悪役令嬢と平民少女の共犯劇
──どうしてこうも愚かなのだろう。
ユリアンヌは快い時間を過ごしていた、学園のティーサロンに無遠慮に入り込んだ彼らを見て、微笑みを浮かべたまま心中で息を吐いた。
一人の娘を取り囲むようにして歩く複数の男たち。
現在、学園中で密やかに揶揄されるその中に、自らの婚約者と呼んだ存在が含まれているのだから呆れてものも言えない。
もっとも、酷い頭痛を覚えていたのはすでに過去のことであり、やるべきことをすべてやり終えた今となっては、早く過ぎ去って欲しい嵐のようなものだ。
「ユリアンヌ! 貴様の行いを、俺はこれ以上看過することはできない!!」
持っていたカップをソーサーに戻して席を立つ。
そうして穏やかな空間を裂くように声を荒げる、この国の第二王子たるヴィンセントにまず一礼を取ったのは、あくまでも形式的なものだ。先に礼を失しておきながら、ユリアンヌに続くように他の令嬢たちが行う礼すらも、当然だと受け取るこの男の傲慢さが昔から好きではなかった。
ユリアンヌと婚約することで、国内でも有数の影響力を持つ侯爵家の後ろ盾を得て、ようやく王子としての体面を保つことができる程度の能力しかない存在。立太子した第一王子と比べ、すべてが劣りながら、それを認めようとしない視野の狭いこの男が余計な野心を持たないよう手綱を握ることが、ユリアンヌと侯爵家に求められたことだった。
ユリアンヌだけではない。ヴィンセントの側近に選ばれた令息たちも、その令息たちに宛がわれた婚約者たちも、ヴィンセントを第二王子として弁えた存在とするために選ばれたはずだった。
それなのに肝心の側近たちが、結果としてヴィンセントの無能さに引きずられてしまったのだから、頭が痛くなるのも当然だろう。
最も役目を果たせなかったのはユリアンヌとて同じことではあったのだが、この男を王子に相応しい存在にしようとしたことが無理だったのだ。
「……ご用件をお伺いできますでしょうか」
「白を切るのも大概にしろ! 貴様はまたノンナにきつく当たったようだな!」
そう言って、ヴィンセントの背に隠れるようにして立っていた一人の娘が、その肩を強く引かれて前へ出た。
金と琥珀を合わせたような色の髪が揺れ、透き通るような白い肌に影を落とすほど長い睫毛に縁どられた同じ色をした瞳。細くしなやかな体は、きっちりと着られた制服の下で隠し切れないスタイルの良さを描いている。長い前髪に三つ編みにされた髪と丸い眼鏡と言う、典型的な地味な装いであっても、その可憐さを損なうことがない少女。
「俺の側にいれば安全だ」と肩を抱くヴィンセントの腕の中で、キュッと柔らかそうな唇を噤んだままの少女は、けれどほんの一瞬だけ、伏せられている目でユリアンヌを見た気がした。
現在、噂の的になっている学園に通う平民の少女をそのままに、ユリアンヌは話の先を促すように首を傾げてみせる。
「何を根拠にそのようなことをおっしゃるのか、教えていただいてもよろしいでしょうか」
「俺が見ていた! それで十分だろう!?」
「……わたくしが彼女に何かをしていたと?」
「そうだ! 今朝、淑女科と文官科を繋ぐ通路の傍で、貴様たちがノンナを取り囲んでいるのを、俺はこの目で見ている」
「──僭越ながら、我々も殿下と共に見ておりました。複数の証言なのです。言い逃れなど不可能ですよ」
その言葉に、繊細なレースの扇子を広げ、ユリアンヌは口元を覆い隠す。
どうやら今日は本当にタイミングが悪かったようだ。入学してから今日に至るまで始業間際にしか校内で見掛けたことがなかったため、てっきり今朝もそうだと思っていたのだが、今日だけは例外だったようだ。
それでも確信には触れない。本当に姿を見ただけで、ユリアンヌたちが何をしていたのかまでは分からなかったのだろう。
分かっていたのなら、こうはならない。こんな愚かなことをする前に、彼らはこの先の人生のために奔走しなければならなかったのだ──もう、すべてが遅いのだけれども。
「どうした、何も言えないのか!?」
沈黙を肯定と捉えたヴィンセントが、鬼の首を取ったように声を張り、周囲の側近たちもまたそれに続くように嗤っている。
