旨い酒と映画
基本的な型のレクチャーをジークから受けるのは、座学的なパートと実際に体を動かしてみる
パートに分かれる。
座学はその動きにどう云う意味があるのか?とか、人間の常識から逸脱しつつある俺の身体能力で出来る事等の講義というか質疑応答。
実際に体を動かすパートは、最初の頃は相手からの攻撃を受ける方法だった。
そう、受けるのだ。
俺の進化した反射速度と身体能力をもってすれば、わざわざ受けなくとも
避ければいいんじゃないか?
そう思った俺は、率直に聞いてみた。
「ジーク、攻撃された時、避けちゃダメなのか?」
【最終的には、避ける訓練もしますよ。ですが、避けるだけなら訓練の必要は
さほど無いのです】
「どう云う事?」
【避けるだけなら、私が距離と方向を指示するだけで、田中さんはすぐに対応できます】
「そうだろう?それなのに、攻撃を受ける訓練の必要性がイマイチ判らないんだ」
【この先、田中さんが常に単独で戦うのでしたら、避ける事と攻撃する事だけ覚えれば大丈夫ですね。
ですが、今は攻撃を受けなければならない場面を想定しているので、受けの型を覚えて貰っているのですよ】
「そんな場面って、実際にあり得るのか?」
【すぐに思い付くだけで、2パターン程有りますよ】
「へえ、有るんだ?」
【まず、今後の訓練では、いくつかの格闘技経験者相手に組手を行います。
空手・柔道・ボクシング辺りが、経験し易いでしょう。
その時、田中さんが凄いスピードで相手の攻撃を躱し続けていたら怪し過ぎません?
また、そもそも柔道の場合、組む所から始まるので、最初から避けると云う選択肢は無いんですよ】
「そりゃそうだ。実戦なら避けるだけでも良いかもしれないけど、組手の時に
全部避けてたら、訓練にならないもんな」
でも……。実戦で全ての攻撃が避けられるなら、受けの訓練はそもそも不要だよなと思った。
【例えば、室内で多数の敵が一斉に何かを投げつけて来た場合はどうでしょう? 投擲に限りませんが、弓矢・ボウガン等の射出武器、囲まれた上での一斉攻撃等意外と全てを避ける事が難しいシチュエーションってあるものなんですよ】
「室内でと言ったな?そんな状況に陥ったら、屋外でも躱せない気がするけど?」
【田中さんの身体能力が第二・第三と進化するにつれ、取れる手段も増えますから屋外での戦闘の場合は、多数が相手でもまず当たりませんよ】
「進化のプロセスは何段階に分類されていて、それぞれの進化が完了するのに
どれくらい掛かるんだ?」
【何段階あるかは、今の所判りません。少なく見積もっても4~5段階です。
それ以上、何段階あるのかは、始まってみないと判りません。
一旦進化した能力が体に馴染んだ後、次の進化が始まるので、その時になって初めて次の進化があると認識出来るのです。
それぞれの段階に要する時間も、始まってみなければ予測出来ないので不明です】
お、おう……。
「そうか。じゃあ、その時になったら教えてくれよ」
【心得ています。話が脱線しましたが、もう一つのシチュエーションも
話しておきましょう】
「ああ、敵の攻撃を回避する事が出来ない場面の話だな」
【はい。思い付く二つ目のシチュエーションは、田中さんが単独で戦えない場合です】
「具体的には?」
【誰かと共闘しているとか、攻撃を避ける事で、田中さんが守りたい誰かに
その攻撃が向かってしまう等、これは大いにあり得るケースです】
納得してしまった……。
確かに、誰かを巻き込む可能性がある攻撃は、避ける訳にはいかないよな。
「納得したよ。トレーニングを続けてくれ」
【了解です。受けの型を一通り理解したら、続けて捌く型を覚えて貰います】
「受けと捌くのって違うんだな」
【そうですね。受けの上位互換が捌きと云う側面がありますよ】
