精霊の声と姫のつぶやき
「ここは、姫の部屋かの?」
王宮の一室に案内されたティンクルスは、部屋をくるりと見まわした。テーブルやソファなど、必要な物は置いてあるようだが、若い女性らしい私物がない。
「いえ。この部屋は姫様がこちらの宮殿にいらっしゃった際、使うようにと、陛下がご用意された控えの間です」
騎士の答えに老魔術師はうなずく。おそらく姫は、母である姪とともに過ごした離れの宮殿で、今もひっそりと暮らしているのだろう。きっと、そのほうが気楽なのだろうとも思う。
「ティンク、早くしたほうがいいぞ」
「お、そうじゃの」
テーブルの上には、青年たちから贈られた品が並んでいる。みな、黒水晶に似た玉で飾られた、ネックレスや髪飾りだ。
そして、精霊が囚われている玉のついた、煌びやかな細身の剣。
(きっと古代神殿の壁画にあった、竜人の魔術武器に似せたんじゃの)
老魔術師が作ったのは、槍の一方に魔石をつけた魔術武器だ。魔石から放つ魔法で魔物を攻撃し、弱ったところを穂先で仕留める。
一方、竜人の剣から放たれた業火は街を焼き尽くし、雷は他国の王城を打ち砕き、剣は多くの人の命を奪った。
両者には、大きな違いが二つある。
一つは威力。これは『魔石と魔術文字』を使っている物と、『魔物の体と謎の文様』を用いた物の差なのだろう。
きっと竜人は、精霊が囚われている玉を、閉じこめた精霊の膨大な魔力を、武器にしたのだ。だから千年前、彼らはこの地の支配者だった。
もう一つは対峙する相手だ。今は魔物、千年前は人。
今、魔物は増えている。人々は魔物から身を守るために戦っている。だが、千年前はどうか。
もっと魔物は少なかったはずだ。竜人や人は、魔物の脅威に怯えることも、ずっと少なかった。だからこそ、彼らは争った。領土を奪い合った。竜人が姿を消したあとも、それは長く続いた。
もし、精霊を解放していった先で、大精霊が甦るか、新たな大精霊が出現するかし、精霊が増えて魔物が減ったなら――人々の争いは増えてしまうのだろうか。
ティンクルスは、ほぅ、と息をつく。
かといって、このままにしておいたら。魔物が増え続け、人は生きていけなくなる。歴史は繰り返すとも、人は同じ過ちを繰り返すとも言う。
(じゃが……)
繰り返さないことだって、できるはずなのだ。
うむっ、と気合を入れた老魔術師は、首にかけていた細い鎖をするりと引きだした。小指の先ほどの、竜の牙のついた持ち手をつまむと玉を削る。
喜びに心弾けそうな風が、気配が現れ、宙を舞い踊る。
「のぅ、聞こえるかのぅ?」
ほんわりと笑ったティンクルスが、そっと声をかけたとき。
「ティンク、あそこに」
クロードの指したほう、部屋の隅から、かすかに別の気配を感じた。穏やかで優しい気配だ。
――もう、ここに囚われてる精霊はいないよ もっと遠くにいるよ
静かな声が頭に響いた。子供のようにも大人のようにも聞こえる声だ。
そして、喜びの気配とともに、優しい気配も去っていった。
「さっきのは、一番最初に解放した精霊だな」
「ほぅ、そうかの」
もっと早く言いに来い、とクロードが悪態をついた。その横で、ティンクルスはニコニコ笑う。
元気そうで良かった。解放された友達を、迎えに来たのだとも思った。これからは自由にこの大地を、空を、仲良く一緒に漂うのかもしれない。
そして、精霊は『もうここにはいない』と教えてくれた。こことは、王都を指しているのだろうか。とすると。
ついに王都を旅立つ時が来たようだ。先ほどの精霊たちのように、老魔術師もクロードと一緒にこの地を駆けめぐるのだ。
「クロードよ。がんばろうのぅ」
ひょいと見上げた友を見て、にっこりと笑ったとき。
「ティンクルス様。人の気配がします」
入口にいた騎士が鋭くささやく。
「ふぉっ、おっ、お?」
クロードが素早くティンクルスを抱きかかえる。
三人の姿は、壁の中に消えた。
王宮には自分の知らない仕掛けが、まだまだたくさんあるのだと、老魔術師は改めて実感することとなった。
*
「姫と騎士が一人、だな」
「これ、クロード。若いお嬢さんの部屋を覗いちゃダメじゃ」
薄暗い闇の中、ティンクルスはクロードと、ひそひそ声を交わす。後ろにいる騎士から、かすかな笑いが聞こえたようでもある。
老魔術師がいるのは、いまだ姫の控えの間、隠し部屋の中だ。
「あの姫、元気がないな」
そう言われると、ティンクルスは広間で震えていた姫の様子を思いだし、気になってしまう。
「……ちょ、とだけ」
誰が咎めるわけでもないのに言い訳をしつつ、そぉっと、老魔術師は覗き穴に近づいた。
椅子に腰かけた姫は、テーブルの上に並ぶ贈物を眺めながら、沈んだ顔をしていた。唇からは溜息がこぼれる。