「身分が低いと言うだけで、彼女を悪し様に扱う貴様のような女が王子妃になるなど、あってはならない! ──俺との婚約は破棄すると父上には伝えさせてもらう!」
──本当に。あまりにも愚かで、品性が欠片も感じられない。
本来であればヴィンセントを宥め、諭す役割を持っていたはずの側近たちも鏡に映したような有様で、次々と自らの婚約者を論うのだから、ユリアンヌの後ろに立つ彼らの婚約者たちが冷え切った目になるのは当然と言えるだろう。
それでも不快感しか感じないこの状態も、もう終わると知っていたから耐えられた。
「まだ、ご存じではないようですので、最初に申し上げておきます」
僅かな沈黙の後、ユリアンヌが扇子の陰で口を開く。一度だけゆっくりと視線を巡らせ、そして静かに目だけが微笑んだ。
「殿下方がいかに望まれようとも、わたくし共の婚約は──すでに破棄されております」
その一言で、場の空気が変わる。
様子を伺っていたサロン内の令嬢たちの囁きが広がる中、ユリアンヌたちは眉一つ動かさない。
「そして、学園内での殿下方の行動は、王家と関係しているすべての家門へ報告済みにございます」
逃げ場を塞ぐように言葉を重ねる。
「婚約者を公然と蔑ろにして一人の娘に入れ込むだけであれば、学生の内の戯れと判断する家門もあったかもしれません。ですが──使途不明金。用途を偽った支出。国庫、並びに各家門の財の私的流用となれば、話は別でございます」
ユリアンヌの声が一段冷え、明確な意思で彼らが行った罪を紐解いていく。その怜悧さを前に、誰一人として口を挟めない。
「これまで学園内での殿下方が彼女へ行ったすべてのこと。彼女のために誂え、購入し、気を引こうと贈られた品々──そのすべてを把握しております」
断言すると同時に、空気がさらに重く沈んだ。ヴィンセントたちは皆一様に言葉を失い、反論を探す気配すら、もはや滑稽にしか映らない。
「当然のことでございます。ここは王立学園なのです。貴族のみならず、平民の方々も共に学ぶ場所。身分の異なる者同士が一つの学び舎にある以上、不測の事態に備え学園に通うすべての生徒の素行は常に注意が払われ、度を越えた行いと判断されれば──学園から忖度なき、公平な記録が報告書として残されております」
誰に向けられたものでもない、粛々とした声量。
言い終えた瞬間──パチリ、と小さな音を立てて、ユリアンヌの持つ扇子が閉じられた。それは終わりを告げる音にも似ていて、そしてユリアンヌは水面に波紋を落とすように一人の名を音にした。
「──ノンナさん」
労うようなその声だけが、場の空気を僅かに和らげる。
「今まで本当にご苦労様でした」
その言葉に応えるように、それまで何一つ言葉を発さず、されるままとなっていた少女が、ヴィンセントの腕をするりと外した。引かれた拍子に乱れていた髪を整え、衣服の皺を払う動作はあまりにも自然な動作だ。
そして、自分を取り囲んでいた男たちには、もはや一瞥もくれずに前へと歩み出て──ノンナと呼ばれた一人の平民の少女は、ユリアンヌの前で、深く、臣下の礼をした。
──“学園では身分は存在しない”なんて言葉は、ただの建前でしかない。
だからやるべき人間がやるべきことをやる、ただ、それだけのことだった。
ノンナが王立学園に入学を決めたのは、酷く現実的な理由からだった。
幼い頃に父を亡くし、母と幼い弟妹たちと暮らす家に、余裕などあるはずもない。日々の暮らしは慎ましく、それでもどうにか回していると言うだけの、どこにでもある平民の家庭。そこでノンナは産まれ育った。
どこにでもある家庭だったが、けれどノンナには一つだけ、“どこにでもある”では済まされないものがあった。
容姿だ。
幼い頃から飛び抜けて整っていた顔立ちは、歳を重ねるごとに周囲と差を広げていった。金を内包した琥珀を思わせる色をした豊かな髪と大きな目。すっきりと高い鼻に、紅を指したように色づいたぷっくりとした唇が、白磁のような肌の上にバランスよく配置されている。決して群衆に埋没しない一際目を惹くその美しさは、ノンナにとって祝福であると同時に、明確な危険そのものでもあった。
