1月4日-聖夜の残火に、乾杯【吉祥 一輝:3棟501号室】
一月四日、夜二十一時頃。
世間が明日からの仕事始めを思い、憂鬱な溜息とともに眠りにつき始める頃、ようやく俺たちの冬休みが始まった。
駅ビルの喧騒から離れ、河北アパートへと向かう。道すがら、未だ輝き続けている街のイルミネーションを眺めながら、あることを思っていた。年末年始、この街の事件や事故を追いかけ、冬場だというのに重い機材を担いで現場を駆け回っていた記者の弟、一真のことだ。
俺の手には、あるものが入った紙袋。それを少し強く握りしめながら、俺はアパートの階段を上がった。
……俺たち双子は、自由の対価――八六四〇万円という、あまりに巨大な契約金を両親に払い切るまで、華やかな休日なんて存在しない。たとえ大手法律事務所に籍を置く弁護士だろうと、その実態は「清算」という名の鎖に繋がれた囚人だ。けれど、今日だけは……。
「一輝、待って!」
階段の上から、一真が急ぎ足で駆け寄ってきた。俺の隣に並ぶと、「ふぅー」と大きく息を吐いて肩を並べる。
「お疲れ、今帰りか? 事件の打ち合わせでも長引いたのか?」
「お疲れ。まあそんなところだ。お前こそ、残業してたのか」
「今日はわりと早く上がったよ。スーパー寄ってきたんだ、作るの面倒だったし」
昔の悪ガキみたいに歯を見せて笑う一真に、思わず俺の口元も緩む。
「助かるよ」
俺は一真が持っていた機材入りの重いバッグを一つとスーパーの袋を一つ肩代わりして、俺たちの唯一の憩いの場へと二人で駆け上がっていった。
「あー、寒い寒い! こたつのスイッチ入れてくる!」
リビングへ飛び込むように、一真が履き古した作業靴を脱ぎ捨てる。至る所が剥げかかったその靴を見て、胸が痛んだ。一秒でも早く親との繋がりを断ち切るために、自分の身なりすら『値段』に換える弟。新しい靴を買えと言って金を渡しても、「一輝に似合うと思って」と俺の服ばかり買ってくるのだから。
部屋に入り、買ってきた惣菜を並べる。いつもならパックのままだが、今日は皿に移して温め直した。
「連絡くれたら一緒に買いに行ったのに……」
「一輝と行くと、高いのは渋るだろ? あ、そうそう、昨日から仕込んどいたんだ!」
はぐらかすように冷蔵庫から取り出されたのは、大きなボウルいっぱいのポテトサラダだった。大きめのベーコンと粗く潰されたゆで卵。その無骨な愛情に食欲がそそり、俺は盛り付けを待てずに一切れのベーコンを摘み食いした。
「あー!! つまみ食いしたー!」
「……胡椒が効いてて美味しい。天才だな、お前は」
「まったく……油断も隙もないな」
一真は口では呆れつつも、その顔は満更でもなさそうに綻んでいた。
食卓が整い、二人並んでこたつへ座る。ワイングラスなんて洒落たものはないので、いつものマグカップで乾杯した。
「年末年始、お疲れ様。乾杯!」
「乾杯」
コン、と陶器の音が響く。一口含んだ赤ワインは、久しぶりのアルコールに慣れない身体には少し苦く、けれどその苦味が「明日は休日」という実感を連れてきた。
一息吐きながら「どっちが食べたいか」と聞かれて選んだカレーをスプーンで掬う。なんだかいつもよりスパイスが効いてて美味しい気がする……
「このカレー、こんなに美味かったっけ?」
「ね、びっくり。オムライスも美味しいよ、ほら、一口食べてみて」
一真は自分のスプーンで掬って、俺の口元へ運んでくる。いつもなら「自分で食うよ」とはぐらかすのだが、今夜は少し酔ったせいか、なんだか甘えたくなって、そのまま彼の手から一口受け取った。
「うん、美味しい」
「だろ? 一輝のもくれよ」
一真も口を開けて待っている。幼い頃を思い出すようなその姿に、俺はしみじみと、彼への一口を運んでやった。
しばらく食べ進め、ちょうど良く身体が火照ってきた頃。俺はアルコールの勢いを借りて、隠し持っていた紙袋を差し出した。
「……一真。これ、遅れたけどクリスマスプレゼントだ」
