第1章 第1話
百年の歴史を誇る名門・北ヶ丘高等学校の敷地は広い。
大きな運動場を望む二階建てプレハブ部室棟、その二階奥に文芸部はあった。
バラの花がたくさん描かれたピンクの画用紙に大きく『お帰りなさいっ・文芸部へ』と書かれた貼り紙。微妙に近づきにくいその扉が開くと中には大きな長テーブルがあって、栗色のショートヘアに赤い眼鏡の地味めな女生徒がノートパソコンから顔を上げる。
「あれ~っ、もしかして新入部員?」
「残念。彼女はお茶を飲みに来ただけなんだ。だよねっ?」
これまでの経緯を説明しながら腕まくりを元に戻した神湯先輩はわたしのために椅子を引いてくれる。威風堂々と現れた彼女だけど、綺麗で優しくって、かっこいい……
って、見とれている場合じゃないわ。自己紹介くらいしないと。
「わたし、一年の星乃桜子って言います。ちょっとだけお邪魔します。さっきはしつこい勧誘で困っていたところを、か、かみ、ゆ先輩に助けて貰って、その……」
「神湯って言いにくいだろ、理子でいいぞ」
「あっ、はい、理子先輩。ありがとうございましたっ!」
椅子に座ると部室を見回す。
シングルベッド並みに大きなテーブルにはノートパソコンが二台あって。
その向こうの壁には本棚や物置棚が並んで、棚の上には部員紹介が張られていた。
部長 二年 神湯理子
副部長 二年 朝賀久里須
部員はたったふたりだけなのかしら?
さっきから理子先輩は紅茶を入れながらわたしの顔をチラチラと見ている。
「わたしの顔、何か付いてますか?」
「あ、いや…… 目と鼻と口がついてる!」
「それ、無かったら妖怪です」
「そうね。ところで、その…… 「ほしの」の「の」の字って、野原の「野」なの?」
「いえ、乃木将軍の「乃」なんです。珍しいですよね」
と。
理子先輩は少し視線を彷徨わせ。
「た…… 確かに珍しいな。今のは、その、勧誘とかそんなんじゃないから安心してね。そうそう、さっきからパソコンの前で溜息ばかりついているのは副部長のアガサだ」
その言葉に赤い眼鏡の先輩はわたしに顔を向ける。
「アガサじゃなくって、あ・さ・が、よっ。はじめまして、朝賀久里須で~す。理子はふざけてアガサって呼ぶんだけど「あさが」だからね~。まあ、言いにくいから名前で久里須でいいわよ~っ」
わたしに微笑んだ久里須先輩は、しかしすぐに理子先輩に向かって口を尖らせる。
「ところでさ~あ、聞いてよ理子。先週始めたあたしの連載小説、ブックマークがぜ~んぜん増えないんですけどお! おかしいと思わな~い? ってか、おかしいのよお! ねっ、そう思うでしょ! 何よその顔は~ オープニングからハッときてグッとなってグイグイ引き込まれるんだから~っ! ブックマークが増えまくって絶賛の声が溢れまくって書籍化の話が舞い込んでも当然の面白さなのに~っ! それなのにおかしいの~っ!」
ちょっとおっとりしてるけど、喋り出したら止まらない人だわ、この人。
「ねえねえ、桜子ちゃん、だっけ? あなたも読んでみてよお、ちょっとでいいからあ。ねえ、お願いっ!」
手招きされたわたしは彼女の隣に移動するとノートパソコンを覗き込んだ。
横書きで書かれたその小説のタイトルは『トワイライト急行の殺人』、どうやら推理小説っぽい。
日本の冬の朝五時である。東京駅のプラットフォームには案内表示にトワイライト急行と赤文字で名前が出ている列車が止まっていた。食堂車と寝台車の編成である……
「ああ、これってトワイライトエクスプレスのことですねっ。もう運行停止になっちゃった寝台特急ですよねっ」
「ええ~っ! 今は走ってないの~っ?」
久里須先輩は飛び上がらんばかりに驚く。
「ご存じなかったんですか? 大阪と札幌を結んでいた豪華列車ですよね」
「ええ~っ! 東京と札幌じゃないの~っ!」
ガクブル震えだした久里須先輩を見るに、事実考証は放置プレイだったらしい。指摘しちゃいけなかったかな? どうしよう、涙目でこっち睨んでるし……
と。
「なあアガサ、その列車で何が起きるんだ? アタシにも教えてくれ」
理子先輩の言葉に彼女は気を取り直したように物語の先を語り始めた。
「大雪舞い散る青函トンネルの中、雪に閉じ込められたトワイライト急行で殺人事件は起きるんだけど~……」
ちょっと待って。青函トンネルの中に雪なんか降らないと思うんですけど?