意図せず危ない目に遭い、その度に難を逃れる。そんなことを何度も繰り返していれば、嫌でも理解できる。自分の容姿の良さも、自分の身は自分で守らなければならないと言うことも。
「万が一の時は、諦めな」
ノンナの王立学園への入学が決まった時、叔母はそう言った。
この国では魔力がある存在は優遇され、それは平民でも変わらない。
本来なら必要な費用を払い平民専用に設立された学園に通うはずのノンナが、貴族が通う王立学園へ入学することになったのは、魔力を持っているからだ。それは誇るべきことであり、同時に貴族と平民と言う明確な身分差が存在する場所に、危険を顧みずに飛び込むと等しい行為でもあった。
「女の力ではどうにもならないことがあるんだよ。抵抗するより、大人しくしていた方がよっぽど安全なこともね」
それは優しさからくる言葉だったのだろう。
叔母はノンナの容姿に対し、母よりもずっと危機感を覚えており、幼い頃からノンナを気に掛けてくれていた。極力一人で外に出ないように言い聞かせ、一人の時にどう動けばいいのかを教えてくれたのも叔母だった。
平民にとって貴族とは雲の上の存在だ。平民には許されないことも、貴族であれば許される。学園に入学したノンナが、その美しい容姿ゆえにどんな目に遭うのかを考えた末の言葉。
けれどその言葉はノンナの中に重く残った──本当にそうなのだろうか。身分の差を前にただ怯えて、耐えて、諦めて、そうやって学園に通えばよいのかと。
そして考えた末にノンナが選んだのは、諦めることではなく備えることだった。
目元が隠れるほど前髪を伸ばし、度の入っていない眼鏡を掛ける。髪は三つ編みに纏め、制服は規定通りに崩さずに着て、これ以上ないほどに地味に徹した。容姿は変えられない。だからせめて余計な視線は引かないようにと。
そうしてノンナはただ最高峰の教育と、その先の進路のために、王立学園へ足を踏み入れた。
けれど、学園に通う最後の年に、その努力は無に帰すことになった。
貴族と平民が共に通う学び舎では、本来であれば同じ場所に存在することさえ許されない身分差が存在している。それでも国が運営する学園で、表立って差別を認めてしまえば、国そのものの品位にかかわる。ゆえに“学園では身分は存在しない”と謳われてはいたが、それがただの建前であることを、入学して数日も経たないうちに嫌と言うほど理解させられた。
支給された制服を着ているのは平民だけで、貴族の子女たちは色とりどりの外出着を纏う。食堂では日当たりのよい窓際の席に貴族が集まり、上位の家門となれば専用の部屋で食事を取ることもできる。複数用意されたサロンも、貴族だけが使用できる場所だと言う不文律が存在した。
講義こそ同じ室内で受けているが、ここでも座る席に明確な差があり、貴族と平民が混ざって座ることはない。
それでも。
ここで学べる知識は本物で、卒業後に開かれる道は確かなものだ。
王立学園の卒業者に与えられる王宮文官と言う、平民にとっては望み得る限りの最高の職。魔力を持つ者を囲い込むための制度だったとしても、間違いなく輝くような未来だった。
自分が魔力を持つと知った時、ノンナは王宮文官になることを決めた。
ノンナや弟妹たちのために身を粉にして働く母や、まだ幼い弟妹たちが少しでもいい未来を選べるように。何よりノンナ自身のために選んだ道。だからノンナはただひらすら目立たず、余計なことにかかわらずに毎日を過ごすはずだった──はずだったのに。
「貴様、名はなんと言う?」
最初に声を掛けられた時、ノンナはそれが自分に向けられたものだと理解するのに僅かばかり時間を要した。
遅れて顔を上げた先にいたのは、この国の第二王子とその側近たちで、上から見下ろされるように周囲に立つ彼らを前にした瞬間、喉が締まるような感覚を抱いた。逃げ場がないと理解してしまえば、胸の奥に広がっていった焦燥感を覚えている。
そこから先は、あっという間だった。
ことあるごとに声を掛けられ、気がつけば隣に立たされ、連れ歩かれる。断る隙は与えられず、逃げることなど許されないまま、状況だけが瞬く間に積み重なっていく。
そんなことが続けば、周囲の視線が変わるのに時間はかからない。