似た立場に立ったことのある老魔術師には、彼女の気持ちがわかるように思えた。
自分には友が現れてくれた。友が守り支えてくれた。だから姫にも、支えてくれる者が必要なのではないか。幸いにも、彼女にはこれから夫が……
(クロードが、みなダメじゃと言ってた……)
ティンクルスの眉がへなっと下がる。
姫の手が伸びた。髪飾りについていた、黒水晶より美しいとさえ見える魔宝玉をなでる。
「私は、嫁いでもよろしいですか?」
(……もしかして)
姫のつぶやきを聞き、魔宝玉を見、ハッとひらめくものがあった。老魔術師は入口に控えながらも、姫を心配そうに見つめている騎士の、瞳を見る。
違う、黒じゃない。ならば――
女性が嫁いでもいいかと聞く相手は、密かに想いながらも結ばれることのない恋人か、両親ではないかと思う。いや、恋人うんぬんは、いつだったか侍女の会話を小耳に挟んだ記憶から、思いついただけだが。
姫に想う相手がいるかどうかはわからないが、姫の母は亡くなっている。となると、残るは父だ。
姪は生涯、父のことを語らなかったと聞いている。だが、姫には何かを伝えていたかもしれない。
たとえば――父は黒水晶のように綺麗な『瞳』だった、とか。
魔宝玉が魔物の目玉であるように、玉が人を表しているとしたら、やはり瞳ではないかと思うのだ。
『黒水晶のごとき玉』が父だとすると、姫が妙な条件を出したのは、少しでも父とつながりを持ちたかったからではないか。
この話を聞いたなら、黒い瞳を持つ父が気づいてくれるかもしれない。名乗り出ることはできなくとも、誰かを通してそっと、どんな言葉でも良いから伝えてほしい。
それが『言葉を届けてくれる者』、父の言葉を届けてほしい、という意味なのではないか。
条件を出しつつ詳しく語らなかったのは、養父になる王に気兼ねしたのか。誰も触れない父のことを言い出せなかったのか。
ティンクルスの口から、小さな溜息が出た。姫の父が明らかになっていない原因の、一端は彼にあるのだ。
――十六年以上、前。
幾人かの者が集まり、兄王が子の父は誰かと、姪を問い正したときのこと。
『もし、もし子の父が兄上様方のお一人であったとしたら。父上様は、罪深き娘と息子をどうなさいますか?』
こう言って、姪は兄王を脅した。姪の顔には艶然とした笑みが浮かんでいた。だが……
彼女の重ねられた手は、色が変わるほどに、強く、強く、握られていた。
犬のクロードはティンクルスのそばで、そっと嘘だとつぶやく。つまり子の父は、姪の兄ではない。そして、もう一つ。
――ティンク叔父上様、どうか私の嘘を暴かないで。
姪は握った手と同じくらい、強く、強く、念じていたのだろう。彼女の心が伝わってきたと、クロードは教えてくれた。
ティンクルスは迷った。
真実を告げれば父親探しが始まる。未婚の王女に手を出し、かつ王女を迎える身分でも状況でもなかったら。
おそらく父は処刑される。産まれてくる子もどうなるかわからない。姪が口をつぐんでいるのだ。つまり、そういうことなのだ。
では、このまま嘘を吐き通したとしたら。
兄王の后妃たちは、どのように動くだろう。息子を疑い、それでも守ろうとするのか。これを利用し、他の王子を陥れようとするのか。きっと悪い状況を招く。
兄王なら、王族内での争いを避けるため、父親探しはしないはず。
真偽を知ろうと、兄王がこちらを見ている。
このとき、ティンクルスは初めて、兄王に嘘を吐いた――
老魔術師の嘘で、姫と父の命は助かったかもしれない。姪の望むとおりにもなったのだろう。が、父が誰かを知ることもできなくなった。
兄王も、娘と息子が、と思えば人知れず、心を痛めていたかもしれない。一見、冷徹ではあったが、弱さを見せない人だったのだと思う。だってクロードが嫌わなかったのだ。きっと温かい心を持っていたはずなのだ。
もっと他にやりようはなかったのか。
「仕方ないさ」
クロードのささやきが、ティンクルスをなぐさめる。
「そう、じゃのっ」
後悔していても始まらないのだ。しょんぼりと丸まっていた背を、ぐっと伸ばしたとき。
「そろそろ、お戻りになりませんと……」
入口に控えていた騎士が、気遣うような声をかけた。顔を上げた姫の、表情は弱々しい。
見つめ合う二人。互いの距離は遠いのに、とても親密な雰囲気をかもし出しているような。何だか、時間がゆっくりと流れているような。
(もしや、この二人……)
「クッ、クロードよ。この二人、お互いに好きなんじゃないのかのっ?」
「ああ、そんな感じだな」
「ほっ、本当かのっ?」
「ティンクルス様、もう少しお声を小さく」
「おっ、すまん」
ひそひそひそひそ言葉を交わすと、ティンクルスは気合の入った顔で大きくうなずく。そして、ぐぐぐっと小さめの拳を力いっぱい握った。




