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⚫︎1月7日-暖かさに捕らわれて*2【2棟602号室:茅野 蓮慈】

――午後十九時。

(どんな理由であれ、特定の生徒を特別視してはいけないのではないか?)

(教育者として、規律から外れることの危うさを、もっと厳しく教えるべきだったのではないか……?)

 頭の片隅にこびりついた葛藤は、じわじわと俺の精神を蝕んでいく。

 いつもなら、もっと割り切れるはずだ。だが、あの指導室で見せた彼女の「荒れた指先」が、どうしても脳裏を離れない。


 ……結局、まともに業務を続けられるわけもなく、俺は重い足取りで帰路に就いた。

 職員室を出る際、他の先生たちに顔色の悪さを心配されたのだが、鏡を見ずとも、今の自分がどれほど情けないツラをしているかなんて想像は容易い。

 新人教師でもあるまいし、たかが一生徒の校則違反にこれほど思い悩むなんて。


(……きっと、休み明けで色々あって疲れとるんやな。明日はテストだけやし、今日はもう帰って寝よう)


 そう自分に言い聞かせ、アパートへと辿り着いた俺を待っていたのは、静寂とは程遠い「嵐」だった。

「あ、茅野先生やん。捕獲じゃ〜!」

「まさに運命ですね、先生」

 二棟のエントランスをくぐるなり、聞き覚えのある弾んだ声が二つ。

 そこには、買い物袋を両手に下げた城山誉志と桐島彩月が、獲物を見つけた猛獣のような笑みを浮かべて立っていた。

「……城山に、桐島。お前ら、こんな時間にこんなところで何をしてるんだ。明日はテストだぞ」

 嫌な予感がして一歩後ずさるが、逃がしてくれるような連中ではない。二人は慣れた手つきで俺の両脇をガッチリと固めた。

「これから二葉んちで、勉強会も含めた鍋パーティーなんですー! 先生がいれば百人力やなあ〜、うへへへへ」

 わざとらしく、それでいて楽しげに笑いながら、城山が俺の腕を引く。

「いや、俺はこれから家でも仕事が……」

「じゃあ勉強会しながらやりましょうよ! 平均点、上げたいでしょ? それに今日は、凄く体に優しい鍋なんですよ」

「は?」

「先生、今日朝から顔色悪かったやん? 二葉のこと、気にしてくれてたんやろ。七草食べてぽかぽかして、体も心も休めましょう!」

「そうですよ先生! 加子の鶏団子、生姜入りでめっちゃ美味しいんですから! 食べないと損ですって!」

「いや、待て、放せ」という俺のささやかな抵抗は虚しく、エレベーターの閉まる音にかき消された。俺はそのまま、2棟401号室へと強制連行される羽目になった。

 教師としての威厳も、今日一日の葛藤も、彼女たちの強引な若さの前では、今はただ無力だったのである。


「ただいま戻りましたー!」

「先生も捕獲してきたよ!」

 二人の元気な声に挟まれ、俺は家庭訪問でもないのに生徒の家へと足を踏み入れる。

「あら先生! いつも二葉がお世話になってます」

「すみません先生、うちの子たちがご迷惑を……」

 出迎えてくれた葵の両親の、飾らない、それでいて誠実な挨拶に、俺は慌てて頭を下げた。

「ああ、いえ、こちらこそ! 急に押しかける形になってしまって……。すぐに失礼しますから」

「何言ってるんですか! 二人に買い出し頼んだのに、パパまで大量に買ってきちゃって、具材が余って困ってたんです。ぜひ食べていってくださいな!」

「ええ……そんな……」

 お言葉に甘えるべきか本気で渋っていると、キッチンから香具山が飛び出してきた。

「あ、先生! ええところに! 先生の家、鶏ガラありますか? ちょっきり切らしてしもたんです」

 差し出された空のパッケージを見て、俺は思わず頷く。

「ああ、あるよ。取ってこよう。他にも足りないものはあるか?」


「木綿か焼き豆腐、ありますか? パパも誉志たちも、みんな絹ごし豆腐を買ってきちゃったんです」


 声をかけてきたのは、二葉だった。

 つい先刻まで指導室で泣いていた面影は、もうどこにもない。どこか吹っ切れたような、少しだけ背筋が伸びたような……そんな凛とした空気が彼女から伝わってくる。

(……いつもは城山のようにタメ口のくせに、こういう時だけ)

