失恋ハイキング
「ああ……。困ったな」
わたしは途方に暮れた。山歩きで、道に迷ってしまったのだ。
「こんなハイキングコースで迷うなんて」
楽な道だと、たかを括ったのが悪かったのか、それともイラついていたのが悪かったのだろうか。とにかく少し休もうと、木陰に腰をおろす。疲労が、ドッと襲ってくる。
「とんだ休日になっちゃったなぁ……疲れた……」
そう、もう疲れた。肉体的にも、精神的にも。
わたしには、婚約者がいる。いや、もう『いた』と言うべきか。
木陰で涼みながら『元』婚約者の言葉を反芻する。わたしにくれた、あたたかな甘い言葉を、ひとつひとつ。思い出すたびに、涙がこぼれた。
あんなに愛してくれていたのに、こちらも懸命に愛したのに……!
それは、ほんのひと月前の事。彼の部屋に遊びに行ったときのことだ。そこでわたしは見つけてはならないものを見つけてしまったのだ。
ベッドに落ちていた、長い髪の毛。あきらかに彼のものとは違う、細く柔らかな黒髪を。
『お前のじゃないか?』なんて、白々しく嘯かれたけど、わたしは脱色しているから、髪の色は明るいブラウンだ。質感だって、傷んでパサパサ。あの柔らかな髪の毛とは、似ても似つかない。
勿論、大喧嘩になった。
彼とは、あれから一度も会っていない。何回か、電話がかかってきたけれど、全て無視した。嫌だったからだ。彼だけではなく、自分自身の事も、たまらなく嫌だった。
彼の声を聞けば、きっと恨み言を言ってしまう。
彼の顔を見れば取り乱してしまう。
きっとそうなるであろう自分を想像し、嫌悪感に震えた。
やり場のない怒りと焦燥感を鎮めるために、わたしは逃げた。仕事に、趣味に時間を費やした。
この山歩きも、そのひとつだ。
でも、まさか道に迷ってしまうなんて。
「寒くなってきたし、困ったなあ……」
空が曇り、風が冷たくなってきた。冷えたせいなのか体が重くて、だるい。
まるで、自分の体が自分の物でないみたいに動かせない。さらに悪いことには、
「眠い……」
激しい眠気までおそってきた。
おかしい。今まで何回も山歩きをしているけど、こんな経験はただの一度もない。急に体が動かなくなるなんて。
離れなければ。とにかくここから離れなければ。
半ば霞がかった頭の中、動物的な本能が『逃げろ』と告げていた。
ここは『ヤバい』と。
逃げたい。ここから。しかし眠気が邪魔をする。
「逃げなきゃ……。ちくしょう、なんでこんなときにアイツの顔なんて……!」
睡魔に呑み込まれる間際、彼の顔が脳裏に浮かんだ。
「あいたい……」
そう言ったことに少し悔しさを感じながら、わたしは意識を手離した。
(……寒い)
尋常ではない寒さを感じ、わたしは目を覚ました。
まだ頭はボーっとするが、さっきまでの体のだるさは消えている。それにしても、寒い。冷たい風が直接、体の中で吹き荒れているみたいだ。
「わたし、死んだのかな……?」
起き上がって、震えながらぼんやりと呟く。その問わず語りの言葉を受けて、
『正確には、死ぬところだったのよ』
声が聞こえた。女の子の声だ。
「誰? どこにいるの」
わたしは震えながら叫んだ。辺りを見回しても、誰もいない。
『あなたの中にいるわ』
声が響くたびに、体の中に風が吹き荒れる感覚が走った。その声の主がわたしの中にいる? 戦慄し、叫んだ。
「い、いやだ。出てってよ!」
『あら、こうでもしないとあなた、良くないモノに憑かれるとこだったわよ』
「良くない、モノ……?」
『そ、とぉってもタチの悪い、ね。あいつらは生きた体を狙ってるの。魂が抜けたばかりの、空っぽになったいれものを欲しがってるから、たまに強引な事するのよ』
「嘘よ」
そんなオカルトじみた話、信じられなかった。全力で否定したが、わたしの中にいる『もの』は別に気を悪くした風もなく、
『あなた、最近ヤなことあったでしょ。それか、心にずっと引っかかってる事とか』
そう、聞いてきた。
『そういう、付け入る隙がある人の魂はね、引っ剥がしやすいの。イヤなこと、悲しいこと、腹が立ったこと。そういうのをいつまでもウジウジ引きずってる人は、簡単に憑かれるのよ。さ、私が案内するわ。山を降りるのよ』
「あなたは……なんでわたしを助けてくれたの?」
彼女は、しばらく考えているように黙っていた。
「ねえ、どうして?」
『……似てたから、ね。あなたと私』
彼女はぼそぼそと話しはじめた。
婚約者がいたこと。その人のことがとっても好きだったこと。
そして、大好きだったその人に手酷く裏切られたことを。
『汚らわしく感じたわ。あの人も、あの人を憎む私も。なにもかも……それで』
彼女は、してはならないことをした。取り返しのつかぬことを……。婚約者に対する当て擦りのつもりだったという。
『あの人、山が好きだったの。だから私、この山で……。ずっと昔……』
「わたしは死のうなんて思わないわ! そりゃ……彼のことは憎いけどさ……」
『嘘。憎いなんて。あなた、さっき眠ってしまう前に言った言葉、覚えてないの』
「……それは」
『私は、あんな言葉は出なかった。あの人の顔も、浮かばなかったわ。……ただ、悲しかった。さびしかった。私が苦しんだように、あの人も苦しめばいい。ただそれだけの思いで、一つしかない命を使ったの……。ね、あなたは……私になっちゃダメよ。まだ心に彼がいるなら、あなたはしあわせだから』
わたしは、ただ黙って彼女の言葉を聞いていた。
『私ね、本当はあなたに取り憑くつもりだったの』
「どうして……そうしなかったの?」
簡単に出来ただろうに。気まぐれと言うには安易すぎる。
『もう、男女のしがらみは懲り懲り』
消え入りそうな声で、彼女は言った。
『もうじき、ふもとだわ。……日常に戻ったら、ちゃんとケジメつけなくちゃダメよ』
あれは、疲れが見せた幻覚幻聴だったのか。それとも、現実にあったことなのか。本当にわたしの中にこの世のものではないものが入って、世話をやいてくれたのだろうか。実際のところはわからない。とにかく、気がつけばわたしは最寄りのバス停にいた。
今からなら、最終バスに間に合うだろう。
「アァ、寒い」
夕間詰めに吹く、つめたい風に震えた。体の表面をなでる、つめたい、本物の風。体の中から風が吹く感覚は、もうない。
「ケジメ、つけなくちゃ……ね」
もう、わたしは逃げない。
『私になっちゃダメよ』
そう、言われたから。
迷惑と言われようと、これから彼の家に押し掛けてみようか。そしてとことん話し合おう。双方納得できる答えがでるまで、ずっと。
携帯を取り出し、かじかむ指で電話をかける。数回コールの後、驚いたような彼の声が聞こえてきた。たったひと月聞かなかっただけなのに、妙に懐かしい。
「今夜、あなたの家に行ってもいい? 話したいことがあるの」
彼の声が、弾んでいる。その返事は色よいものだった。