貴族たちからは不快そうに見られ、同じ平民たちからは距離を取られていく。
ヴィンセントたちから逃れて友人たちの下へ向かえば、昨日まで一緒に夢を語ったことなどなかったように外された視線。教室から居場所をなくし、強引に連れて行かれた食堂の窓際の席で、味のしない食事をただ口に運んだ。教師へ訴えても聞き入れてもらえない事実は、ノンナを追い詰めるだけだった。
それでもノンナは何も言えなかった。
言えばどうなるのか分からなかったからではない──分かっていたからだ。貴族に逆らうことの意味を。
学園で最も高貴な存在の傲慢さは有名で、側近たちは宥める役目を放棄するどころか、ヴィンセントに追従する始末。彼らの癇に障った者が何かしらの報復を受けたと噂が流れ、王族から睨まれることを恐れて、授業も、テストも、論文も、すべてヴィンセントの顔色を窺っている者も少なくはない。
だからただ黙って目を伏せる。今だけだと、やり過ごすことしか選べなかった。「恥ずかしがっているのか?」と「俺たちがいるんだ。身分差に怯える必要なんてないさ」と言って笑う、見当違いの声を否定することもできず、ノンナは叔母が言った通り、ただ耐えることを選んだのだ。
──けれど、それも限界だった。
ある日、贈り物を差し出された。
王都でも有数の店の名が刻印された箱を見ただけで、高価であることは一目で理解できた。受け取るのが当然だと押し付けられ、遠回しに断っても彼らはノンナの言葉が聞こえないように引き下がらない。
何も考えずに受け取ってしまえば終わりだと、直感で思った。
それは単なる好意や施しではなくなり、関係を固定するものになりかねない。このままでは将来に影響が出るどころか、分不相応なノンナを排そうと家族にまで累が及ぶかもしれない。それでも受け取らなければならなかった。
そんなことが何度も続き、競うように高価な物が積み重なっていく。受け取る度にノンナの指先が隠しようもないほど震えているのに、ノンナを取り囲む彼らはそれを決して見てくれない。ノンナのためだと言いながら、ノンナのことなんて本気で考えてはいない。それなのに一方的に押し付けるその目に映る欲に、耐えがたいほどの寒気が走った。
このままではいけないと強く自覚したのはきっとこの時で、だからノンナは決めたのだ──逃げるのではなく、終わらせることを。
利用できるものは利用する。流されるのではなく、耐えるのでもなく、助けられることを待つのでもない。守りたいものを守るためには自らが奮い立つしかない──すべてが手遅れになる前に。
「お目通りをお許しいただき、恐悦至極に存じます」
学園内であっても上位貴族に平民が目通りを願うなど、本来であれば無謀に等しい。それでもそれが許されたのは、相手が平民の生徒に対しても礼節を重んじるユリアンヌで、ノンナを囲い込む中心にいるヴィンセントが彼女の婚約者だったからだろう。
普段なら近寄ることすらできない、上位貴族専用のティーサロンへ続く扉の中に踏み入れ、静かに頭を垂れる。顔を上げる許しを得て、ノンナは恐れる心を振り切りユリアンヌを見た。
──初めてだった。目を逸らさずに貴族と向き合うのは。
「お願いがございます」
震えはない。
「殿下方と、距離を取りたいのです」
言葉を飾り立てることはない。ただ簡素に、事実だけを述べることに努めた。
同情を引きたいわけではない。取引を持ち掛けるために、ノンナはここに立っている。
「押し付けられた物も、すべて手放したく存じます」
一呼吸を置き、言葉を続けた。
「──そのために、必要とあれば、私は殿下方の側に残ります」
それは明確に言葉にしなくとも、内偵を示唆する意思表示だった。
窓から差し込む陽光を背にする、指先一つまで管理された学園で最も高貴な令嬢は、ただノンナを見ている。値踏みするように暫し間を置かれ、そして美しい唇を綻ばせてユリアンヌは微笑んだ。
「想像よりも、面白い方ですのね」
それはノンナの願いが聞き届けられたと理解するには十分で。
ノンナを執拗に捉えて離さないのに、ノンナの言葉などただの一言も聞いてはくれないヴィンセントたちとは違う。最後までノンナの声を遮らず、ノンナの話を聞いてくれた初めての存在。