って心の中で突っ込むわたし。
「偶然、列車に乗り合わせた名探偵ポワ郎の灰色の脳細胞が緻密な推理を始めるの~っ」
ポワ郎? それどこの国の人?
「乗客は名古屋人、関西人、江戸っ子に秋田美人に九州男児に土佐っ子に島根県民と雑多で互いに言葉は通じないし~、みんな被害者とは縁もゆかりもないのだけれどお……」
言葉通じないんだ!
だったらポワ郎にも言葉通じないんじゃ?
「名探偵ポワ郎の大胆な推理が犯人を追い詰めていくの~……」
ああ、ポワ郎が気になってストーリーが頭に入らない!
「……と言うわけで面白いでしょ! なのにい~、どうしてブックマークが増えないのよお? 絶対おかしいわよお、この推理小説のどこがいけないって言うのよ~!」
いけないのは「推理小説」ってところじゃないかしら。これがパロディだったらすっごくイケてると思うわ……
「桜子ちゃん、心の中で突っ込まないでハッキリ言っていいんだよ! アタシが言うとすぐに怒るんだ久里須は。なんたってヒステリーの女王だからな」
「ミステリーの女王よっ!」
久里須先輩は小気味よくヒステリックに叫ぶとわたしを向いて。
「ねえお願いっ、絶対怒らないから感想聞かせて~っ。理子の意見は聞き飽きたのよね~」
「あ、はい……」
わたしは彼女の小説の矛盾点を極力オブラートに包んで説明した。青函トンネルは地下トンネルであること、そもそもトンネルの中に雪は降らないこと、東京発ならトワイライトよりカシオペア急行の方が適切であること。
「ところでポワ郎って、何処の人なんですか?」
呆然と聞いていた久里須先輩は、わたしの最大の疑問に少し逡巡して。
「えっと~、チョコレートの国から来た名探偵、なのよ~」
どうして素直にベルギーと言えない!
でも、突っ込まれた後だけにストレートには言いにくいのかな?
「ワッフルも美味しい国ですよねっ!」
「そうなのよっ! お菓子の国の探偵さんなのっ!」
彼女は急に元気になる。
「ねえねえ、桜子ちゃんも小説書いてみない~? あなたきっと才能あるわよ。ほら、このネット小説サイトのアカウント取ってあげるからさあ」
「いえ、わたしは別に……」
しかし、紅茶が入ったマグをわたしの前に置きながら理子先輩も。
「はっはっは、そりゃいいね。いやさ、この部に入るとかそんなの関係なしでさ。面白いぞ小説書くのって。堅苦しく考えなくてもいいんだ。そうだな、例えば……」
理子先輩がわたしのために考えてくれたストーリーはすごく楽しそうなものだった。ってか、理子先輩に見つめられると妙に胸が熱くなるんですけど……
と。
そんなこんなで小一時間。
「えっと、今日は本当にありがとうございましたっ。放送部とか新聞部とか吹奏楽部とかの話も面白かったですっ!」
紅茶と一緒にポテチやチョコまで戴いて、その上、他のサークルの裏話までたくさん聞かせて貰ってゆっくり寛いじゃったけど。
結局、文芸部への勧誘はされなかったし、わたしも入部希望しなかった。
だってわたしはキラキラな高校生活を目指すんだ!
こんな、部員がたったふたりだけの地味な文芸部なんかに入るつもりはない。
例え部長が理子先輩だったって……
「理想の部活が見つかったらいいな。頑張れよ、応援してっからさ」
サラリと言い放ち、わたしを階段下まで見送ってくれた理子先輩。
心がちくり痛む。
「本当にありがとうございました!」
「いいって、こっちこそ楽しかったし。じゃあな……」
と。
「お~い、桜子じゃないか!」
聞き慣れた声に振り向くとひょろりのっぽの学生服。
「あっ、お兄ちゃん! 部活は?」
「今ちょうど終わったとこ。桜子は……」
そこまで言ったお兄ちゃんの表情がみるみる固まった。
「にじょう、さん」
えっ?
にじょう?
「アタシは神湯です。では……」
突然表情をなくした理子先輩は、小さく会釈すると部室へと戻っていった。