 よそ行きな彼女の態度に、俺の心のおりが、少しだけ解けていくのが分かった。

「ああ、あるよ。焼き豆腐一パックでいいのか?」

「え、二つもあるんですか? 焼き豆腐なんて」

 二葉が、ふふっと白い歯を見せて笑う。

「三パックある」

「多すぎる! いつ使うんですかそれ!」

 そのツッコミに、俺も思わず快く笑い声を上げた。


ーー


「いただきます!」


 食卓を囲めば、そこには出汁の効いた温かい鍋が待っていた。

 久しぶりに大勢で囲む食卓。久しぶりに食べた七草に鶏の出汁が染み込んで旨みが広がり、香具山が作った鶏団子は、生姜が効いていて体の芯から温まる。「美味しい」という当たり前の実感が、心の底から零れ落ちた。

 ふと見れば、形が不揃いな団子の中に、何個か「星形」が混じっている。

「あ、その星形、私が作ったんですよ」

 二葉が誇らしげに胸を張る。

「……だと思った」

 また、二人で見つめ合って笑った。

 今度は冷たい指導室ではなく、湯気の向こう側で。

 教師と生徒ではなく、このアパートに住む「ご近所さん」として、俺の肩からゆっくりと余計な力が抜けていくのが分かった。

第7-2話 登場人物紹介

• 2棟602:茅野かやの 蓮慈れんじ

三条女子高校1年1組担任。

「豆腐が一番太らない」という説を信じており、冷蔵庫には常に様々な種類の豆腐がある。今日は精神的にボロボロの状態で帰宅したが、教え子二人に両脇を固められ、抵抗虚しく葵家へ連行された。本人は「弱っているから振り解けなかった」と思っているが、実は相手が全盛期の彼でも勝てないほどの猛者たちであったことには、まだ気づいていない。


• 2棟401:あおい 二葉ふたば

三条女子高校1年1組。

「楽しいパーティーは見た目から!」がモットー。指導室で見せた涙はどこへやら、星形の肉団子や人参を仕込んでゲストを迎える。内心では教室での一件もあり、茅野先生と顔を合わせることにヒヤヒヤしていたが、先生の穏やかな笑顔を見て、安心している。


• 2棟402:香具山かぐやま 加子かこ

三条女子高校1年1組。

老舗旅館の令嬢ながら、その堅苦しさから逃げ出してきた自由人。料理の腕はプロ級で、今回の「七草鶏だし鍋」の総指揮を執った。茅野先生が漏らした「美味しい……」という小さな呟きを逃さず聞き取り、(これは社交辞令じゃない本気のご馳走様だ!)と密かにガッツポーズを決めている。


• アパート外:城山きやま 誉志ほし

三条女子高校1年1組。

「後は全部なんとかする!」がモットーの、後先考えない突破力の持ち主。ド天然な振る舞いで周囲をヒヤヒヤさせるが、実はグループ随一のIQを誇る。教室で二葉の「バイトバレ」のピンチを知り、「よし、慰めと勉強会を兼ねて鍋パしよう!」と即断即決した発起人。彩月直伝の柔道(県大会レベル)により、逃げようとした先生をガッチリと「捕獲」することに成功した。


• アパート外:桐島きりしま 彩月さつき

三条女子高校1年2組。

淑やかな美女を目指し、柔道全国1位の過去を隠している「隠れ武闘派」。買い出し中にアパートで茅野先生に遭遇し、その顔色の悪さから「先生も先生なりに、二葉のことを考えてくれていたのかも」と直感。先生の心を解きほぐすために「先生も誘おう」と誉志に提案した、優しき軍師である。華麗な足捌きで退路を断ち、先生を401号室へと導いた。

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