工房と女主人
「ここって……魔術薬師の工房ですよね」
青空の下、今日も黒のローブを羽織った娘が、真新しい灰白色の建物をぐるりと眺めている。
「あのっ、ここで友達が、あの孤児院にいた子が何人か働いてて。だから中を見てみたかったんです! でもっ、私、魔法を使えるんですけどっ」
彼女に落ち着きがないのは、ここがあまり足を向けることのない、中央街だからだろう。魔法使いなのに魔術薬師の工房に連れてこられるとは、思ってもいなかったのだろう。
先日の晩は暗くてよく見えなかっただろうが、二人が思いのほか、良家のお坊ちゃんと精悍な護衛だったせいも、あるかもしれない。今日はさらに、いかにも上品な老侍従もいる。
娘は今朝、アーチ橋で待ち合わせたとき、ティンクルスをマジマジと見つめてから慌てて頭を下げた。
クロードに目を移してはポーッと見とれた風な顔をしたあと、先日の『幽霊女』という無礼な発言を思いだしたのか、首をブルブルふってもいた。
工房の入口で、老侍従が家紋を見せると門番が敬礼した。
この工房では貴重な魔法薬を作っている。魔法薬を作るための、多くの魔道具がある。だから誰でも入れるわけではないのだ。
後ろをついて歩く娘は、老侍従とこの工房はどういう関係なのか、とか、もしかしてティンクルスの実家――現在の身分である地方の商家だ、が工房の出資者なのか、といったことを興奮気味に聞いてくる。
だが、老魔術師が用意していた言葉を言うより前、クロードが「気にするな」とバッサリ断ち切ったので、娘の頬は思いっきり膨れた。
「わ、すごい! これ全部、魔法薬! あ、あそこにいるのが友達です!」
作業場に入ると、娘はなおさら落ち着かない。が、ティンクルスも浮き浮きとして落ち着かない。
薬草の状態を確認しているのだろう。魔道具を手に、真剣な顔をした青年。監督している魔法使いの言葉を、聞き逃さないといった感じで何度もうなずいている娘。
台に腰かけながら魔道具を使う男性は、おそらく足が不自由なのだろう。その作業が終わると、湯気の立った釜を運ぶのは、力仕事を担ってくれる男たち。
ここで働く者の多くは孤児であり、ケガをして以前の仕事を続けられなくなった人々だ。みな、一生懸命働いている。
(この工房ができて、本当に良かった……)
みなのがんばりを見ていると、涙腺のゆるい瞳に、じわっと涙が浮く。
それでも、まだまだこれからだ。まだ工房は小さい。仕事がなくて困っている者の全てに、職を与えられるわけではない。ここで作った魔法薬は今、魔物の脅威に晒されることのある、農村へ送られている。庶民街には届かないのだ。
これから魔術薬師は増え、魔法薬は誰でも買えるようになる。街の魔法使いは医療に専念することができ、より多くの人々が救われる。
いつか、そんな……
「ティンク様、そろそろ」
老侍従にそっと声をかけられると、未来に思いを馳せ、ほわっとしていたティンクルスはハッと我に返った。
今日の目的は、実はこの作業場ではないのだ。工房の奥にある一室、そこが目指す場所だ。
くるりと見まわすと、娘は声も高らかに、友達と仲良くしゃべっている。
「おい、行くぞ!」
クロードのぶっきらぼうな声が響いた。どうも、娘が老魔術師を驚かせてしまったことが、気に入らないらしい。けれど競り合うことを除けば、王と似たような扱いでもある。
(……案外、クロードはお嬢さんと気が合うのかのぅ?)