そんなやり取りをしつつ、真面目に型を習得していく。
【来週は実戦に備えてのトレーニングを取り入れても良いですね】
「実戦に備えて?自衛隊にでも行くのか?」
【軍隊でのトレーニングは、するとしてもまだ先で良いでしょう。現状での
体の使い方を確認するのが目的ですので】
「じゃあ、ボクシングジムにでも行ってみるか……。」
と云う訳で週明けからボクシングジムに入門する事にした。
『金曜の夜、時間ある?』
訓練がひと段落して、スマホを見てみると、愛衣さんからLINEが入っていた。
金曜日。
19時が待ち合わせの時間だが、俺は昔と同じ様に15分前には待ち合わせ場所に
到着していた。
「相変わらず、早いのね」
俺より早く待ち合わせ場所に居た愛衣さんが声を掛けて来た。
「そっちは珍しく早くから来てるんだね」
付き合っていた頃は、時間通りに来た試しが無かったのにね……。と続く言葉は飲み込む。
「あら、私だって成長しているのよ」
「はいはい。あ、それはそうと、この間はお騒がせしちゃってゴメン」
「いえいえ、どういたしまして。その話は飲みながらで良い? 詳しい話も聞きたいし」
「食事は?」
「いらないわ。飲みながら何かつまめれば充分」
「そう。なら、居酒屋とバー、どっちが良い?」
「久し振りに会ったんだから、昔よく連れて行ってくれたバーが良いな。
ここから近いでしょ?」
「ああ、【Stranger】か。俺も随分ご無沙汰してるし。じゃあ、そこにしよう」
Stranger……。愛衣と別れてから行った記憶は無いので、かれこれ4~5年ぶりか。
俺好みの品揃えで、落ち着いた雰囲気のバーだった……。
変わって無いと良いけど。
変わってないと云えば、愛衣さんも全然変わってないな……。
別れて5年近く経ってるんだから、今は40歳位の筈だよな?
まあ、相変わらず美人なのは良いけどさ……。
飲むには比較的早い時間なので、バーは空いていた。
「いらっしゃいませ」
ドアを開けて愛衣さんを先に通すと、落ち着いた声が聞こえた。
「ご無沙汰してます」と俺が言うと、
「あ、いらっしゃいませ。本当にお久し振りですね」と、マスターに返された。
カウンターに並んで座る。
メニューが出て来ない所を見ると、マスターの中では俺はまだ馴染みの客であるらしい。
有り難い事だ。
「何に致しましょう?」
おしぼりと灰皿を俺たちの前に並べながらマスターが聞く。
「何が良い?」と俺は愛衣さんに聞いた。
「う~んと。カクテルが良いんだけど、名前が判んない。実さんが勧めてくれた赤いヤツなんだけど……」
「俺が勧めたカクテルで赤いの? 何だろ?」
「なんか、女優さんだか映画の……」
「スカーレットオハラだ」
「スカーレットオハラですね?」
俺とマスターのセリフが重なった。
「田中さんは何にします?」
たったこれだけの会話で、俺の苗字が出て来るのか……。
マスターの記憶力は凄いな……。と、内心驚きながら、
「彼女がスカーレットオハラなら、俺はレットバトラーにしようかな?」と
【風と共に去りぬ】の主人公の名前と、その恋人と同じ名前のカクテルをそれぞれ注文。
共にサザンカムフォートをベースにしたショートカクテルで、レットバトラーの方が少しアルコール度数が高い。
店によっては、レットバトラーを「レッド」バトラーと呼んでいる所もあるが、レットバトラーが正しいと俺は思っている。
なにせ、レットバトラーのスペルは 「Rhett Butler」なのだ。
これは昔愛衣さんに、このカクテルを勧める時、一生懸命調べて覚えた知識だ。
本当は俺もスカーレットオハラの方が飲み易くて好みなんだけど……。
余談だが、俺は【風と共に去りぬ】を読んだ事も映画を見た事も無い。
