1【現代】
おれはホモ・サピエンス、二十七歳のオスだ。人間としての名前は酒木雄一郎だが、そんなものはどうでもいい。
おれの今の研究テーマは、タコと会話をすることだ。タコは全身が脳みそといったようなもので、非常に高度な知能を持っている。
タコには喜怒哀楽の感情がある。全身の体色を変化させ、自分の感情を表現するのだ。いつかヒトとタコの会話翻訳機をつくるのがおれの夢だ。おれは、いつもタコのことばかり考えていて……ああそうそう、他にも興味のあることがあった。
朝の通勤途中、おれは動画サイトを開いてみた。今、売り出し中のシンガーソングライターの天竺ヒロトだ。
ギターの弾き語りをしていて、そのテクニックと甘い声には定評がある。
おれはずっとずっと前、ヒロトがメジャーデビューする前、それこそ学生の時から知っているのだ。
彼が町で弾き語りをしている姿を見た時、おれは全身がしびれたように感じた。
――おれが、ずっと探し求めていたものはこれだ!
それから、彼はおれの推しとなったのだ。
しかし不思議だな。おれはタコの脳神経にしか興味がないし、他の音楽を聞くこともない。なぜこんなに彼に惹きつけられるのだろう? まあ、本物のアーティストとは、そういうものなのだろうな。
おれは片耳イヤホンで彼の音楽を聞いてるうち、ふと虚しさを覚えた。
いつか彼は適当な相手を見つけて、そしてそれを発表して、ファンから「おめでとうー!」といわれて、そしておれはその様子を、はるか彼方の遠くから、画面のこちら側で知ることになるのだろうな……。
ヒロトはおれより二つ下だ。そろそろ巣作りをして、繁殖活動をする頃だろう。ああ、もしおれがヒロトの友人だったら……そして、気さくに話し合える関係だったなら……でもまあ、無理だろうな。
――目つきの悪い、陰気なぼさぼさ頭の男。
それがおれだ。異性にも同性にも、アピールするものはないだろう。まあ、べつにかまいやしない。おれは一生、タコと話をして過ごすのだからな。
「あのー、すみません」
おろおろと困った様子の若いメスが話しかけてきた。
「はい?」
「このあたりに郵便局があると聞いたんですけど、ご存じありませんか?」
「一本、道を間違えてますよ。この道を北にいって、一つ目の信号を左折して、五分程度のところにあります」
おれはオスもメスも惹きつけられないない陰気な男だが、一つだけ特徴があった。
それは『よく道をきかれる』こと。
メキシコ湾にタコの観察に出かけても、なぜだか現地人から「すいません、パラモさんのお宅はこのへんにないでしょうか?」と質問される。
――なぜ、おれに?
スマホが普及した今となっても、おれが道をきかれる確率はまったく変わらなかった。
同僚がいうには「おまえって、答えてくれそうだから」らしい。
だが、しょせんは道案内……。
聞いてきたやつは「ありがとうございますー」といって、去っていくだけだ。
若いメスが礼をいって郵便局へ向かったあと、また別なやつが声をかけてきた。
「あの、失礼ですが」
「はいはい……」
――なんとそれは!
おれがさっきまで聞いていた音楽の歌い手、天竺ヒロト、その人ではないか!
「深川第三ビルって知ってますか? あの、その近くに銀行があるんですが……」
「ええ、知ってますよ。この道を左折して、二つ目の角を南にまっすぐ進み、『ユートピア』という喫茶店が見えてきたなら、その脇の道を入って直進すれば、五分後に交差点の向こうに見えてきます」
いつものクセで、ついすらすらと答えてしまった。
いや待て! この機会を逃してはいけない!
「わ、わかりにくいから、おれが案内しましょう!」
「それはありがたいですが、お急ぎではないですか」
ヒロトは心配そうにいった。
「いえいえ、かまいませんよ。そんなに急いでいませんし」
おれは自信満々に、先に立って歩いていった。ヒロトは大人しくついてくる。
「助かります。ぼく、方向音痴なところがあって」
そうだろうな。それでイベント会場に遅刻したこともあったし。
「いえ、いいんですよ」
おれはタコのことなど忘れたかのように、できるだけさわやかに答えた。
この場では、おれが圧倒的優位に立っている……だが! この後どうする?
ビルの前まできたら、ヒロトは「ありがとうございますぅー」と言って、去っていくに決まってるだろう。その時、食事にでも誘うのか? 不自然すぎないか? とりあえず、何か会話をしよう。
「このあたりは初めてなんですか?」
「はい、全然きたことなくって。今日は遅刻するわけにはいかなかったんです」
たぶん、今度出すアルバムの録音だろう。他のミュージシャンとコラボするらしいから。
「へえ、そうなんですか」
――くそっ、話が続かない!
実はファンで……と切り出すか? いやそれだったら、最初に会った時に話をするべきじゃなかったか? 今さら言い出すのもおかしくないか?
ああ、あの信号をわたれば深川第三ビルだ! どうしよう!
「あの……」
ヒロトは足をとめて、おれの顔を見つめた。
「どこかで会ったことはありませんか?」
なんだそれは。昔のナンパの定番セリフか?
だが、まあおれは路上で、ヒロトの弾き語りを遠くから何度も見ていた。おれがヒロトの記憶に残っていた可能性もある。そう、これは良いきっかけになるぞ。
――もしかしたら、天竺さんじゃないですか? どこかで見たと思ったんだけど……。
こんなふうに話が続けられるじゃないか。さあ言え!
「もしかしたら……」
――その時だった。
突如、車のスリップ音が響いた。F1レースでもやってるのかというくらい、急激なコーナリングで、軽トラが交差点に突っ込んできた。
荷台のロープが、ばちんとほどけた。
こちらに飛んできているのは何だ? ハトか? 紙飛行機か?――いや、荷台に積まれていた角材だ!
「あぶないっ!」
おれはヒロトを抱きかかえて、道に伏せようとして――みしっ、と。
頭蓋骨に、何かがぶちあたった。ヒトの頭蓋骨は、やわらかい脳髄を守るために発達した。とはいえ、決して強靭なものではない。そこが弱点なのは変わらない。
こりゃあ、ダメだ。おれは死んだな……まあ、いいか。大好きな推しを守って死ねたんだ。これも運命というものだろう。
いや待て、書きかけの論文があるじゃないか。それに研究費の申請が通ったばかりなのに。もったいない! ああ、せめて推しと握手してから……道案内……タコ。
おれの意識は、タコのスミのような暗黒に溶けていった。