⚫︎1月7日-暖かさに捕らわれて*3【2棟602号室:茅野 蓮慈】
食後の片付けが始まると、俺はどうしても座り続けることができず、皿洗いを買って出た。
人様のキッチンを借りるなど恐縮の極みだが、試験を控えた子供たちが勉強(の恐らく真似事)を始めているのに、大人一人がのうのうとしているのは落ち着かない。
何より、これ以上ないほど温かいもてなしを受けたのだ。これくらいはさせてもらわないと申し訳が立たないのである。
「助かりますわ〜。やっぱり冬の水仕事は、手が荒れますからね」
美紗子さんは、俺が洗った食器を丁寧に拭きながら、穏やかな声で話しかけてきた。
「そうですね。特にお湯を使っても、この時期は……」
「そうそう。だから二葉も、毎日真っ赤な手で帰ってきては、必死にハンドクリーム塗ってるんですよ」
洗剤の泡にまみれた俺の指先が、ぴたりと止まった。
……家族は、知っていたのか。
「すみません先生。実は、私たちがバイトを黙認してました」
美紗子さんは少しだけ申し訳なさそうに、でも誇らしげに目を細めた。
「家族も、谷さんも、あの子の友達も、最初はみんな止めたんです。でも、二葉の意思が本当に強くて。誰に似たのかしらねぇ」
俺は何も言えず、ただ流れる水の音を聞く。
「今日、二葉が帰ってきてすぐに言われたんです。『先生にバレちゃったけど、秘密にしてくれるって言ってくれた』って。本当に、ありがとうございます。先生が二葉の気持ちを汲んでくださったこと、家族として心から感謝しています」
その言葉が、俺の胸に刺さっていた「教師としての棘」を、優しく溶かしていく。
今までの俺なら、嫌われるのを恐れて見て見ぬふりをするか、あるいは責任から逃げるために無機質な正論を振りかざしていただろう。
迷い、悩み、それでも一人の生徒と真剣に向き合って下したこの決断を、もう後悔する必要はない。
傲慢にも彼女を救おうとしていた俺が、その実、彼女の家族の想いに救い上げられていた。
(ああ……俺もようやく、あの子たちの熱に当てられたのか)
自分が少しだけ、前とは違う景色を見ていることに気づき、俺は小さく息を吐いた。
美紗子さんは、二葉のバイト先での様子を、まるでお裾分けするように楽しそうに話し続けた。
「あの子、毎日楽しそうに話してくれるんですよ。谷さんのオムライスのこだわりとか、変なクレーマーを追い返した話とか。……あ、そうそう。最近は『すごい人がいる』って、そればっかり」
「すごい人、ですか?」
美紗子さんは、食器を棚に収めながら可笑しそうに笑った。
「なんでも、ヨータニに流川さんっていうバイトリーダーがいるらしくて。普段は消え入りそうな声で『辞めたい、帰りたい』って泣き言ばっかり言ってるらしいんですけど……。忙しさが限界を超えると、急に人が変わるんですって」
「へえ。二重人格ってやつですか」
「ええ。声に張りが届いて、淀みのない完璧な指示を飛ばす司令塔に変身しちゃうんですって」
流川、という名前に、俺は一瞬、もしかしてと記憶を辿った。
702号室の流川恵乃。回覧板を届けに行った時にチラッと見たことがあったが、オドオドと言うよりはどこか近づきがたいオーラがどこか溢れていた様な気がするのだ。帽子を深くかぶっていて顔はよく分からなかったが、まあ恐らく別人だろう。
「二葉はそれがかっこいいって思ってるらしくて、忙しくても頑張れるらしいですよ。それが葵にとっての推し活だって」
「……そうですか。……いや、ええ、そうですね」
二葉がヨータニで見つけているのは、きっと教科書には載っていない「大人の必死さ」や「仲間との絆」なのだろう。
「良い仲間に出会えたようで、安心しました」
俺は最後の皿を洗い終え、蛇口を閉めた。
キッチンから居間に視線を移せば、机を囲んで勉強する……いや、お喋りに花を咲かせている二葉たちの笑い声が聞こえる。
俺がルールを曲げてまで守ったものは、ただの「バイト」ではない。一人の少女が懸命に育もうとしている「世界」そのものだったのだ。
第7-3話 登場人物紹介
• 2棟602:茅野 蓮慈
三条女子高校1年1組担任。
「エゴでも何でも、ぶつかってみることに意味がある」と38歳にしてようやく悟り、少しだけ晴れやかな顔で皿洗いに勤しむ。しかし、背後で美紗子さんから「この人の豆腐は卵豆腐じゃなかったんだ……」と、とんでもない偏見を持たれていることには全く気づいていない。
• 2棟401:葵 美紗子
二葉の母親。当初は誉志の祖父母宅での開催予定だった鍋パを、「娘がお世話になっているお礼をしたい」と自宅に招致した。同じアパートに住む茅野先生に対しては、「ミステリアスな独身貴族だし、家では高級な卵豆腐しか食べないタイプでは?」という超個人的な偏見を抱いていたが、焼き豆腐を3パック持参して黙々と皿を洗う庶民的な姿を見て、好感度が爆上がりしている。