「え……プレゼント?」
中身は、過酷な取材現場でも足を痛めない、堅牢で美しい新品の本格ワークブーツだ。
「靴……? こんな良いもの…… あの靴、まだ履けるのに……」
「お前の仕事は足が命だろ。……僕の我儘だと思って、受け取ってくれ」
一真はまるで宝物でも見るようにブーツを撫で、「ありがとう……一生履くよ」と静かに笑った。
「ハハッ、一生なんて重てぇなぁ……古くなったらまた買えよ」
「いや、これは履き潰さない。墓場まで持っていく……。さすが、サイズもぴったりだ!」
一真はその場で試し履きをして、嬉しそうに部屋の中を数歩歩き、そのままクローゼットの方へ消えた。そして戻ってきた時、その背中に何かを隠していた。
「実は俺からも、お返しがあるんだよ」
一真が差し出したのは、ずっしりと重い最新式のスチームアイロンだった。
「お前、これ……!」
その瞬間に、ふわふわとしていた酔いが一気に覚めた。俺の生活を隅々まで見ているからこその贈り物に、言葉が詰まる。
「今のアイロン、温度が上がらなくて皺がついたまま仕事行ってただろ? 一輝は自分のことになると、途端に無頓着になるから。 ……一輝には、いつまでも俺が知ってるかっこいい兄貴のままでいてほしいから」
「……ありがとう、一真。助かるよ」
僕はその贈り物に、ただ純粋に感動していた。これこそ、一生ものじゃないか。
「これ、ハンガーにかけたまま使えるし、除菌と消臭の効果もすごいんだって。……一輝に、ぴったりだろ?」
そう言って一真は、どこか陶酔したように微笑んだ。
「……うん。一真はいつも、俺が自分でも気づかないような綻びを、誰より早く見つけて、丁寧に埋めてくれるな」
ワインの酔いのせいか、自然とそんな言葉が零れる。
「なんだか、お前の手の中で、俺という人間が作り直されているみたいだ」
俺が照れくさそうに笑うと、一真は一瞬だけ目を見開き、それから今日一番の、暖かい笑みを浮かべた。だがその笑みは深く、底の知れない様にも見えた。
「……そうかな? 一輝が気づかないだけだよ」
「そうかもな…… ふふふ、そうかもしれない」
熱を持った俺の視界の中で、一真の微笑みが柔らかく滲む。眩しさに目を細めれば、こたつの熱気さえも心地よく、俺は自分が、弟という名の深いゆりかごの中に沈み込んでいくような錯覚を覚えた。
明日からこのアイロンを使うたびに、一真の優しさを思い出して頑張れるだろう。
一真が選んだのは、僕の肌に最も近い「シャツ」を整える道具。
僕が選んだのは、一真が真実を求めて地を這うための「靴」。
ワインの酔いと新しい革の匂い、そしてアイロンが上げる熱い蒸気の中で、俺たちは手を取り合って、八六四〇万円という名の『呪い』を解くために、暗闇を歩き続ける。
「……頑張ろうね、一真」
「うん。一輝も」
俺たちはコップに残っていたワインでもう一度、乾杯した。
4話 登場人物紹介
• 3棟501号室:吉祥 一輝
弁護士。大手法律事務所に勤務。実家との絶縁代である8640万円(一人4320万円)を稼ぐため、年末年始も返上で案件をこなす。弟の献身を純粋な「兄弟の絆」だと信じて疑わず、自分が巧妙に管理・囲い込みをされていることには気づいていない。しっかり者を装っているが、家ではどこか抜けており、その「隙」さえも弟に愛されている。
• 3棟501号室:吉祥 一真
一輝への歪んだ執着を抱えており、兄の日常を自分色に塗りつぶすことに至上の悦びを感じる。
スチームアイロンを贈ったのは、単なる親切ではない。一輝が外の世界で浴びてきた「他人の気配(匂いや菌、埃)」を熱い蒸気で根こそぎ焼き払い、一輝を自分の管理下に浄化して戻すためである。
「一輝にぴったりだろ?」という言葉の裏には、兄の肌に最も近いシャツを自分が整え、自分がいなければ清潔さすら保てない身体にしたいという、底なしの独占欲が潜んでいる。