「合わない」
ティンクルスの心の声を、すぐさまクロードが否定した。
*
「こちらが、ロイク様のお手紙にあった娘さんですね。魔法使いになって子供たちを助けたいとか。いつか庶民街に魔法屋を開くつもりかしら?」
「はっ、はい! 庶民街の子たちに魔法薬を作ってあげたいんです!」
ゆったりとソファに座る女性が、優しげにほほ笑む。それでいて意思の強そうな目を向けられた娘は、緊張しているのか、表情を強張らせながらも必死な様子で答えている。
この女性は貴族であり、何人もの子をもうけた今もなお、魔法使いだ。正式な役職ではないが、この工房の女主人と言っていいだろう。
この国では、侍女や礼儀作法を教える教師はいるが、貴族女性が働き続けるのは一般的なことではない。これは魔法使いであっても同じ。女性も魔法院で学ぶことはできるが、その先の受け皿はない。
嫁げば家を切り盛りする役目もあるだろう。かつては、魔法使いも魔物討伐に赴かなければならなかった。女は役に立たない――戦えないというより、移動中や宿での配慮、必要以上に守らなければという騎士の意識など、とかく面倒というのが実情だろうが、こうした風潮もあった。
そんな中。
『ティンクルス様。私は魔法使いとして、この力を民のために使いたいのでございます』
もう何年も前になるが、彼女は偉大なる魔術師に拝謁し、静かな、しかし強い目を向けこう述べた。
以来、彼女はこの工房の女主人として、魔術薬師の面倒を見、魔法使いとして働きたいという貴族女性を預かっている。
「あなたもいつかは結婚するでしょう。子ができれば魔力を失ってしまうかもしれない。そのときは、どうするつもりかしら?」
「そ、そうなったら私も魔術薬師になりたいです! ここで教えてもらえれば、薬の作り方は知ってるわけだし……まだ街に魔術薬師はいないけど、魔法屋だって続けられるかもしれないし……」
自分の気持ちをどう伝えればいいか、悩んでいるらしい娘が口ごもった。その姿を、女主人が静かに見据える。
きっと彼女は、娘に魔法を教えるべきかどうか、見定めているのだ。何だかティンクルスまでドキドキしてくる。
「わかりました。あなたは魔法を使いながら、まず他の魔術薬師と一緒に勉強なさい」
「ほっ、本当ですか! ありがとうございます!」
よほど嬉しかったのだろう、娘の頬がパッと上気した。老魔術師の頬も、同じく色づく。
みなに挨拶をするため、他の者に連れられて部屋を出ていく娘を、ティンクルスはほわほわ笑って見送った。
「お手紙にあった、もう一つのことですが」
女主人は姿勢を正すと、老侍従を見た。
実は今日、この工房に来たのは、娘を紹介するだけが目的ではないのだ。
先日――幽霊の正体を確認しに行った晩のこと。孤児院で話を聞いたティンクルスは、娘に関していくつかの疑問を持った。そこでこの数日、ちょっとばかり隊員を真似て、聞きこみというものをしていた。
まず、魔法使いを必要としているはずの警備隊が、なぜ娘を断ったのか。これは優しげな隊員が答えてくれた。
『初めはね、誰でもいいから声かけてみろって上から言われてたんだ。多少力不足でも魔道具があるし、でも高いからあんまり使いたくないし、だからいないよりはマシだって』
『ふむ……わしも隊員さんに声をかけられたとき、魔法の腕なんて聞かれなかったのぅ』
『ティンクはすごかったけどね。で、それが今度は男にしろって。女の場合は上を通せって言うんだ』
『理由は?』
『何も聞いてない。でもね、その前に貴族みたいな男が隊舎に来てたんだ。何か関係あると思うよ』
次は娘を断ったという、魔法屋を回ってみた。
中央街の魔法屋は、「うちは女を取らない」だの、「人は足りてる」だのと素っ気なく、早く帰ってほしいような態度でもあった。
だが、庶民街にある数少ない魔法屋に寄ったとき。
『あの娘には関わらないほうがいい。何だか貴族に目をつけられてるみたいだぞ』
顔を曇らせた主人が、そっと教えてくれた。
娘が弟子入りを断られていたのは、もちろん店の都合もあっただろう。が、貴族が動いていたせいでもあったわけだ。
そこでティンクルスは、この工房の女主人への手紙に、情報を求める旨を加えた。
「あの娘さんを養女にしたいという家ですが、特におかしな話は存じません。ですが」
この貴族を辿っていくと少し前、幽閉された女がいるという。何があったのか、女主人にも詳しいことはわからないそうだが、女は貴族女性を魔法で傷つけたらしい。つまり魔法使いだ。その女は十六歳、背格好も娘に似ている。
「身代わり……」
ティンクルスがつぶやくと、女主人はうなずいた。
「おそらく二人を入れ替え、王都では顔を知られているので、どこか遠くの街へでも逃がすつもりではないでしょうか?」
「むぅぅ」
老魔術師は厳しい顔になって腕を組む。
入れ替えられた娘は、おそらく無事では済まないだろう。幽閉された女は魔法使い、そして娘も魔法使いだ。魔力を多く持つ者の体には、魔物と同じく、死後もしばらく魔力が残る。
罪を犯して幽閉された女だ。もし亡くなったなら、たとえば――悲観して魔法の炎で我が身を焼いた、などとなれば顔の判別がつかず、魔力の有無を調べられるはずだ。
つまり娘は――これからしばらく、ティンクルスは女主人と話しこんだ。
昼もだいぶ過ぎた頃、ようやく工房を去ろうとした老魔術師に、女主人の温かな眼差しが向いた。
「あなたは、ティンクルス様とロイク様の、恩人に当たる方のお孫さんだそうですね」
「そう、です」
これは貴族である老侍従が、地方から出てきた商家の息子の、面倒を見るための方便だ。他にも、いろいろと、いろいろと、老侍従がそばにいられるよう、話は用意されている。
「私は一度しか、ティンクルス様にお会いしたことはありませんが、仕草や笑い方がよく似ています。何だか懐かしいわ……」
「ふぐっ」
ティンクルスの口から、変な声が出た。




