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1月6日-冬の蛹が羽化する時…【1棟301号:天津 翔太郎】

「……西海さん、本当に開けていいんですか?」

 僕は、この家の主の妻・薫さんから預かった合鍵を手に不安げに尋ねる。

「いいんだよ、天津くん。僕たちが強引にでも連れ出さないと、あの人は今日一日ずっと後悔の海で溺れることになるからね」

 職場の先輩である西海さんはいつもの穏やかな笑みを浮かべているが、その眼差しには現場を仕切る職人としての強い意志が宿っていた。


 社長の綾子将吉さんが些細なことで落ち込む姿は何度も見てきたが、それでも職場には必ず来る人だった。けれど今日は、いつまで経っても姿を見せない。しばらくして西海さんは何かに気づいたようで、「……あー、またやったな」と少々苛立ちながら奥さんの薫さんに電話をかけた。

 その後はまさに嵐のようだった。現場で待つ島津建設の監督・熊田さんに頭を下げ、薫さんのオフィスへ向かって鍵を受け取り、僕たちの住むアパートの701号室へ辿り着いたのだ。


「行くよ、天津くん」

 僕が鍵を開けるなり、西海さんは迷いなく寝室へ向かった。扉を開けるとそこには、羽毛布団に包まれた巨大な物体がベッドの上に鎮座していた。まるで巨大なまゆのようだ!

「観念してください、社長! 仕事行きますよ!」


(え!? これが……!?)

 僕は驚きのあまり声が出そうになったので、余計なことを言うまいと口を押さえる。西海さんが繭を揺すると、中から「行きたくない……」とさなぎのような社長のか細い声が漏れた。

「そんな子供みたいなこと言わないでください! あんたいくつだと思ってるんです! ……こんっの……! 無駄に強い力……!」

 西海さんが苦戦しているので、僕も加勢して布団を捲ると、「あぁ……」という情けない声と共に、ようやく顔だけが露出した。

「嫌だぁぁ! 行きたくない! 元請けの熊田さんに『お前の顔なんて二度と見たくない』って言っちゃったんだぞ!」

 社長は幼虫のようにうごうごと僕から布団を奪い返そうと暴れながら、泣きついてくる。どうやら年末最後、工期の相談でヒートアップし、大喧嘩に発展したのが原因らしい。


「で、喧嘩別れしたあと、最初は『俺は悪くない』と思っていたけど、正月休み中に冷静になったら言いすぎた自分が怖くなった、と……」

 西海さんが呆れ顔でまとめると、社長は絶望した顔で叫んだ。

「今日の仕事始め、どの面下げて会えばいいんだ!」

「その面でいいでしょうが! 悪いと思ったら逃げないで一緒に謝りましょう、社長!」

 もう既に大泣きしている社長の耳を引っ張り、西海さんは無理やり連れ出そうとする。

「いででででで!! まじで耳が取れる!!」

「じゃあ出てきてください!」

「嫌だ! もう綾子建設は終わりだ! 俺が原因で干されるんだぁぁ!」

「何言ってるんですか! ただでさえ工期を早めてほしいって依頼が来てるのに、あんたが遅らせてどうするんですか! そこでクビになりますよ!」

 西海さんの声が一段と強くなる。いつものおっとりした口調は既になく、現場を支える綾子建設の副社長の顔になっていた。……と言っても、社員は僕を含めて二人と、一匹(社長)しかいないけれど。


 それでもまだ繭から一向に出ようとしない幼虫に、西海さんは今度は優しく語りかけた。寄り添う作戦だ。

「社長。忘れたんですか? 天津くんが来る前、僕と二人きりで泥水啜って現場回してた三年前のことです。僕がミスをして工程を失敗させた時、無理やり元請けに連れて行って一緒に頭を下げてくれたのは社長じゃないですか!」

「……うっ……」

「あの時、社長は僕に言いましたよね。『頭下げるのは一瞬、逃げ続けるのは一生だ』って! 僕の大ミスに比べたら、こんなの全然たいしたことないでしょう?」


 西海さんの励ましを聞いているうちに、僕はふと、河北さんに励まされた時のことを思い出していた。


『怖いことから逃げることなんて簡単よ。だからこそ自分の足で立ち向かうことに意味があるの!』


(……ああ、あの時の言葉が、僕をちょっとだけ良い未来へと歩ませてくれたんだなぁ)

 僕は今の自分がある理由を噛み締め、意図せず口を開いていた。


「……社長。僕も、自分を見つめ直すのは怖かったです。でも、皆が立ち向かう勇気をくれたから、今ここに立っていられます。西海さんの言う通りだと思いますよ」


 社長は何かを考えるように俯き、やがて決心したように「……わかったよ……」と起き上がった。ようやく、観念した幼虫が繭から羽化した瞬間だった。


 ……しかし、現場へ向かう車中、社長はマナーモードの携帯電話のようにガタガタと震えだした。バックミラー越しに西海さんがどうしたのかと尋ねると、社長は顔を真っ青にして答えた。

「く……熊田さんは待ってくれてるかな……こんなに大遅刻してしまって……。普通なら怒って帰るよな。いくつも現場掛け持ちしてるし、この現場も終わったら次行かなきゃいけないのに」

「……確かに。まずいですよね……」

 西海さんもハンドルを握る手に力を込める。事実、もう三時間も遅刻しているのだ。西海さんは限界を攻めてくれているが、相手は多忙な現場監督、帰っていてもおかしくはない。


 けれど、僕はなぜか大丈夫な気がしていた。朝、西海さんと一緒に頭を下げた時の、あの鉄仮面・熊田監督の気まずそうな目線を思い出していたからだ。怒っていたら、もうあの時に怒鳴り散らして帰るはずだし……!


