第一章 春の人
この物語は、記憶を失っていく一人の男と、その男を愛し続けた家族・親友の物語です。
人は何をもって自分自身であり続けるのか。
答えのない問いを胸に最後までお付き合いいただければ幸いです。
人には不思議な才能がある。
勉強ができるとか。
運動ができるとか。
歌が上手いとか。
そういう分かりやすい才能じゃない。
そこにいるだけで、人を安心させる才能だ。
真田直樹はそういう人間だった。
少なくとも、俺はそう思っていた。
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「悠人!そっち行ったぞ!」
叫び声が聞こえた瞬間、小さな影がこちらへ突っ込んできた。
俺の膝に何かがぶつかる。
「捕まえた!」
そう言いながら抱き上げると、陽菜がきゃははと笑った。
「ハルちゃん待って」
公園の向こうから直樹が走ってくる。
娘六歳。
父親としては全力疾走しすぎだった。
息を切らしながら芝生に倒れ込む。
「もう無理」
「もう35だもんな、歳食ったなお互い」
「お前なぁ」
「パパ、もう遊ばない?」
子供の体力は容赦がない。
直樹は空を見上げながら言った。
「ハルちゃん」
「なあに?」
「ちょっと休憩しよ」
「はーい」
陽菜は腕を組んで
「パパ!早く!次はハルちゃんがオニするね」
俺は吹き出した。
直樹も笑った。
桜の花びらが風に舞う。
青空だった。
雲一つない春の日だった。
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「しかしお前も変わらないな」
俺がそう言うと、直樹は缶コーヒーを開けた。
「何が?」
「そのへらへらした感じ」
「褒めてる?」
「褒めてない」
「ひどいな」
直樹は笑う。
昔からそうだった。
高校の頃も。
大学の頃も。
社会人になってからも。
何か大きな夢があるわけじゃない。
野心もない。
金持ちになりたいとも言わない。
有名になりたいとも言わない。
ただ周りの人が笑っていれば嬉しそうだった。
気持ちのいい性格だ
⸻
「なあ悠人」
「ん?」
「俺さ」
直樹は芝生に寝転がった
桜を見上げる。
「幸せなんだと思う」
突然だった。
少し驚いた。
「なんだ急に」
「いや」
笑う。
少し照れたように。
「昔さ」
「うん」
「結婚とか家族とか、そういうの想像できなかったんだよ」
陽菜が遠くで走り回っている。
美咲がその後を追う。
二人とも笑っている。
「でも今はさ二人がいないのが考えられないんだよな」
直樹は目を細めた。
「幸せなんだよな」
こういうところが気持ちいい性格なんだんだよな。素直に臭いことを口にできる直樹に羨ましささえ感じる
⸻
その時だった。
直樹が眉をしかめた。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だった。
頭を押さえる。
「どうした?」
「いや」
直樹は首を振った。
「なんでもない」
「頭痛か」
「たぶん」
「大丈夫か」
「最近たまにあるんだよ」
そう言って笑った。
「やっぱり歳食ったんだな」
笑ってその時は
俺も深く考えなかった。
春だった。
暖かかった。
家族は幸せそうだった。
未来は当たり前に続くと思っていた。
誰も。
本当に誰も。
この一年後に何が起こるか知らなかった。
⸻
夕方。
陽菜が眠そうな目を擦りながら直樹の膝に座っていた。
桜は夕陽で赤く染まっている。
「パパ」
「ん?」
「パパは100歳まで生きてね」
突然だった。
美咲が笑う。
俺も笑う。
直樹も笑った。
「100歳?」
「うん」
「なんで?」
「だってハルちゃんが困る」
その言葉に。
直樹は少し黙った。
そして陽菜の頭を撫でた。
「分かった」
「ほんと?」
「約束する」
「やった!」
「パパ100歳で死んじゃうの?」
「200歳でもいいよ」
直樹は笑っていた。
だけど今思えば
あの時
ほんの少しだけ。
泣きそうな顔をしていた気がする。
⸻
誰も未来を知らない。
だから約束をする。
明日が来ると思うから。
来年も会えると思うから。
ずっと続くと思うから。
あの日の俺たちもそうだった。
100歳まで生きる。
そんな無茶な約束を笑いながら交わした。
その約束が
どれほど残酷な意味を持つことになるのか。
誰一人として知らなかった。




