最終話
彼の屋敷の一室に通される。
中に入ると、彼は立って窓の外を眺めていたようだったが、私が入ってきたのに気づいて向き直った。
「…書類なら机の上にある。ペンもその横に」
彼は私の向かい側のソファに腰掛ける。
目の前には、婚約解消するための手続きの書類。彼はまだ手をつけていないようで、彼の名前の欄は空白のままだった。
この書類にサインすれば、この関係は終わる。……何だかんだ、悪くはなかったんだけどな。この関係が無くなると思うと、無性に寂しくなる。でも、仕方ない。彼は私のことをそんな目で見ていないだろうから。
サインをしようとペンを手に取った時だった。利き手をぐっと掴まれて、ペンを持つ手が止まる。掴んだのは誰かなんて考えるまでもない。
「え……なんで…」
「っ…好き、だから」
唐突に放たれた思ってもみない言葉に、脳がフリーズしてしまう。
「もう、自分でもどうしようもないくらい…おまえが好きなんだ」
切羽詰まったような目で、彼はじっと私を見つめている。
「手離したくない。俺以外のヤツのものになって欲しくない」
「やっぱりさ…俺じゃ、駄目…?」
「オーウェン、さま…」
今、私は都合のいい夢でもみているんだろうか。
現実を受け止めきれずぽかんとしていると、何を勘違いしたのか、彼が自嘲気味に言い放つ。
「……今更何言ってんだろ、俺。自分から『仲良くする気はない』って言っておいて……はは、自業自得だよな」
彼はソファから立ち上がり、私からそっと距離を置いた。
「悪い、全部忘れてくれ」
「そんでおまえは、意中のやつと婚約するなりなんなり自由にすればいいさ。俺は、なんかこう……上手いことやるから」
そう言って彼は無理やり笑顔を作る。それは見ているこっちが気の毒に思えるほど、随分と痛々しい笑顔だった。
私が呆気にとられている間に、勝手に話が進んでいく。
彼は全部無かったことにするつもりだ。
「幸せになれよな。…俺みたいなのが、入る隙がないくらい」
そんな、ちょっと待ってよ。人の話くらい聞いて。
せっかく好きな人と両想いだって知れたのに、そのまま終わらせてたまるもんですか。
「………忘れません」
「…は?」
「絶対に、忘れてなんかやりませんから」
なんにも分かってない彼に、立ち上がって詰め寄り、もう一度堂々とそう宣言した。
彼がくれた言葉を、私はなかったことになんてしたくない。
「なっ…自分が何言ってるかわかってるのか」
目を白黒させてそんな当たり前のことを聞く彼に「勿論、わかった上で言っているのです」と返事をする。
「オーウェン様。私は、あなたをお慕いしています」
心臓がバクバクうるさいのを無視してはっきりと自分の想いを告げると、彼は「え、あえ……」と言葉にならないような声を零しながら狼狽えた。よかった、私の言葉自体はちゃんと届いているみたいだ。
「で...でも、おまえ、あいつは...アルビーはどうしたんだよ」
なんで急にアルビーの話に……?
不思議に思って、彼に「なんでそこでアルビーさんが出てくるんですか」と聞くとこれまた予想外の言葉が飛んできた。
「だって、あいつに前告白されてただろ」
へ…なんで知ってるの!?
私言ったことあったっけ?心当たりが……いや、待てよ…も、もしかして見られてたのか、あの現場を!
「みっ、見てたのならそう言ってくださいよ!」
「見てたのは確かに悪かったけど、そんなことそう簡単に言えるわけないし言うもんでもないだろ!!」
「大体あんな雰囲気の中に入っていけるのは余程馬に蹴られたいか、ムードのむの字もないやつくらいだろうさ!って違う、そうじゃなくてだな……」
なんとなく状況が分かってきた。つまり、彼は今の今まで私とアルビーがそういう仲だと勘違いしていたわけだ。もしかすると、彼が以前よりよそよそしくなっていたのもそういうことだったのかも。
私がアルビーに告白された頃といえば……え、じゃあずっと前から両想いだったの!?
あーもう!あれだけ散々悩んでたのがバカバカしくなってきた。恥ずかしいったらありゃしない。
「……した」
「何、なんて?」
「断 り ま し た と 言 っ た ん で す!!」
「!…本当か?」
「ここで嘘つく必要なんてないでしょう」
勘違いしたままだった彼にそう言うと、今まで見たことないくらい嬉しそうに顔をほころばせた。サンタさんに欲しいものでも貰った子供みたいな顔。こころなしか犬の耳としっぽの幻覚が見える気がする。
「そうか…なんだ、断ったのか……」
「そんなあからさまにほっとしないでくださいよ。貴方のその顔を見てると気はずかしくてしんでしまいそうです」
そこまで素直に喜ばれると、かえってこっちが恥ずかしくなってくる。
…ああ、そうだ。大事なことを確認しておかないと。
「その…婚約は解消しなくてもよろしいでしょうか」
「……!ああ、勿論」
彼は力強くそう頷いた。
ふたりの間に沈黙が流れるが、不思議と気まずくは無い。言葉にするとしたら…そう、ぽやぽや、みたいな。そういった暖かな沈黙に包まれている。
そっと私のそばに来た彼は、緊張した様子で私の腰に優しく片方の手を添えた。
「なあ、カミラ……」
少し掠れた低い声。
何か求めているような、熱の篭った目を向けられる。
何となくそれに応じるようにまぶたを閉じた。唇に温もりを感じる。ただ触れるようなキスだけれど、それだけでなんだか幸せな気持ちになる。
なんだかんだ言って、ちゃんと唇にしたのは2回目だ。
「セカンドキスしちゃいましたね」
「…ああ、一緒の役員だった時に事故でしたやつか。あれはノーカンにするとか言ってなかったか?」
「だって、忘れられないんですもん」
素直にそうつぶやくと、彼はもう片方の手で自身の顔を覆って隠した。
「っ、そうやってすぐお前はそういうことを言う……」
「お嫌でしたか?」
「ぜんぜん。やじゃない」
顔は残念ながら見えなかったが、耳元が真っ赤なのが視界に映り、彼の言葉通り嫌そうではなくてほっと胸を撫で下ろした。
彼は数秒だけそうしていた後、真剣な顔をして向き直る。
「…改めてちゃんと言わせてくれ」
「カミラ、おまえが好きだ。それから……ありがとう、俺を選んでくれて」
「絶対、幸せにするから」
不器用ながらも言葉を選んでそう告げる彼に、嬉しくなって思わず笑みがこぼれる。
「私だけ幸せでもだめです。一緒に、幸せになりましょう?」
彼は少し驚いた顔をした後、ふっと微笑む。
「ああ、その通りだな」
掴んだこの手を離すことはないだろう。
この先にはまだたくさんの困難があるかもしれない。でも、きっと彼となら大丈夫。困難にぶち当たってどれだけ喧嘩したって、最後にはちゃんと仲直りして笑い合えるから。
ここまで閲覧いただきありがとうございます。一応、本編はこれにて終了となりますが、幾つかおまけの話を用意しております。ちまちま投稿するのでもしよかったらどうぞ。
 