ユリアンヌはノンナの訴えを切り捨てることをしなかった──その事実だけがすべてだった。
目を伏せるだけの自分はもういない。その日からノンナは変わらずヴィンセントたちの側にいながら、別の場所へと自らの足場を変えたのだ。
※ ※ ※
深々と頭を垂れるノンナの姿を見下ろしながら──ヴィンセントたちは暫し言葉を失った。
理解が追いつかないのではない。理解することを拒んでいるのだ。
「……何を、している」
掠れた声がようやく喉から押し出されるが、誰もそれに答えない。
「ノンナ……貴様は、何をしているのだ」
返す言葉は存在しない。ノンナはただ礼を取ったままだったが、その沈黙が何よりも雄弁な答えだった。
「……ふざけるな。こんな、茶番に付き合っていられるものかっ」
低く押し殺した声は震えている。威圧しているようにも見えたが、踏み出そうとしたヴィンセントの足取りはどこか鈍かった。
「報告書だと? そんなもの──」
言葉が続かない。ヴィンセント自身すら、自分が何を否定しているのか理解していないかのように、覚束ない言葉の羅列。側にいる側近たちもまた、焦燥に駆られるように視線を彷徨わせているだけで、最早ヴィンセントを気に掛ける余裕すら存在しなかった。
「そんなもの、あるはずが──」
「ございます」
短く、切り落とすような声。それはユリアンヌのものではなく──ノンナのものだった。
平民であるノンナは、この場では顔を上げるどころか許可なく発言することも許されない。「ノンナさん」そうして名を呼ばれることで許しを得たノンナは、静かに息を整え、そしてゆっくり頭を上げた。
その目はもう伏せられてはいない。胸を張り、金を内包した琥珀の目は真っ直ぐにヴィンセントたちを見据えていた。
「すべて記録されております」
「っ……!」
動揺を映したヴィンセントたちの目にノンナが映っている。初めて、彼らがノンナを見ていると思った。
「日付、金額、用途、証言──あなた様方が思う以上に、明確に」
「止めろ……!」
声を荒げたのが誰だったかなど、最早関係ない。
それは制止ではなく、拒絶だった。言葉を重ねるノンナを信じられないものを見るように見ている彼らに、ノンナは自分がどれだけ軽んじられてきたのかを改めて理解して、心中で失笑した。
「ノンナ! 貴様、裏切ったのか……!」
ヴィンセントたちにとって、ノンナはただ都合のいい存在だった。
美しい見目をした人形を気まぐれに掴むように、ノンナを連れ回して、好き勝手に振舞った。自分たちだけが楽しい学生時代のお遊び。そこにノンナの意思など関係ない。平民の少女の口を塞ぐことなど容易で、飽きたら捨てればいい──ただそれだけの存在。ノンナが逆らうことなど想像すらしていなかった。
だから、こんなにも動揺する。見当違いの言葉を吐き、見苦しい様を晒すことになったのだ。
「いいえ」
裏切ったのではない。
「最初から、何も変わっておりません」
穏やかで静かな声だった。けれど、その場のすべてに届く声だった。
「私は一度も殿下方の好意をいただいたことはございません──お側にいたのも望んだからではありません。逃げることも、拒むことも許されなかったからです」
淡々と語られるものは、嘘偽りのないノンナの本心だ。そこに責める色はない。ただ覆しようのない現実だけがある。
「な、にを」
「ノンナ! 俺たちが君にどれだけ尽くしたと思って──」
「尽くしたのではありません。私の意思を殺し、押し付けたのです」
何度拒んでも、何度逃げても、彼らが狩りを楽しむようにノンナを離さなかった。
その戯れでノンナは友人も、将来の道も、平穏な日常すらも、すべてを失う瀬戸際まで追い詰められて──その果てにノンナは選んだのだ。
「──もう結構です」
決して怯まないノンナにたじろいだヴィンセントたちを前に、静観していたユリアンヌの扇子が軽やかな音を立てた。
長いまつ毛に縁取られた涼やかな目が、ヴィンセントたちを射抜く。そこに激情はない。「では最後に」ただ──静謐に終わりを告げる。
「繰り返しとはなりますが、改めて殿下“方”のお話を明らかにいたしましょう」
