⚫︎1月7日-暖かさに捕らわれて*1【2棟602号室:茅野 蓮慈】
「なぜ呼び出されたか、分かるな?」
始業式終わりの放課後。静まり返った生徒指導室。
教室の半分ほどしかないこの密室に漂う重圧は、徐々に精神を蝕んでいく。
問い詰める側の俺ですら、今すぐ窓から逃げ出したくなっているのだ。年頃の女子生徒――それも、普段は太陽のように賑やかな彼女にとっては、地獄のような空間だろう。
俺は同情、あるいは「嫌われたくない」という情けない本心を隠すように視線を逸らし、なるべく穏やかなトーンを選んで助け舟を出す様に名前を呼んだ。
「葵……?」
(ああ、本当ならもっと厳しくすべきなんだろうな。他の生徒への示しがつかない)
何も答えない彼女を促すが、返事はない。
ただ、二葉の頬を大粒の涙が伝い、普段は鮮やかな彼女の顔がみるみる青ざめていく。
ふと、膝の上で握りしめられた彼女の両手に目が留まった。
(……ネイルがない)
冬休み、アパートで見かけた彼女の指先には、いつも季節外れの華やかなネイルチップが踊っていたはずだ。だが、今の彼女の爪は短く切り揃えられ、何も塗られていない。
それどころか、指の節々は乾燥で赤く、爪の周りにはいくつも「ささくれ」ができている。
三条女子高校は偏差値60を超える進学校だ。自由な校風を謳ってはいるが、「学業の疎か」に直結するアルバイトだけは、鉄の掟として禁止されている。
俯いたまま、理由さえ話そうとしない彼女。
このまま待ち続けても仕事が進まず、今日の晩酌が遠のくだけだ。俺は観念して、外堀を埋めることにした。
「葵。お前、レストラン『ヨータニ』で働いているな?」
その瞬間、二葉の肩がビクッと跳ねた。
「昨日の夜、俺もカウンターから確認した。……見間違いじゃないよな。お前が住んでいるアパートのすぐ近くだ」
冬の冷たい空気よりも重い沈黙が流れる。
やがて、絞り出すような震える声が返ってきた。
「……そうです。やってました……」
観念した。だが、俺の視線はどうしても、彼女の荒れた指先から離れなかった。
本来なら、その手には彼女の大好きな、可愛いチップが飾られているはずなのに。
(……そんなボロボロの手で、あそこの皿を洗ってたのか?)
お洒落を楽しむ時間を削り、痛々しいほどに手を荒らしてまで、彼女は何を守ろうとしていたのか。彼女はすぐに答えをくれた。
「ーー……っでも、あのお店がなくなるかもしれないんです!」
葵は突然立ち上がって前のめりで俺に訴えかけた。思わず俺は息を呑みこむ。見開いた目は鎖で繋がれた様に外せなくなってしまった。
レストラン『ヨータニ』は何年か前に全国に放送されている大人気番組の収録があり、全国各地から老若男女様々な店に興味を持った人達が押しかける大人気店になった。そして今でもお客さんの絶えない店となるのだが、店主の谷さんが高齢化と共に腰を痛めてしまってとうとう店を続ける事が困難になってきたそうなのだ。
確かに、俺が行った時もわざわざピーク時をずらしたと言うのに店内はお客さんで埋まっていた。
「私、この店が大好きなんです!並んで待ってでも食べたいって思えるお店が、人手が足りないなんて理由でなくなるのは嫌なんです。少しでも力になりたくて……!」
……彼女の必死の訴えに、俺の心の中にあった「教育者としての正義」が、音を立てて崩れ始めるのを感じた。
若く、青く、そして眩しい。
あのレストランは確かに俺も通い詰めた店だった。いつの間にか大繁盛して足が遠のいていたが、まさか舞台裏でそんな事態になっていたとは。
脳裏に、昨夜かけられた言葉が蘇る。
『蓮慈くんやんか! 久しぶりやな〜!!』
奥から出てきた店主の谷さんは、全盛期より少し腰を曲げながらも、昔のままの笑顔で俺を迎えてくれた。
『覚えててくださったんですか?』
『当たり前やんか〜。中尾ちゃんも来週来るって言ってくれとったし、一緒に来てよ。サービスしたるから!』
……あの時は笑って返したが、今思えばあれは「空元気」だったのだ。
店を守ろうとする二葉や、彼女のような有志が支えていたからこそ、あの笑顔は繋ぎ止められていた。
そんな彼女の想いを、「校則」という無機質な言葉で踏みにじることなんて、俺にはできなかった……
俺は漸く解けた視線を外して、深く、重いため息をついた。
「……今回だけだぞ」
「……え?」
予想外の言葉だったのか、二葉は目を丸くしてぽかんと口を開けた。
「次はない。やるならもっと上手く隠れろ。カウンター席から丸見えの場所に立たないように研究するんだな」
「……っはい!!」
いつもの、雲間から覗く冬の太陽のような笑顔。
弾けるような返事を残して、彼女は軽やかな足取りで指導室を飛び出していった。
パタン、と閉まったドアの音。
静寂が戻った部屋で、俺の心は晴れ間と暗雲の間を彷徨っていた。
自分の甘さに、じわりと自責の念が込み上げる。俺は左手の薬指に嵌められた、サイズが合っていないギチギチの二つの指輪に問いかける。
「俺は、正しかったと思うか……? それとも、また楽な方へ逃げただけなのか……?」
指輪は何も答えない。ただ冷たく、俺の指を締め付けているだけだ。
冬の低い陽光が、冷え切った指導室の床を静かに照らしていた。
第7話 登場人物紹介
• 2棟602:茅野 蓮慈
三条女子高校の国語教師で1年1組担任。
「誰からも嫌われたくない」という一心で、面倒事からは常に距離を置き、頼まれごとは断れない事なかれ主義な性格。女子校勤務という環境を意識し、身だしなみやエチケットには人一倍気を遣っている。その努力の甲斐あってか生徒からの人気は高く、プライベートを詮索されることも多い。現在は「彼女がいる」という設定で通しているが、その左手の薬指には、不釣り合いなほど食い込んだ二つの指輪が光っている。
• 2棟401:葵 二葉
三条女子高校1年1組。
賑やかなことが大好きで、自宅に友人を招いては夜な夜なパーティーを開く現役ギャル。校則の範囲内で「平成ギャル」を彷彿とさせるコテコテのデコネイルやスクールバッグを愛用している。明るく天真爛漫な彼女だが、校則で厳禁とされているアルバイトに手を出したのには、彼女なりの「譲れない理由」があった。今回、担任の茅野に現場を押さえられてしまうが……。