小気味いいシェーカーの音を聞きながら、何の気なしに店内を見渡す。
俺たち以外、テーブル席に中年の男性客が二人いるだけだった。
「お待たせ致しました」そのセリフと共に、愛衣さんの前には綺麗な赤いカクテル。
俺の前にはくすんだオレンジ色のカクテルが置かれた。
「さて、突然の再会に乾杯しましょ」クスクス笑いながら愛衣さんが言う。
俺は目の高さにカクテルグラスを掲げてから、レットバトラーを一口啜った。
旨い……。
その反面、愛衣さんは二口でスカーレットオハラを飲み干してしまった。
「いくら飲み易いカクテルだと言っても、二口で空ける事はないよ……」
苦笑しながらそう言う俺のセリフに対し、
「これこれ。このカクテルを飲みたかったのよ。マスター、もう一杯お願い」
と愛衣さん。
「畏まりました」と言うマスターの声に、俺の苦笑交じりの溜息が溶けた……。
「じゃあ、本当に怪我はしてないのね?」
ソーセージにフォークを突き刺しながら愛衣さんが聞いてくる。
俺は3本目の煙草に火を点けてから「掠り傷一つ無いって、医者が驚いていたよ」と答える。
スカーレットオハラを2杯飲んだ後、カクテル選びをマスターに一任していた愛衣さんが今飲んでいるのはマイフェアレディ。
その前にはシャンパンカクテルを飲んでいた。
シャンパンカクテルは、映画カサブランカの中で『君の瞳に乾杯』と云う、
余りにも有名なセリフと共に飲まれたカクテルだ。
どうやら、マスターは映画や小説に因んだカクテルをチョイスする事にしたらしい。
俺はレットバトラーの次にギムレットを飲み、ゴットファザーにするかフレンチコネクションにするか悩んだ挙句、フレンチコネクションをちびちびと舐める様に飲んでいた。
なんとなく、映画に因んだカクテルしかオーダー出来ない雰囲気になっていたが、これは俺が勝手に思い込んでいるだけである。
「じゃあ、犯人は捕まったのね?」
フォークに刺さったスモークサーモンを振り回しながら愛衣さんが聞いてくる。
今、彼女が飲んでいるのはプリティーウーマン。
苺のリキュールをシャンパンで割ったカクテルだ。
「ああ、警察から連絡があったし、先方の弁護士と示談の手続きも済ませたよ」
俺の怪我の具合と、事故の状況、そして今更だが何故愛衣さんに連絡が行ったのかも説明した。
愛衣は嬉しそうにプリティーウーマンを飲みながら話を聞いていた。
俺はと云うと、2杯目のフレンチコネクションを持て余していた。
店も随分混雑して来たな……。
12席あるカウンターは満席。テーブル席も7~8割埋まっている。
そろそろ店を出る頃合いだ……。
「さて、そろそろお開きにするか」
「え~、折角のデートなのに、もう帰るの?」
クスクス笑いながら、愛衣さんが言う。
「今夜は沢山飲んだし、店も混んできたし」
俺がそう言うと
「そうね。それじゃ、続きはまた今度ね」と愛衣さん。
マスターに会計のサインを送ると、ホール担当のスタッフが伝票を持って来た。
俺は伝票を見る事なく、クレジットカードを伝票フォルダーに挟み、スタッフに渡す。
程なくして、クレジットの伝票を持ったスタッフが戻って来たのでサイン。
「マスター、また来るよ」
「マスター、ごちそうさま」
「ありがとうございました。お気を付けて」
店を出た俺たちは、腕を組みながら駅へ向かう。
どうやら、昔の距離感が戻ってきたらしい……。
少し名残惜しかったが、駅前のタクシー乗り場で愛衣さんをタクシーに押し込む。
愛衣さんは不満そうだったが、翌日は朝から用事があると伝えると素直にタクシーに乗った。
「今日は楽しかったわ。また飲みましょう」
「ああ、また今度。おやすみ」
「おやすみなさい」
実際の所、明日はボクシングジムに予約を入れてあるのだ……。