それは、これが誰か一人に押し付けて終わる問題ではないと、明確に示す言葉だ。
「先ほど申し上げた通り、わたくし共の婚約はすでに破棄されております──理由は至極簡単なことです」
扇子の下に隠された口元から発せられる言葉は冷え切っていた。ゆるく細められた目は、婚約者であるヴィンセントだけではなく、その側に侍る側近たる令息すべてを捉え、声に同調するように凍てついた目が、その罪を白日の下に晒していく。
「すべては殿下方の有責でございます」
「な──」
ここまで来てようやくことの重大さを理解した彼らが息を呑んだ。だがユリアンヌは止まらない。
「婚約者を公然と蔑ろにし、時に虚偽の噂を流布し、名誉を傷つけたこと」
「……っ」
「加えて──個人の資産に留まらず、家門の財、さらには国庫にまで手をつけた不正流用」
一拍の後、刃を突き立てるように言い切った。
「こちらにつきましては、関係者全員の関与が確認されております」
「ま、待て!」
ヴィンセントではない。その隣に立つ伯爵家の令息が声を上げた。
「私は知らなかった! 殿下が勝手に──」
「記録に残っております」
あまりにも見苦しい言い訳を、ユリアンヌは即座に切り捨てる。
「貴方の署名で承認された支出が、複数確認されております」
逃げ道は念入りに塞がれ、用意などされてはいない。
「また、別の方は」
視線が移る。
「虚偽の用途報告書を提出しておりますね」
「それは、その……!」
「さらに」
積み上げられていくのは、ノンナが報告を上げ、ユリアンヌが裏付けを取った事実だ。
「証言の誘導、証拠の隠滅未遂についても調査が完了しております」
彼らが次々とノンナに押し付けた多くの物。途中で数えることを止めたくなるほどの数に上り、そのすべてはノンナの手から離れ、ユリアンヌの下に集められた。
とてもではないが、個人の資産だけでは補うことができない品々は、彼らがノンナを理由に犯した罪の証だった。
「いずれも、単独ではなく、共同で行われたことも」
つまり──全員が逃げられない。完全な共犯だった。
彼らにとってそれは大したことではない行為だったのかもしれない。お遊びの延長でしかなく、平民の女に慈悲を与えてやっているとすら思っていたのかもしれない。
個人の資産で行っているうちであれば、それはただの見栄で、彼らの自尊心を満たすだけの行為だった。だが、個人の範囲を超えた行いとなったのであれば、それはただの罪でしかない。
その事実が場に落ちた瞬間──こちらを窺うだけだった空気が、明確に一段冷えた。
令嬢たちの扇子の下の囁きは、公の場で無様を晒すヴィンセントたちへの同情などではない。ただの評価と予測──どう処分されるか、と言う現実の話だった。
「以上を踏まえ、僭越ながらわたくしから学園が決定した処分をお伝えいたします」
本来は然るべき手続きを終えた後、然るべき場所で、密やかに伝えられるはずだったが、ここまで来てしまえばユリアンヌから伝えても問題にはならない。
「ヴィンセント殿下並びにご令息方は、退学処分となります。加えて、本件は王家および各家門へ正式に通達済みであり──今後は学園の管轄を離れ、それぞれの裁定に委ねられます」
国の王子を含む、その側近たちである高位貴族の令息たちに対し、あまりにもあっけなく、そして短く告げられた終わり。「……嘘だ」震える声で、愕然としたように零れた声に、鼻白む空気がサロンを満たした。
「こんなことで、家門が、動くはず……」
「動きますわ」
ユリアンヌの柔らかで快い声が、容赦なく彼らを打ちのめす。
「家門の財に手をつけただけであれば、あるいは情で甘い判断を下した家もあったかもしれません。ですがヴィンセント殿下に協力し、国庫に手をつけた時点で──情を排した決断を下さねばなりません」
当然の帰結だ。国の資金に第二王子が始めたことであったとしても、その罪に協力した子を庇うことなどあり得ない。犯した罪に家門が巻き込まれる前に、彼らの親は家門を守るために、家門の恥となった存在を早急に切り捨てるだろう。
露見してしまった以上、庇うことも、生半可な裁定を行うこともあり得ない。超えてはならないものを超えた彼らに情を与えることは、国家に対する反逆に等しいからだ。
