第二節 地図を描いた少年
この国の朝は、もうずっと、息が詰まるほど静かだった。
特別自治区・シントウ第三区。
帝国の統治が始まって十七年。空は濁り、太陽は防塵膜の奥にうっすらと透けていた。
街路樹は伐採され、かつて駅だった建物は“物資選別センター”に変わった。
標識は帝国語に書き換えられ、信号機は、止まったまま二度と点かない。
人々は口を閉ざし、目を伏せて歩く。
笑い声も、叫び声も、もはや生活音には含まれなかった。
そのなかで、ひときわ場違いな声が響いた。
「やあ、今日も絶望的な天気だね。おかげで人類の絶望への順応力が試されてる気がするよ!」
振り返る者は、いない。
帝国の巡視兵に耳をとがらせる者すら、もういなかった。
声の主は、十八歳の青年・アウレリオ・グランツ。
傘も差さずに濁った空を見上げ、駅跡地の階段に腰を下ろしていた。
黒髪に赤いジャージ、どこか古びたトートバッグ。
帝国式制服でもなく、作業着でもない。だから彼は“無職”だと見なされている。
「さて、今日も仕事探し……はやめにして、焙煎モヤシの屋台が開くのを待つか」
彼はポケットから折りたたんだ紙切れを取り出し、静かに広げる。
そこには、都市ごとの食糧配給率、燃料入荷量、帝国軍の警戒頻度、治安維持部隊の移動履歴、民間学校再開申請件数――
ありとあらゆる「どうでもいい」とされる情報が、細かな字でぎっしり書き込まれていた。
「ここで食料が上がって、こっちが減る……でも取引ルートは生きてる? おや、帝国の輸送車が別ルートに……面白いな」
彼は指先で数字をたどり、唇の端をわずかに上げた。
誰も気づかない。
この無職の青年が、帝国の配給体制の“盲点”を突き止めかけていることに。
「ねぇアウレリオ、それってまた“勝手に”やってるんじゃないでしょうね」
その声に、アウレリオは顔を上げた。
そこには、無表情な少女が立っていた。
肩までの黒髪、灰色のワンピース、そして警戒心を隠すように両手を後ろに組んでいる。
ミレーヌ。帝国支給の職員証を持つ、いわば“帝国に雇われた側の人間”。
「やあ、おはようミレーヌ。今日も可愛い裏切者!」
「挨拶にしては刺々しすぎます。それともあなたがまた何か余計なことをした予兆?」
「予兆というより、ほら、これ。配給ルートのバグを見つけた。帝国の管理体制に抜け道があるんだ」
「それ、また演説にでも使うつもり?」
「演説じゃないさ。“注意喚起”だよ。君たち帝国サイドの方々にね」
ミレーヌは一瞬だけため息をついた。
だが彼の紙に目を落とすと、その表情が微かに変わる。
「……この数字、本当に合ってるの?」
「うん。全部、公的掲示板と監視カメラのタイムスタンプから拾った。誰にでも見える情報だけど、誰も“見よう”としないだけ」
「あなた、ほんとに十八?」
「君がそう聞くの、もう三回目だよ」
アウレリオは立ち上がり、濁った空をもう一度見上げる。
その目には、諦めでも反抗でもない、何か別のものが宿っていた。
それは、火を灯す者の目だった。
「なぁミレーヌ。もし、帝国のやり方に“論理的な穴”があるとしたらさ――
それ、僕が証明したらどうなると思う?」
ミレーヌは答えなかった。
だがほんの一瞬、彼女のまばたきが止まった。
その沈黙が、答えだった。
アウレリオの頭の中では、もう一つの地図が広がっていた。
この街の配給ルートではない。
帝国という“構造そのもの”の、矛盾と綻びを結ぶ線だった。
夜の特別自治区第三区――かつて“東京”と呼ばれていた場所。
地上は静かだったが、空には帝国の無人監視機が定期的に音を立てていた。
その下、シャッター街と化した元商業通りを一人の青年が歩く。
アウレリオ・グランツ、十八歳。帝国の記録では「無職の平民」。だが実際には、ここ半年で複数の物資保管庫に出入りし、統計資料を“盗み見ていた”。
目的は、帝国が握る配給体制の“穴”を見つけるため。
帝国は表向き、「自治区に均等な食料と燃料を供給している」と主張している。
だが実態は違った。食料は偏在し、燃料は“協力的な区画”にのみ回され、病院さえ例外ではなかった。
「……地図が歪んでるんだよ」
アウレリオはそう呼んでいた。
どの地区に何が運ばれ、何が止まっているのか――
その全体像は、帝国側の記録には存在しない。
各区画を分断し、情報を遮断することで、不満が“個別の不運”として処理される仕組みだった。
だから彼は、“配給の地図”を作ろうとした。
地区ごとの入出荷記録、配布日、量、構成品目、それらを線で結び、供給の偏りを可視化する。
そして今夜、その地図が完成する。
⸻
地下鉄跡にある廃倉庫の一角。
かつて車両整備に使われていた壁に、紙が何枚も貼られていた。
「……これが“地図”」
ミレーヌが立ち尽くす。
燃料供給の流れが赤い線で、食料が青い線で描かれている。
本来なら均等であるはずの線が、まるで“意図的に避けるように”第三区を避けているのが、一目でわかる。
「酷い……。ここ、全域で半月以上配給が来てないのね」
「うん。で、ここ。第二区と第六区の境界で、奇妙な物資の“転送”が起きてる」
アウレリオが指差すのは、矢印が逆流している交差点だ。
普通、物資は中央から末端へ流れる。しかしそこだけ、逆方向に。
「つまり、特定の住民層にだけ、優先的に配られてる。“選別”されてるってことだ」
「……これは、公開すれば殺されるわよ」
ミレーヌの声が冷たくなった。
帝国は“武器を持った反乱”だけを敵視するわけではない。
本当に恐れているのは、“民が考えること”だ。
数字と事実で構造を暴く行為――それこそが、帝国にとっての最大の脅威だった。
「でもこれ、貼っていい?」
「――貼るつもりなのね」
アウレリオは鞄から糊を取り出した。
壁の向こうには、明日の配給を待つ列がある。
そこでこの“地図”が晒されれば、見た者は「自分たちがどう扱われているか」に気づく。
「僕はね、誰かに“怒れ”って言いたいわけじゃない。ただ、“考えて”ほしいだけ」
ミレーヌは、ほんの少しだけ目を細めた。
「あなた、時々ほんとにバカよね。人間は、思考より怒りの方が簡単なのに」
「でも怒りから始まってもいい。いつか“考える”に辿り着けば」
「……せめて、貼る位置は目立たないところにしなさい。死ぬの、まだ早いから」
⸻
そして、翌朝。
帝国の物資管理官が配給倉庫を視察していた。
通りすがりの老人が、奇妙な壁一面の「地図」に立ち止まり、眉をしかめる。
それを見た監視機が飛来し、数分後には数名の兵士が派遣された。
紙は全て剥がされ、通りには即席の検問所が設けられ、
その日の午後には、第三区全域での“治安維持行動”が発令された。
地図を貼っただけで――街が、焼かれる。
「情報は、弾より危険だ」
それを知っていたから、アウレリオは貼った。
そして、自分が狙われると分かっていて、姿を消した。
ミレーヌは、倉庫の隅に残された糊の残り香を嗅ぎながら、小さくつぶやいた。
「……どこまで、計算済み?」
それが、次の惨劇の序章であることを、彼女はまだ知らない。
第三節 「ミレーヌの独白 帝国の影」