「熊田監督も、きっと社長を待っていますよ」


 根拠はないけれど、なんとなく、あの人も同じように後悔している気がしたのだ。

「……そうだね、天津くんの言う通りですよ。全力で謝って、今日中に取り戻しましょう!」

 西海さんもいつも通りの優しい口調に戻り、微笑んだ。


 そして現場に着くと、鉄仮面・熊田監督が仁王立ちで待っていた。その険しい表情を見た瞬間、さっきまでの僕の楽観はどこかへ吹き飛んだ。

(やっぱり怒ってる……。というか……)

「クビ宣告のために待っててくれたのかな……」

 思わず余計なことを呟くと、「こらっ!」と西海さんに脇腹を小突かれた。けれど、社長は震えながらも足を止めず、熊田監督の前に出た。そして――。


「「――すまんかった(申し訳ありませんでした)!!」」

 二人の声が見事に重なった。

 なんと、あの熊田監督まで深々と頭を下げていたのだ。僕たち三人が予想外の事態に固まっていると、熊田監督は気まずそうに口を開いた。


「私も、休み中に後悔していまして……。今朝現場に来たら、工程が進んでいるのを見て驚きました。お休み中に進めてくださったんですよね? なんとお礼をしたらいいかと思っていたのに、あんな言い合いをしたせいでもう来てくれないんじゃないかと思ったら、申し訳なくて……」


 社長は休み中、密かに現場を進めていたらしい。あんなに騒いでいたくせに、やることはやっているんだから、この人は本当に漢気溢れ、頼りになる社長だ。

「熊田さぁぁぁん!!」

「うぐっ」


 わだかまりが解け、ガッチリと抱擁する二人。熊田監督が少し苦しそうなのも構わず、社長は晴れやかな笑顔で泣いていた。

「……よかった。本当に、よかったですね! 西海さん」

 会社が干される心配がなくなって、肩の荷が下りた僕は、二人の後ろ姿を満足げに見つめる。

「……ああ、本当だね。……はぁ」

 一方の西海さんは、深いため息をついて、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。その顔には、朝からの大立ち回りと、蛹の羽化を助けきった疲労が色濃く滲み出ている。

「……西海さん? 大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ、天津くん。……ただ、新年初日から寿命が三日分くらい縮んだ気がするだけ。……さあ、僕たちも仕事に入ろう。今日の遅れは取り戻さないといけないからね」

「はい!」

 冬のパラつく雪の中、僕たちはヘルメットを被り直し、ようやく本当の「仕事始め」を迎えた現場へと駆け出した。

第6話 登場人物紹介

• 1棟301:天津あまつ 翔太郎しょうたろう

綾子建設勤務。元宗教二世で、大家の恵に諭され自分を見つめ直し中。独創的な感性と、少し世間知らずな一面を持つ。時折、思ったことをそのまま口に出して周囲を驚かせるが、本人は無自覚。アパートの住民たちからは、それも一つの「愛嬌」として見守られている。


• 2棟301:西海さいかい 光秀みつひで

綾子建設の社員。週末限定で『カワイイ』を追求する、普段はおっとりした優しい青年。身寄りのなかった自分を拾ってくれた社長に深い恩義を感じており、会社を支える実質的な副社長ポジション。趣味のことは職場の人間には一切秘密にしており、現場では完璧な仕事人。天津の事情を汲んで優しくフォローしようと努めているが、彼に自由奔放な言動に振り回され、最近は寿命が縮み気味。


• 4棟701:綾子あやこ 将吉しょうきち

綾子建設社長。熱血漢で情に脆いが、実は非常にデリケート。喧嘩別れした年末、怒り心頭の勢いのまま一人で現場作業を進めていたが、正月休みに入ると「言い過ぎた」と猛省しながら続きの作業をしていた。休みが明ける頃には、罪悪感で布団から出られないほど落ち込んでいた。仕事は丁寧で、業界内での信頼は非常に厚い。


• (アパート外):熊田くまだ 敦彦あつひこ

元請け「島津建設」の現場監督。鉄仮面で人相が悪いため気難しく見られがちだが、実は情に厚い。新入社員時代から支えてくれている将吉を深く信頼しており、彼にしか頼めない難易度の高い現場ばかりを回している。今回の大喧嘩では、彼も同じくらい「嫌われたかも」と落ち込んでいた。

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