体を震わせる彼らに、双眸を細めたユリアンヌが視線を滑らせる。
「廃嫡が決まった方もいらっしゃるでしょうし、貴族籍から抜かれて勘当だけで済むのならまだ温情かと。もっとも、国からも情けが掛けられるかは別の問題ですが」
取るに足らないことのように、だが、決定的な現実を告げていく。
「当然後継として残れるということなどありえませんわね。有していた権利はそのすべてを新たな方へ移されることでしょう──そしてそれは、家門同士で結ばれた婚約もまた同様でございます」
ユリアンヌの視線が、彼女の側に控える令嬢たちへ向く。
それまでただの一言も発することなく、佇んでいた令嬢たちが、ユリアンヌに応えるようにゆっくりと口を開いた。
「わたくし共の婚約も、すべて整理されております」
薄く微笑んだ彼女たちは、もう彼らの隣に立つ者ではなかった。
ユリアンヌとヴィンセントだけが、婚約を破棄したのではない。彼女たちには一切の非は存在せず、彼らの有責で婚約は破棄された。
家門として適切な判断の下、新たな家門と縁を結んだ者もいれば、廃嫡となった者の代わりに新たな後継となった者と改めて婚約をした者や、生家を継ぐために婿取りの調整を行っている者もいる。
未練など欠片も存在しない。落ち着いた声と、優雅で軽やかな立ち振る舞いは、むしろ解放された者のそれだった。
「そ、んな……」
呆然としたまま、膝から力が抜けたようにヴィンセントたちがふらついた。視線が揺れ、呼吸が浅くなっているのが分かるが、同情など感じない。立場に胡坐をかいて、己の欲のままに動いた結果でしかないのだ。
満足に立っていることもできない様。現実を受けとめることもできず、無意味に首を振り、否定を紡ぐその姿があまりにも愚かで、あまりにも見苦しくて、あまりにも──哀れで。
こんな男たちを自分は恐れていたのかと、ノンナの胸の奥にある何かが解けていくような感覚があった。
「……ノ、ンナっ、……ノンナ!」
縋るように伸ばされる手を避ける。この期に及んでまだノンナの意思が自分たちにあるのだと言うような行為に、思わず喉まで出かかった言葉を飲み込んだが、「ノンナさん、どうぞ」ユリアンヌが促すようにそれを許した。
ノンナは一度だけ深く瞬いて、その双眸を彼らに向ける。目を伏せるのではなく、真っ直ぐに前を見て、ただ心の底から伝えたい言葉を落とした。どうか──、
「どうかもう関わらないでください。それが、私にとっての救いです」
短く、玲瓏に、それだけを告げる。それだけでいいのだと。
そして答えも聞かず、最後にユリアンヌへ深く一礼をし、退室の許しを得たノンナはその場を後にする。その背後で何かが崩れる音が聞こえた気がしたが、振り返ることはない。もう、振り返る理由など存在しなかった。
──数ヶ月後。
受け取ったばかりの二通の書状を手に、学園の中をノンナは一人で歩いていた。
一通は卒業資格を得たノンナに対し、王宮文官の採用を正式に告げるもの。ノンナが最初に目指した夢の答えだ。
そしてもう一通は──ユリアンヌからのものだった。学園を卒業し、王宮で働くノンナとの関係の継続を望む内容は、簡単に言ってしまえば、平民が多くを占める下位の文官内の情報を求める内偵の打診である。守秘義務がある仕事を抜きに、あくまでも噂程度の内容を流して欲しいと言う。
受けるかどうかはまだ決めてはいない。けれどそれを胸に抱えたノンナの足取りは軽かった。この二通の書状はノンナがこの学園で成し遂げたものがあると言う確かな証だった。
誰かに助けられることを待つのではなく。ただ耐えるのだけでもない。平民と貴族と言う絶対的な身分の垣根を掻き分けて、ユリアンヌの手を取ることを選び、その側で一つの終わりを見届けた──その結果がここにある。
ふと、金が舞うような琥珀の瞳が空を見上げる。その視界を遮るものは、もう何もない。伸ばした前髪も、度の入っていない眼鏡も、伏せていた視線も、すべて過去のものだ。
足を止めることなく、ノンナは歩き続ける──その背を引き留め、ノンナの行く道を遮るものはもういなかった。




