


 するり。

 シャツのどこかに引っかかっていたのか。えり元から金の鎖がこぼれ、先にぶら下がっている小指の先ほどの竜の牙が、老侍従の胸に当たった。


「ロ、ロイク……」

 老侍従のまぶたが開いていく。ぼうっとしていた風な瞳が定まると、かすれた声が「ティンク様」とつぶやく。

「うむ。わしじゃぞ」

「それは、陛下から賜られた、竜の牙でございますね」

 ゆらりと揺れたネックレスを眺めながら、老侍従はゆっくりと言葉をつなげ、穏やかにほほ笑む。


(ロイク、これは……)

 老魔術師は金の持ち手のついた、竜の牙をぎゅっと握った。

 このネックレスは、若き日のティンクルスが竜人語の解読に成功したとき、父王からもらった唯一の贈物――

 いや、違うのだ。本当はそうじゃないのだ。


 古代神殿にこもってばかりの魔法使い王子が、頬を上気させてこのことを報告すると、父王は「ティンクルスは変わり者だな」と素っ気なく笑った。

 この頃はまだ、竜人語はわかったものの魔術には着手していなかった。何の実績もなかった。だから仕方ないと思う。兄王が満足げにうなずいてくれただけでも、十分だと思う。

 それでも、やはりティンクルスは寂しいと感じた。

 それから少しして、父王から贈物が届いた。とても嬉しかった。本当に嬉しかった。


 世間知らずな王子は、しばらくあとになって気づいた。

 竜の牙や爪はとても希少で高価な物だ。しかし一国の王なら、もっと大きな物を用意できる。それに父王は、派手な品が好きでもあった。

 だから――このネックレスを贈ってくれたのは、老侍従なのだ。


「ティンク様は、よく、がんばられました。陛下もさぞ、お喜びでございましょう」

 若返っているティンクルスを見て、昔の記憶と混同しているのだろうか。それでも声を聞くことができた。話をすることができる。

 小さな、けれど美しい持ち手のついた竜の牙を、よく見えるように摘んでやる。


「うむ。これはわしの、とっても大切な、とっても嬉しい宝物じゃ」

 ありがとう。精一杯の気持ちをこめて、老魔術師が笑う。

 ロイクも、嬉しそうに笑った。



 ――老侍従が亡くなったのは、この日の夜のことだった。


 家族が見守る中、彼はもう一度、目を覚ましたそうだ。そして「お祖父様、約束は果たしましたよ」とつぶやいた。

 彼の祖父、老いた侍従クロードとの約束とは何だったのか。それは誰にもわからない。

 だが、もしかすると、ティンク様を頼む――こんな事だったのかもしれない。


 まだ風の冷たい春先。老魔術師は長い年月を仕えてくれた老侍従、しっかり者の弟のようにも思っていたロイクを、静かに見送った。

 家族に守られながら、ひつぎに眠る彼の顔は、とても穏やかに見えた。幸せそうに見えた。


 胸のポケットに手を当てる。そこには老いた侍従クロードの遺髪とともに、老侍従ロイクのものも入っている。

 空を見上げれば、二人が見守ってくれていると思える。


「みなで一緒に、王都を旅立とうのぅ」

 霞がかる青空の、晴れた日。ティンクルスは王都を発った。



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