第三節 嘲りの、果実
午前四時三十九分。
帝国中央政策庁・第七区管理棟。
その上層階、絹と鋼で築かれた重厚な私室で、ヴァレンティン・シュトラールは一人、光のない目でモニターを見つめていた。
映っているのは、昨日の灰色区域における記録映像――
正確には、断片的にしか保存されていない、旧式センサーによる低解像度のログと、途切れた音声ファイル、熱源の軌跡だった。
帝国の監視網は確かに精緻だ。だが、その全体像は常に“不完全な知識”の集積にすぎない。
──ゆえに、分析する者の能力こそが、情報の価値を決定する。
そして、帝国本土でその力をもっとも高く買われているのが、他ならぬヴァレンティンだった。
「……どうして、そこを通った?」
彼の指先が、ホログラム上の灰色区域第六ブロックをなぞる。
廃棄予定区域。炊き出しが行われた広場。流れた熱量。整備記録。電力の分布。
記録上、アウレリオが通る必要のないルートだった。
それなのに、彼はわざわざ監視の死角に三度入った。
最初は偶然かと思った。
だが、同じ日、同じ死角を三度も通るのは「偶然」ではない。
「こちらが“偶然”と処理するだろうという前提で動いたな」
ヴァレンティンは静かに頷いた。
「この虫ケラ……ずいぶん手間をかけてくれる」
だが、口元にはうっすらと笑みが浮かぶ。
その笑みは、愉悦とは異なる。破壊を予感したときにのみ浮かぶ、征服者のそれだった。
机の上には、複数の記録が積まれている。
•アウレリオの改ざんされた倉庫記録。
•機器エラーを装って仕込まれた認証データの取得履歴。
•わざと見えるほど不自然な倉庫使用の偏り。
•そして、あまりにも揃いすぎた「証拠」。
「……この“綻び”は、奴が残したんじゃない。奴が、“こちらに拾わせた”のだ」
帝国の分析官たちは、全会一致で「発見だ」と喜んだ。
“汚れ仕事を暴いた正義”のような達成感に酔った。
──それがアウレリオの狙いだった。
「証拠が揃いすぎているという違和感。それを感じたのは、私だけか……?」
違和感の正体は、次の瞬間には明瞭になっていた。
「奴は、証拠を残して誘導することで、“監視網の焦点”を狭めた。
我々がそれを発見したとたん、ほかの可能性に目を向けなくなるように。そう設計したのだ」
あまりにも自然に、あまりにも容易に発見できる不正。
それらがひとつのストーリーを形成するように並べられていた。
「……虫ケラの分際で、“物語”を編んだつもりか」
帝国の官僚たちは、その筋書きを“真実”だと信じ、満足した。
だが、ヴァレンティンにとっては、その筋書きの美しさそのものが罠に見えた。
「人間は、意味を発見すると思考を止める。
下等種の反乱など、動機と証拠が一致した時点で終わりだと。……まったく、愚かな構造だ」
彼は、自らの属する帝国をも皮肉って笑った。
だが、その笑いの裏には、絶対的な支配者としての自負がある。
「すべては“支配するための理解”。奴が仕掛けた罠ごと、踏み抜いてやるよ」
彼は席を立ち、壁に埋め込まれた地図を見た。
視線の先には、かつて“消された道”――旧帝国地下物流路の名残。
表向きは数十年前に爆破されたとされるその経路は、いま微かな電力反応を示していた。
誰も注目していなかった数値。だが、ヴァレンティンの目はその“微細”を逃さなかった。
「死んだ道に、息を吹き返させたか。……よほど、鼠が好きらしい」
その小道は帝国の監視圏外。つまり、帝国が捨てた“影の道”である。
──そこを通して食料を運んだ。
──灰色区域の子どもたちを飢えさせずに済ませた。
アウレリオの本当の作戦は、「死んだ道を生かす」ことではなかった。
そのルートを**“誰にも見つからない”ようにするために、わざと他の場所で目立った**のだ。
「虫けらの分際で、“目の使い方”を操ったか」
彼の目に浮かんだのは、興味ではない。怒りと侮蔑、そして破壊欲だった。
「──だが、お前は一つだけ読み違えた。
“灰の会”という器に、帝国が手を突っ込まないと思っていたのならな」
ヴァレンティンは通信端末を操作する。
「仲間の信頼など、ひとつの毒で崩れる。お前の組織は“疑い”に弱い。
こちらが次に流すのは、罠ではない。毒だ」
彼の声は、室内に誰もいないのに、響き渡っているように感じられた。
「私は、お前のような“意志”を持つ虫をもっとも嫌う。
思考を持った奴隷は、使い道がない」
そして、微笑んだ。
「……殺すのが一番美しいな。理想ごと潰れるからな」
彼の指が、「出力」のキーに触れた。
ホログラムには、廃墟の中で笑う子どもたちの姿が映っていた。
その中央に立つ、ひとりの男の背中。
その名前を、ヴァレンティンは静かに口の中で繰り返した。
「アウレリオ。お前の信じた器を、私が壊してやる」
第四節 嘘の、器